第37話 コウカンジョウケン

◇◇◇◇◇



「アキトってさ、あんまり怒ったりしないよね」


 ホノカの部屋で昼食を済ませたハルが、テーブルの上のスティック飲料に手を伸ばしながらなんの気なしに言う。

 そのひと言に大げさに反応したのは、ほかの誰でもなくホノカだった。


「ハル! あんた、だまされてるわ!」


 電気ケトルのスイッチがカチリ、と切れるのと同時に、ホノカはわずかに腰を浮かせて両手をテーブルについた。

 空のティーカップが、カチャン、と振動して音を立てる。


「ホノカ危ない」「ごめん」


 短く返したホノカが腰を落ち着けると、ハルは電気ケトルからカップにお湯を注いだ。

 湯気に乗って、ふわりと紅茶のかおりが立ちのぼる。


「だって、キョウヤみたいに大きい声出したりとかしないし。なんかいっつも穏やかなかんじ?」


 常日頃から微笑みを浮かべている印象しかないアキトの怒ったところなど、ハルには想像がつかなかった。たとえ腹が立つようなことがあったとしても、彼ならにこにこと受け流しそうなイメージである。


「だめよハル。だまされちゃだめよ」


 だが、どうやら現実はそうではないらしい。

 苦笑いを浮かべたホノカが、小さく首を振りながら視線をずらした。


「目が、笑ってないのよ。なんてゆーの? 眼光で殺す! みた、い、な……、っ!?」


 視線を戻して力説するホノカの声が、どういうわけか尻すぼみになっていく。

 小さく息を飲んだ彼女の視線は目の前のハルではなく、彼女の後方に釘づけになっていた。うっすらと青ざめているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。

 水面のコイのように口を開けたままのホノカに、ハルは小首をかしげて彼女の視線の先を追いかけた。


「僕が、どうしたって? ホノカ」


 満面の笑みを浮かべたアキトが、そこにいた。


「おかえりー。あのね、いまホノカがねー」


 硬直したままのホノカを放置して、ハルが無邪気にそう切り出す。

 ホノカはハッ、と我に返ると、慌ててハルの腕を引き彼女の口をふさいだ。ハルがなにを言おうとしていたかなど考えなくともわかる。アキト本人にばれたら、それこそ眼光で射殺されかねない。

 いきなりの仕打ちにジタバタと抵抗するハルにお構いなしに、ホノカは引きつった笑みをアキトに向けた。


「なななななんでもないわよ! ね! ハル!」

「ん"~!!」

「ふーん、そう。眼光でねぇ、へぇー」

「っ……!?」


 その瞬間、ホノカは声にならない悲鳴を上げた。決死の阻止もむなしく、どうやらアキトには完全に聞かれていたらしい。

 一見、顔は笑っているように見える。だがメガネの奥の瞳が笑っていない。

 きらり、と蛍光灯の明かりを反射するレンズが、よりいっそう底知れなさを増長させる。


「ぷはっ……。そういえば、アキト仕事は? 休憩?」

「そそそそうよ、こんな時間に戻ってくるなんて珍しいじゃない!」


 ようやくホノカの腕から解放されたハルは、肺いっぱいに酸素を取りこみながらアキトを見上げた。

 いつもならまだマリアにこき使われている時間帯である。ふと浮かんだ疑問をなんの気なしに投げかけるハルに、ホノカはここぞとばかりに便乗し話題を変えようとしていた。


 二人の言葉に、アキトの表情が曇る。

 いつも穏やかな表情を浮かべているはずの彼が、いつになく真剣な面持ちでハルとホノカを見つめていた。

 自然と彼女たちも、アキトから発せられる次の言葉に身構える。


「……ちょっと、まずいことになった」

「どーいうこと?」

「なにかあったの?」


 アキトは静かに息を吐く。

 そうしてひと呼吸ほど目を伏せると、再度二人に視線を合わせた。


「実は――」




 突如として外部回線から入った通信に、司令室内は騒然としていた。すぐに通信電波の逆探知がおこなわれたが、なにかに妨害されているらしく発信源は不明。手がかりになるような情報は、いまのところなにも引き出せていない。


「あたくしのこと、覚えてらっしゃる? 阿内おうち所長」


 モニターの向こうで、女がにこりと微笑んだ。

 名指しされたユキノリをおもわず振り返る職員たち。

 だが、本人はいたって冷静に状況を把握していた。


秋穂あいお、ミズホか」


 ユキノリの答えに、女はうれしそうに目を細めた。


「あなたなら覚えていてくれると思っていたわ。あんなことがあったんですもの。忘れたくとも忘れられないわよね」

「用件を言いなさい」

「ふぅ……。つれない人」


 饒舌に言葉を発するミズホに対して、ユキノリは感情を表に出すこともなく淡々と対応する。

 その様子をつまらないとばかりにため息をついたミズホは、ひと呼吸置いて再びモニター越しにユキノリを見つめた。


「研究所におつかいに行かせた子、あたくしが連れて帰っちゃったわ。ふふっ、食べてもいいかしら?」


 その声色はひどく愉しそうで、喉を鳴らしながら彼女は真っ赤な唇に舌先を這わせた。


「あなたそれって……!」

「……シュウのことか」

「シュウ、っていうのね。あたくし、年下の男の子は大好きよ」


 クスクスと笑うミズホの声が、スピーカー越しに司令室内に響く。

 彼女はシュウをどうするつもりなのだろうか。

 そもそも女は、ユキノリとどういう関係なのだろうか。

 うろたえる職員たちを尻目に、ユキノリは変わらずモニターを注視していた。


「返してあげてもいいけど、条件があるわ」

「……条件、ですって?」


 笑みを消したユキノリの代わりに、そばにいたマリアが答える。細く整った眉は怪訝そうに形を歪めていた。


「えぇそう。取引は、嫌いじゃないでしょう?」


 ミズホから発せられた言葉は有無を言わせぬ音だった。

 断ることなど許さないとでも言うように、細められたまなざしがまっすぐに画面の向こうからユキノリへと突き刺さる。


「……なにが望みだ」


 ようやく口をひらいたユキノリの返答に、ミズホは満足そうに鼻で笑った。


紫福しぶきハル。彼女と交換、っていうのはどうかしら?」

「なぜ」

「なぜ? 紫福ハルが欲しいから。それ以外に理由が必要?」


 それは到底受け入れがたい条件である。

 司令室中がみな一様に奥歯を噛んだ。


「あら、なにを迷う必要があるの? 簡単なことでしょう?」

「……」

「それとも、あたくしたちが怖い? それもそうよね。だってあなたは、あたくしたちを」

「条件はそれだけか」


 ミズホの言葉をさえぎったユキノリの、淡々とした声が凍てついていた。


「ふふっ、賢い選択を、期待しているわ」


 女からの通信は一方的に断たれた。

 一部始終を目の当たりにしていた室内は静寂に包まれる。マリアまでもが、黙ってユキノリを見ていた。

 まだ半人前とはいえ、シュウは組織の一員である。『見捨てる』などという選択肢は毛頭ない。

 だがハルも組織の、否、人類にとって欠かすことのできない者だ。

 どちらか一方など選べるはずがない。

 どうするべきか。

 みなユキノリの判断を静かに待っていた。



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