第3章 Distance of Mind
第36話 アマアシ
その日は朝から、どんよりとした灰色の雲が空一面を覆っていた。ぶ厚い雲の塊は、いまにも空から落ちてきそうである。
じっとりとした湿った空気が、肌にまとわりつくように漂っていた。
「こりゃいつ降りだしてもおかしくないよな」
シュウは低い空を見上げてそうぼやいた。
ふたつほど隣の町にある組織の関連施設への使いを済ませ、彼は足早に帰路についていた。
念のため傘を持って出てきたが、空模様は芳しくない。できれば降りだす前に帰りたいところである。
とはいえ、町同士をつなぐバスの本数は限られている。しかも本部の建つ山中までは行かないときたものだから頭が痛い。
「もうちょっと考えてくれてもいいだろ」
車を出すなりなんなりしてくれれば、こんなにも移動に苦労することはなかったはずだ。
シュウはうんざりとしたようにため息をつくと、バス停留所の時刻表から視線を上げた。
「……やっぱ降ってきたか」
ぽつ、ぽつ、と鼻先を濡らした雨粒に、シュウは借りてきた透明なビニール傘を広げる。
安っぽい傘はしばらく使われていなかったのだろう。湿気でビニール同士がくっついてしまっていたらしく、バリバリっ、と耳ざわりな音を立ててひらいていく。
少々カビ臭さが鼻についたが、破れなかっただけ良しとしよう。
傘に当たる雨音の独特な響きが、どことなく彼の気持ちを焦らせた。
「行きも気になったけど、あの建物、なんの施設なんだろうな」
停留所のななめ向かいにある建物を、シュウはまじまじと眺めた。
五階建てのコンクリート造りの建物は、爆発事故でも起きたのか、一部が激しく損傷し、吹き飛ばされたであろう外壁が崩落していた。
錆びたパイプベッドが、雨ざらしの室内に寂しげに残されている。
吹き飛ばされた部屋のせまさに、割れた窓枠に残る鉄格子。
廃墟と化した建物の周囲を取り囲む高い壁と有刺鉄線が、外界とを隔てるようにそびえ立っていた。
「病院? にしちゃ、ちょっと異質だよな」
興味をそそられたシュウが、もっとよく見ようと目を凝らしたときである。
水たまりの上をしぶきを上げながら走るバスが、彼の視界をさえぎるように停車した。
――こういうときにかぎって、時間どおりなんだよな。
バス中央のドアから乗りこんだシュウは、前方の横向きシートの端に腰かける。
車内には、彼と運転手以外誰もいない。
『ドア閉まります』
運転手のかすれた声に続いてブザーが鳴る。
バスは静かに走りだした。
閉じた傘から、雨水が重力に従って小さな水たまりを作っていく。
足元にじわりじわりと広がっていく雨水は、バスの揺れに合わせて四方八方へと枝を伸ばすようにして流れていった。
『――お降りの方はお知らせください。次は――』
バスはウインカーを出しながら、徐々にスピードをゆるめていく。きっと停留所で乗客が待っているのだろう。
アナウンスを聞き流しながら、シュウはぼんやりと窓の外を眺めていた。
車内に、スッ、と冷たい風が吹きこんできた。雨の日独特の、湿気を帯びた空気がまとわりつく。
なんの気なしに視線を投げたシュウの前に、女がひとり立っていた。
「隣、いいかしら?」
太ももの位置から深く入ったスリットが風にあおられ、白く細い足が見え隠れする。胸の谷間を強調するデザインのチャイナドレスは、豪華ながら繊細な刺繍が施されていた。
惜しげもなくさらけ出される柔肌に、シュウは目のやり場に困りながらも短く返事をする。
――なんでわざわざ隣に座るんだか。
とはいえ悪い気はしない。
ふわり、と香った甘い色香に一瞬目を奪われるが、シュウはすぐに平静を装い外の景色を眺める。
雨足は少し強くなったようだ。
再び走りだしたバスの車体が揺れるたびに、女のやわらかい二の腕がシュウの体にふれる。
「ねぇ……」女が顔を向ける。
「あなたには、大切なものがある?」
唐突に、女はそう言った。
面識のない女の言葉に怪訝そうに眉を寄せるシュウに対して、女は構うことなく彼に微笑みかける。
「それを、『彼女』を守りたいとは、思わなくって?」
シュウはおもわず女のほうを振り向いた。
まばたきもせずにこちらをじっと見つめる女の深く赤いまなざしに、吸いこまれそうになる。
「でも、そんな力は、あなたにはない」
「っ……!」
「自分でもわかってるのでしょう? あなたじゃ、大切なものを守りきれない。守られてるのは、あなたのほうだもの」
女はいったい、なにを知っているのだろうか。
当てずっぽうに見えて核心をついた女の言葉に、シュウは息を飲んだ。
――たしかに、この人の言うとおりだ……。
過酷な運命に立ち向かうハルをただ戦場へと送り出すだけの自分の不甲斐なさが、女の指摘でますます浮き彫りになっていく気がした。
だが戦いの中に身を置くハルを引き留め、守りきれるだけの能力は自分にはない。
強大な力の前ではちっぽけな人間である自分には、どうすることもできない。
シュウは無意識に膝の上で手を握りしめた。
「力が、欲しくはない? 大切なものを守るための、力が」
白くなるこぶしにやわらかな感触がふれる。細く白い手が、優しく彼の手を包みこむ。
「あんたは、いったい……」
誰なんだと続けようとした唇を、女の人差し指がさえぎった。
唇にふれる指先から、冷たさがじんわりと広がっていく。
女はまばたきもせずに、じっとシュウを見つめたまま微笑んでいた。そうして、そっと彼の耳元に顔を寄せる。
「一緒に来れば教えてあげるわ。そうすれば、簡単に力を手に入れられる」
形のいい艶やかな唇が、甘い吐息を漏らす。
「……そんな力、簡単に手に入るわけない」
いつしかシュウは、ささやく女の声に引きこまれていた。
魅惑的な言葉が彼の心を揺さぶる。
いつしか、雨音も、走るバスのエンジン音も聞こえなくなっていた。耳元でささやく女の声だけが、シュウの感覚を支配していく。
「たしかに簡単じゃないわね。けれど」
一瞬目を伏せた女は、シュウの目をしっかりと見つめなおした。弧をえがく唇はそのままに、女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「可能性は、ゼロじゃない」
妖しく揺らめく女の瞳に、シュウは呼吸すら奪われた。
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