第17話
途中見回りの警備兵を何度かやり過ごした後、どうにか無事サバラの町を出る事が出来たユウ達は、ザイードに導かれるまま、今度はひたすらルイライラ山を目指して歩き続けていた。
ルイライラ山は、カライマとゴーリアの国境に跨がる山岳地帯の一つ。険しい山道が続く事でも、有名な山だった。
歩き過ぎて潰れた足の肉刺は、もう痛みも感じない。疲れも、麻痺してしまったようだ。
リドマラからルイライラ山に登る為に、ザイードは関所を通らない道を選んだ。
迷いの森と呼ばれる森の、深くて険しい獣道を通って行くのだ。
ターメリッダから守人が逃げたと知って、きっと今ごろ軍は血眼になってその行方を探しているだろう。楽な道を選べば、それだけ危険も大きくなるのだ。
「軍は、我々がルイライラ山に入ると予測している筈です。何故なら、そこがカライマで一番隠れやすく、見つかりにくい場所だからです。山狩りが始まれば、リドマラとルイライラの境が一番危険な場所になると考えておいた方がいいでしょう」
大きな荷物を背負い、黙々と歩くザイード。彼はふと思い出したように立ち止まって、何時ものように淡々とした口調で言った。
「では、どうするのですか?」
ザエルが、細い目を開いて不安そうに尋ねる。
「さて、どうしましょうかね?・・・・少しは、貴方達も御自分でお考えになってはいかがですか?」
ザイードは、何時もの穏やかな口調のまま、皮肉めいた言葉を述べた。
ザエルの顔が、少しだけ引きつる。
「ここに居る方々は、誰も自分の事さえ自分で考えはしない。神が常に我々を守ってくれると思うのは、大きな勘違いですよ」
「なっ、何を!貴殿は、神官であるのに神を信じないのですか?神に従わずして、何故神官と呼べましょう!」
神官長の次に年長のベブリドが、強い調子でザイードに食ってかかった。
彼が声を荒らげるなど、珍しい事だ。恐らく、疲労が精神を不安定にしているのだろう。
ザイードの足が止まり、ユウ達もつられて足を止める。
「————ならば、ご自分の神に従いなさい。乱暴な兵の手から、その神が救って下さると信じているのならば・・・・」
肩越しに振り返って、彼は冷たく言い放った。そして、また歩き始めた。
ベブリドは、真っ赤になって口を閉ざす。それ以上の反論は、しても無駄だった。
ザイードなくして、誰も助からない事を知っているのだ。
ユウは不意に、兄が言った言葉を思い出した。
彼らは、一人では何も出来ない。まるでひな鳥のように、ザイードに付いて行く事しか出来ないのだ。
確かに、そうかもしれない。
神官や巫女達は、神の教えと守人の言葉を忠実に守る事が大切だった。自分自身の考えは不要な産物で、寧ろ考える事の方が危険とさえ思われていたのだ。
そんな神官達が、果たしてここまで逃げ延びる事が出来ただろうか?きっと、ザイードがいなければ、到底辿り着く事など出来なかった。
ユウは、黙々と歩くザイードの背を見つめる。
彼は、聞こえるのだろうか?彼の灰色の目には、神の姿が見えるのだろうか?
守人にさえ見えない、ラクレスの姿が・・・・・・。
「ユウ様、どうなされたのですか?」
パティオに呼ばれ、はっと我に返る。
気がつくと、足が止まっていた。何時の間にか、神官達ももう大分先にいる。それどころか、レイまでユウを追い越していた。
慌てて彼らの後を追いながら、小さく首を振って見せる。パティオは不安そうな顔で、小さく溜め息を吐いた。
迷いの森は、奥に進めば進む程険しくなっていく。ユウ達は、腰まで届く草や羊歯を掻き分けながら、ザイードだけを頼りに前へ進んだ。
ザイードは、時折立ち止まってコンパスを眺め、位置を確認してまた歩き出す。
どれくらい歩いただろう。日が半分程傾いた頃、ユウ達はついに山狩りに入っていた軍の部隊と遭遇した。
「気配がするぞ!」
兵の声が、森の中にこだまする。それに続いて、高らかな笛の音が響きわたった。
見た所、六人くらいは居るだろうか。彼らは、見るからに凶暴そうな猟犬まで連れていた。
間一髪、近くの茂みに身を隠した一同は、息を飲んでその様子を窺う。
ザイードは、素早く荷物をフィダに預け、腰から剣を抜き、何時でも戦える態勢を整えた。
ユウは、どうしていいか分からないまま、おろおろと周囲を見回す。
ザザッ、神官の誰かが草を踏んだ音が、思いの外大きく響いた。途端、犬の耳がピンと跳ね上がった。
「犬が来る!」
ザイードが叫んだ時には、もう数匹の犬がすぐ間近に迫って来ていた。
獰猛な種の犬だ。これらは、野盗狩りなどに頻繁に使われている。
「いたぞ!!」
走り出した犬に続いて、兵もその場に膝をついて鉄砲を構えた。
三発ほど、銃声が響く。ユウ達から、少し離れた場所に弾丸が打ち込まれた。兵達は、犬の動きに合わせているだけで、まだユウ達の姿を捉えた訳ではなさそうだった。
涎を垂らし、兵に居場所を知らせる為の呻き声を上げながら、犬達は矢のように突っ込んで来る。一匹はザイードが斬り伏せたが、他の三匹はそれぞれベブリド、サルア、神官長の腕や足にかぶりついた。
それぞれが悲鳴を上げながら、ぶら下がった犬達を振り払おうともがく。
「早く逃げなさい!!」
ザイードが、次々と犬を斬り捨てながら叫んだ。
その声を聞いて、フィダとザエルは、そのまま守人を促しながら、奥の方へと走り出した。
後を追うように、他の神官達も走り出す。その場に残ったザイードは、ユウの前に一歩踏み出すと、勢いのまま兵士達もあっという間に斬り伏せた。それは、まるで戦う事に慣れた者としか思えない巧みさ。相手に銃を撃つ隙も与えぬ素早さであった。
冷たい表情で、次々と兵を倒していくザイードは、とても官一位の神官とは思えない。
まるで悪夢でも見ているような気分で、ユウはただ震えているだけであった。
「ぼうっとしている場合ではありません、早く逃げるのです!」
ザイードの言葉で、はっと我に返るユウ。彼は、最後の一人を鮮やかに倒すと、そのまま乱暴にユウの腕を掴む。掴まれ、強い力で引っ張られた腕が痛かった。が、そんな事を気にしている場合ではない。
ザイードが、自分を守ろうとしているのが分かったからだ。
そのまま二人は、他の神官達を追って走り出した。
逃げても、逃げても、笛の音は森の中に響いていた。草を踏み分ける無数の足音が、すぐ側まで迫って来ているような気がする。
時折、銃声も聞こえた。
ユウ達は、がむしゃらに、息が苦しくなっても走り続けた。
木の根や羊歯に足を取られ、何度も転びそうになる。植物の刺や木の小枝で、手や足や顔に擦り傷が出来ていた。
「ユウ様、大丈夫ですか?」
少し先を走っていたエルドが、足を緩めて心配そうに声をかけてくる。
こうして彼らが、自らの意思でユウに声をかけてくるなど珍しい事だ。守人ほどではないが、巫女姫でも十分彼らにとっては高貴な存在である。ましてや、当の守人よりも守人に相応しいと思える人だ。本来なら、彼らのような若い神官達が簡単に声をかけられる相手ではなかった。
けれど、それでも思わず声をかけたくなるほど、今のユウの様子に痛ましいものを感じた。
エルドに問われて、苦しくて声が出せなかったユウは、代わりに小さく頷いて答えた。
本当は、大丈夫ではない。しかし、そんな事を言えば、エルドが困るのを知っていた。だから、大丈夫だと頷くしかなかったのだ。
エルドは荒い息を吐きながら、ちらりと後ろを振り返った。
彼のそんな仕種を見て、ユウも後ろが気になった。
先程から、ガホーニ神官長が遅れがちになっている。
最初は、レイ達と共にいた彼であったが、流石に七十近い歳ではこの過酷な状況はきつい。
レイ達はどんどん先に行き、ガホーニだけが置き去りになった。
かと言って、どうする事も出来ず、ただ逃げる以外に何の手立てもない。なんとかしたくともどうにもならない状態に、みなの苛立ちが募る。
不意に、後ろで銃声が響いた。同時に、どさっと倒れる音を聞いたような気がした。
振り返って見ると、後ろに居た筈の神官長の姿がない。
ユウは驚いて、足を止めた。
エルドもパティオも、青ざめた顔で足を止める。
その様子に気付いて、先を走っていたザイードとベブリドとサルアも立ち止まった。
再び、林の中を銃声が轟く。
銃弾が近くの木の葉をかすめるのを感じて、ユウは震えが止まらなかった。
銃を構えた兵士達が、今まさに、その茂みの向こうから出て来るような気がした。
「止まるな、走れ!」
ザイードが、緊迫した声で叫んだ。
「しかし、ガホーニ神官長様の姿が・・・・」
戸惑った顔で、エルド。
ザイードは鋭い一瞥を彼に投げると、命令するように言った。
「エルド神官、ユウ様とパティオを連れて、早く逃げるのだ。今、ここで立ち止まっている時ではない。そうではないですか?」
エルドは無念の表情になったが、崇拝するザイードの言葉とあって、素直にそれに従った。
「ユウ様、パティオ殿、さあ行きましょう」
だが、ユウは動かなかった。
震える指を握りしめて、大きく首を振る。
今がどういう時であろうと、神官長を捨てて逃げる事など出来ない。そんな無慈悲な事を、皆が許しても神が許す筈はないと思った。
「いいえ、いいえ、出来ません。神官長様を、置き去りにするなんて・・・・」
ユウは小さな声で呟き、来た道を戻ろうとした。
「ユウ様・・・・」
パティオが、慌てて止めようとする。
と、草を掻き分けて戻って来たザイードが、乱暴にパティオを横へ押しやった。それから、ユウの腕をぐいっと強く引っ張る。
振り返った彼女の目に、ザイードの険しい表情が映った。
「何をなさるのです!」
パティオの甲高い声が響く。
ユウは、尚も彼を振り切ろうともがいた。
と、いきなり目から火の出るような衝撃を受け、ふらりとよろける。
誰もが、驚いたようにザイードを見つめた。
しかし彼は、そんな視線には頓着せず、厳しい顔のまま言った。
「倒れた者は、捨てていくしかありません。そんな暇はないのです」
静かだが、きっぱりしたザイードの言葉。
ユウは頬を押さえ、しばらく茫然とザイードを見上げていた。・・・が、そのうちじわじわと涙が込み上げて来る。
打たれた頬が、ひりひりと痛んだ。
頬を打たれるなど、生まれて初めての事だった。
「よく泣く人だ。泣いていても、今の状況は変わりません。一刻も早く、ここから動き出す事が大事なのです」
ザイードは冷たく吐き捨てると、くるりと背を向けた。
「いくらザイード様でも、巫女姫様をぶつなんて!」
パティオはカンカンになって怒っていたが、他の神官達に促され、仕方無くユウを庇うように走り出す。
ユウはそんなパティオの横を走りながら、ただひたすら泣き続けた。
悲しくて、悲しくて、やりきれない思いに胸が塞がる。
涙が、後から後から流れては落ちた。
口から嗚咽が漏れ、それが一層息を苦しくする。
みんな、どんどん死んでいく。大切な物が、全て奪われていく。
————ああ神よ、何故にあなた様は、私をこんなに苦しめるのでしょう。これが、私への試練だと言うのなら、それは余りにも辛すぎます。
どうぞこれ以上、大地の子を試練に遭わせないで下さい。私達が望んでいるのは、常に神へ感謝の祈りを捧げられる、謀りごとのない平穏な日々なのです。
神官長の肉体が大地に帰り、魂も無事インシャ神の元へ届くよう、ユウは短く祈りの言葉を述べた。走りながら、胸の中で星字を切って神官長に捧げる。
———神官長様が、安らかでありますように。
とめどもなく涙を流しながら、ユウは胸が張り裂ける思いで祈った。
どれくらい走っただろう。どんなに行けども、追手の気配は振り切れない。
どうにか距離を保ってはいるものの、追いつかれるのは時間の問題だ。
守人達が先を逃げている事が、せめてもの救いだった。
苦しい、息が出来ない、足もふらふらだ。意識が、朦朧としてきた。
前を走るザイードの背が、ぼんやりと霞む。
ぐらりと横に倒れそうになったユウの体を、エルドが一瞬前に支えてくれた。
もう、神官に触れるのなどどうでもいい。彼女は、重い体を支えて貰えた事が、何にも増して嬉しかった。このまま、倒れてしまってもいいと思う。
「ザイード様!」
エルドは、戸惑った顔でザイードを呼び止めた。
巫女姫に触れたいと願う誘惑と、触れてしまった事に対する罪悪感で、心を乱している表情だった。
ザイードは、ふらふらになったユウを見て、小さく舌打ちした。
歩けぬ者を守りながら進むのは、彼にとっても困難な事だったのだ。
「ザイード様、どうか巫女姫様をお守りして下さい。私が、追手を防ぐ楯となりましょう。ですから、早くお逃げ下さい」
エルドが、決意を込めた口調で言った。
何時もなら朗らかな笑みを浮かべる口許が、今はきつく結ばれている。常に優し気な色を宿していた瞳も、堅い意志を示して強い輝きを放っていた。
「駄目です!」
ユウは、驚いて叫んだ。けれど、声が掠れて弱々しい。
「エルド様だけでは、心許ない。私もご一緒しよう」
ベブリドも言って、にやりとエルドに笑いかけた。
「では、私も・・・」
神官の中で一番若いサルアが、慌てて草を掻き分けながら、こちらに近づいて来て言う。
しかし、ベブリドは大きく首を横に振った。
「貴殿は、ザイード様と行きなさい。貴殿まで離れてしまっては、次に何かあった時、一体誰が巫女姫様をお守りするのですか?貴殿は、残らねばならないのです」
その言葉に、サルアはうっと声を詰まらせた。
「後は、頼みましたよ」
エルドもそう言って、うなだれたサルアの肩を叩く。
「いいえ、・・・・駄目です」
ユウは必死に首を振って、彼らの行為を止めようとした。手を伸ばし、ベブリドとエルドの腕を掴む。
しかし、
「どうか、行かせて下さい。我々は、それを望んでいるのです」
エルドは、そっとユウの手を解いて言った。
深い眼差しで、じっと憧れだった人を見つめる。
果敢なく、美しく、そして優しくて愛らしい、大切な大切な我等が巫女姫の姿。
形的には守人として、レイを守る事を優先していたが、本当のところレイが守人を放棄した今、ラクレス教の象徴はユウしかいない、と誰もがそう思っていた。その象徴を、何が何でも守り通す事、それが彼らの仕事。
エルドは、守るべき者の姿を見つめながら、どうかこのまま、清らかな巫女姫が穢される事のないようにと、心の底から願うのだった。
「清らかな巫女姫様と、こうしてご一緒出来て幸せでした」
全ての思いをその言葉に託し、エルドは神官式の礼をした。
ベブリドも同じように手を解き、無骨な彼らしい不器用な笑みを浮かべる。
「若い者だけを、行かす訳にはいきますまい。どうか、止めないで下さい。私達は、なんとしてもあなた様を、守らねばならないのです」
毅然とした態度で、二人はユウに背を向けた。
ユウは追い掛けて、何が何でも止めたかった。ユウの為に命を捨てるなど、愚かな事だと教えたかった。
しかし、彼女の足は動かない。もう、体力の限界に達していたのだ。
「ユウ様・・・・」
パティオが、涙を浮かべた目で彼女を見る。
ユウには、彼らが自分自身で決めた結末を、どうする事も出来なかった。
初めて、自分で考えて行動した事を・・・・・・。
「悲しむ暇はありません」
ザイードは、諭すように告げ、ユウの腰に手を回した。そのまま、樽でも担ぐように、彼女を肩の上に乗せて歩き出す。
ユウは、弱々しく抵抗したが、彼の手は意外にがっしりとしており、彼女の腰を掴んだまま決して離さなかった。
「ユウ様、我慢して下さい」
この時だけは、パティオもザイードの行いを咎めなかった。
彼が歩く度に、長い髪が頬をくすぐる。ザイードの匂いが、大好きだったティマ兄様の匂いと似ている事を知って、ユウは何故か不思議な気持ちになった。
とても、心が落ち着く匂い。
繊細な美しさを持つ外見とは裏腹に、華奢に見える肩は意外にがっしりとしており、力強い腕は男の腕であった。
ユウは、その腕に全てを預けるように、ただただ、涙を流して泣く事しか出来なかった。
エルドとベブリドのお蔭か、どうにか追手を振り切った四人は、やっとの思いで先を行っていたレイ達と合流する事が出来た。
しかし、そこに神官長と他の二人の姿がないと知って、誰もが沈鬱な表情になる。
ザイードから事情を聞いた後は、尚更先に逃げた事を悔いているようだった。
沢の側の岩陰に身を隠しながら、束の間の休息を取っている時も、神官達はしきりにこう言い合っていた。
「私が、行けば良かった。ベブリド様やエルド様を止めて、私が行けば良かったのだ」
若き神官サルアは、拳をきつく握り締め、激しい勢いで言葉を吐き捨てた。
あの時、彼らの言葉をあっさりと受け入れてしまった事を、どうしても許せないのだろう。
「それを言うなら、私こそ。ベブリド様や神官長様を失うくらいなら、私が代わりになりたかった」
ザエルも、腹の底から言葉を絞り出す。
フィダは、無言のまま唇を噛み締めていた。
と、それまで沈黙したままだったザイードが、神官達に向かって口を開いた。
「終わってしまった事を、今更くよくよしていても仕方無い。危険は、まだまだ続くのですよ。充分に、その思いが遂げられる場があるでしょう」
冷たい一瞥を投げ、ザイードは口許に嘲笑を浮かべる。
「なっ、なんですと!貴殿は、何も感じないのですか?大切な同胞が、無残にも命を散らせてしまったのですぞ!」
途端、かっとしたザエルが、立ち上がってザイードに掴みかかった。
それを、横からパティオが必死になって止める。
「お止め下さい、ザエル様。ここで争っても、何の解決にもなりません。どうか、乱暴はなさらないで。あなた様は、仮にもターメリッダの神官なのですよ」
若い巫女の叱責に、思わずザエルは肩の力を抜いた。
取り乱した事を恥ずかしく感じたのだろう、俯いてどしりとその場に座る。
一同の上に、重い沈黙が落ちた。
ユウはまたしても、自分とパティオの違いを、まざまざと見せつけられたような気がした。
悲嘆に暮れ、めそめそ泣き続ける事しか出来ない自分と、毅然として年上の神官さえも叱責してしまうパティオ。
年下の少女であるのに、内にある精神は余りにも違う。
強い強い憧れが、目の前の少女に対して膨らんだ。
自分も、これほどに強くなれたなら・・・・・。
しかしユウは、羨むと同時に諦めていた。
どうやっても、自分はパティオのようにはなれないと、よく知っていたからだ。
喜びも悲しみも、どっと一気に渦となって流れてくる。それに巻き込まれれば、ただ溺れてしまう外ないのだ。
ユウは子供の頃から、感受性の強い子供だった。小さな事にでも喜べる代わりに、ほんの些細な出来事でも悲しくなってしまう。
他人から見れば馬鹿げた事でも、ユウにとっては大変な事だった。
小さな虫にでも感情移入してしまい、その死を嘆くユウは、確かに心優しい少女かもしれない。しかし同時に、脆く弱いという危うさも持っていた。
争いごとは見る事さえ耐えられず、人を傷付ける事を何より恐れ、些細な出来事に心を痛めるユウ。それは、正に籠の中の鳥。
神殿という籠から外に出れば、たちまちに死んでしまう危険があったのだ。
外の世界には、悪意が満ちている。その毒に当たっても、毅然としていられる程の強さは、今のユウには全くと言っていい程なかった。
今もやはり、悲しみに押しつぶされ、泣いてばかりいる状態だ。
「それよりザイード様、これからどうなさるおつもりですか?このままでは、兵に捕まらなくとも、みな過労で死んでしまうでしょう」
悲しみに暮れるユウを気にしながら、パティオは戸惑いと不安を隠せぬ表情で尋ねた。
「それですが・・・・」
ザイードは意味有り気に言葉を切って、一同に視線を巡らす。それから、最後に貝のように黙り込んでいるレイに視線を止め、僅かな笑みを浮かべた。
「ルイライラ山には、ゴーリアとの国境があります。私は、このままゴーリアに渡るのが、一番得策ではないかと考えているのです」
ゴーリアへ?
一同の顔に、驚きが浮かぶ。
それはそうだろう。ゴーリアは、自由の国。
貴族制度が廃止されてから、その国は大陸唯一の民主主義国となった。
議会は民の選んだ代表によって行われ、王は民によって決められる。そして、民の支持がなくなれば、新しい王と交代せねばならない。
貴族政治が行われているカライマでは、とても信じられない政治体制だ。
自由と平等と権利。
民は、その言葉を神の如く崇めていると言う。
ラクレス信者達にとって、そこは未知の国だった。神のいない国など、他のどの国よりも遠い国に思えてしまう。
「ゴーリアとカライマとダンドリアは、現在不可侵条約を結んでいます。しかし、三国とも大陸を分かつ程の勢力を持った国。たとえ不可侵条約を結んでいたとしても、互いに牽制しながらの状態が続いています。国々は武器を持って争う代わりに、言葉で争う。議会そのものが、戦場なのです」
ザイードは、何を言いたいのだろうか?
神官達は、突然政治の話を始めた彼を、不思議そうに見つめる。
ソニール大陸には、現在十の国があった。
東の大国、ダンドリア。中央の大国、ゴーリア。西の大国、カライマ。その他にも、商業国メセタ、技術国ラーミア、ダンドリアの属国であるオスリア、内乱中のマリガラ、途上国であるケル、ベッダ、ナムク。
リーダーシップを取っているダンドリアの計らいで、そうした国々は戦争という形で争う事はしていなかった。
代わりに、十カ国会議というものを毎年順番にそれぞれの国の首都で開き、条約の改正や貿易問題等、様々な事を話し合うのだ。
それは、駆け引き。
つまり、ザイードの言う通り、言葉によって戦っているようなもの。戦争がないからと言って、国々が仲良くやっている訳ではない。時には、一触即発の危機が起こる事もあった。その為、三国による不可侵条約が定められていた。
その条約によって、ゴーリア、カライマ、ダンドリアは、戦をしてはいけない決まりになっている。
もし三国のうちの一国でも戦に加われば、残る国による仲裁、もしくは制裁が行われるのである。
また、他国を集めた緊急会議も開かれ、調査の結果次第では、非のある国を経済的に封鎖する場合もあるのだと言う。
「ゴーリアは、カライマへの穀物の輸入枠を、今より広げたいと思っています。しかしカライマは、頑な姿勢を崩さない。ゴーリアとしては、なんとかカライマの弱みを掴んで話し合いを有利にしたいと望んでいる筈」
「それと、我々がゴーリアへ亡命する事と、何の関係があるのですか?」
ザイードの真意が分からず、ザエルは苛立ちながら言葉を挟んだ。
ちらり、ザイードの嘲るような視線が、ザエルの面を流れる。
彼は僅かに口を引き上げ、いかにも無知な者を相手にしていると言いたげに、ゆっくりと言葉を切りながら言った。
「守人様とユウ様は、ルカ王家のお血筋です。クワナ陛下の男系が絶えた今、女系のこのお二人だけが正統で王位継承権を持っておられるのです。王家の血筋といえどクーデターで帝王になったガリアドにとっては、まさしく爆弾。だからこそ、ラクレス信者を弾圧し、ミーヤ王女の子を抹殺しようともくろんだのだと、私は解釈しています」
ザイードの言葉に、一同は息を呑んだ。
今まで、守人や巫女姫の王位継承など、誰一人念頭にはなかった。
と言うより、ルカ王家の血を嫌い、王家と関わりを持つ可能性など、全く考えたくなかったと言った方がいい。
「王位継承権を持つ正統な方を、ゴーリアが受け入れぬ筈はありますまい。上手くすれば、ダンドリアと組んで、カライマに干渉出来るかもしれないのですから。そしてもし、ガリアドを倒してお二人のうちの何方かが王位に即けば、ゴーリアはよりスムーズにカライマとの交渉が出来る。その為、お二人に恩を売っておくべきだと思う筈」
茫然とする神官達を見回した後、ザイードはゆっくりと立ち上がった。
そして、弱々しく泣き続けるユウの側に寄り、地面に片膝をつく。
「ユウ様、さあ、もう泣くのはおよしなさい。ゴーリアにさえ行く事が出来れば、再び平穏な日々を取り戻せるのです。神に祈り、聖歌を歌い、舞を踊る。神殿と同じ生活が出来るのですよ。私はただその為に、こうして皆を導いているのです。あなた様を、ゾリアスに魂を売り渡した、ガリアドの手から守る為に・・・」
優しく、ユウの肩に触れる手。
ユウは、あの夜のように、もう身を引く事はしなかった。
この手に、何時も、何時も、守られて来たのだ。何があろうとも、どんな姿を見せようと、彼が信頼出来る人なのはよく分かっている。
ザイードが触れた場所から、暖かいものが流れて来るような気がした。
不思議と、胸が高鳴る。
「神殿と同じ生活が出来るのですか?」
ユウは、顔を上げてザイードを見た。
「本当に?」
掠れた声で、縋るように尋ねる。
ザイードは、優しく頷いた。
あの、神殿に居た時のような、慈愛に溢れた笑顔。
ユウは、嬉しさに胸を詰まらせた。吸い込まれそうな薄い色の瞳に、目が離せなくなる。
なんだか頭がぼうっとして、胸の高鳴りだけが、益々激しくなるような気がした。
「巫女姫様は、枯れない湖をお持ちですね。しかしまあ、ゴーリアにさえ行く事が出来れば、もう悲しむ事はありますまい。何一つ、失う事もなくなるのですから」
ザイードは、大胆にもユウの目の縁に残った涙をふいて、そっとその頬を撫でた。
それさえも、もうユウは、罪深い事とは思わなくなっていた。それどころか、もっとその手に触れていたいと思う気持ちに、逆に驚いたくらいだった。
ザイードが触れる事に、慣れ始めている。触れる度に、気持ちが高揚する。それは、無知なユウにとっては、途方に暮れるような不思議な気持ちであったが、決して嫌なものではなかった。
ユウのその真っ直ぐな瞳に映るザイードへの信頼の色は、他の神官達から見てもありありと分かるものだったが、誰一人として咎める者はいなかった。
ザイードがいなければ、誰もこの危機を脱せられないと、皆十分に理解していたからだ。
・・・・・・ゴーリアにさえ行けば。
ザイードの言葉が、更に皆の希望を膨らませていく。
ゴーリアにさえ行く事が出来れば、もうこんな辛い思いはしなくて済むのだ。怖い思いも、悲しい思いも、苦しい思いも・・・・・。
もし無事にゴーリアに着いたなら、毎日死んでしまった者の為に祈ろう。
花を捧げ、歌を歌い、今以上に神に尽くそう。
もし、ゴーリアに行けるのなら。
ユウの心に、希望が溢れていく。
ザイードが、みなに賛成を求める必要はなかった。誰の顔にも、はっきりとその答えが出ていたのだ。
大地の巫女 しょうりん @shyorin
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