第16話
ザイードは、夜が更けても帰らなかった。
ユウは、寝息をたて始めた者達を見回し、隅の台にあったランプを消しに立つ。
見たかぎりでは、レイもパティオも眠っているようだ。
しかしユウは、中々眠れそうになかった。そうとう疲れてはいたが、兄の話で受けたショックの為か、妙に目が冴えてしまっている。うとうとしては目覚め、そしてまたうとうとする。しばらく、そういう事を繰り返していた。
どれくらいの時間が経っただろう、そうこうしているうちに、ふっと静かな気配が部屋の中を過った。
————ザイード様だろうか?
目を開けて周囲を見回したが、視界を覆う闇が邪魔をし、すぐには姿が見つからない。
ユウは、細めた目をじっと凝らし、気配の元を探そうと努めた。やがて、闇に少しずつ慣れて来ると、彼女の前にぼやけた輪郭がある事に気付く。
輪郭と気配だけで、ユウは彼だと確信した。だが、いつの間に戻って来たのだろう?
はっとして、体を起こす。
気配が、すぐ側で感じられたのだ。
「起こしてしまいましたか?」
低音の静かな声が、横から響いてきた。
人をうっとりさせる程、魅力のある声。
ユウは、彼のその声が好きだった。
「ザイード様、戻られたのですか?そこで、何をしているのです?」
周囲を気にしながら、声を潜めて尋ねる。
他の人達は、まだ眠ったままのようだ。
「あなたを、見ていたのですよ。あなたは、ご自分では気付いていないようですが、本当に美しい。人はあなたの紅の髪を、神の如き美しさだと讃える。私も、その色は違う意味で美しいと思いますよ。お父上の髪より、二人の兄上の髪より、あなたの髪は燃える紅。まるで、血の色のようではないですか?」
ザイードは、やはり静かな口調でそう言った。
ユウには、何故彼がそんな事を言うのか分からなかった。
美しいというのは、ザイードの方だろう。それこそ、神殿で一番美しいといえる彼に、美しいと言われてもピンとこない。
それに、ここは闇の中。ザイードの姿も、輪郭さえ霞んで見える。
「こんな暗闇で、私の姿が見えるのですか?」
からかわれているのだろうか?内心、そんな疑問を感じる。
「見えますよ。あなたの姿は、私の目の中に焼きついています。私は、あなたを見てきました。あなたの父上も、兄上も、亡くなられた母上も。あなたは兄弟と違って、母上によく似ておられる。守人の血より、ルカの血の方が濃いのです。あなたは、巫女として生まれるべきではなかったかもしれませんね。あなたは、王家の者として生まれるべきだった。そうすれば、もっと早くあなたにもルカの血の意味が分かっていたでしょう」
ザイードの手が、すっと伸びて来た。その時、ユウは初めてザイードが、触れる程近くに居たのだと気付いた。
彼の手が、ユウの髪に触れる。ユウは、ザイードに触れられた事に驚き、慌てて身を引いた。
心臓が高鳴り、頬がかっと熱くなる。
巫女は、決して男の人に触れてはならないのだ。剣を教えて貰う時でさえ、ザイードは決してユウに触れはしなかった。
ユウは、まるで己が罪を犯したように、なんとも言えぬ居心地の悪さを感じた。
彼は、手を伸ばしたまましばらく無言でいたが、やがて小さく笑みを洩らすと、手を元の場所に戻して言った。
「あなたは、私が言った言葉を覚えておいでですか?」
微かな含みを持った声で、ザイードが尋ねる。
ユウは、どんな言葉だったろうと、眉を寄せて考えた。
ザイードから教わった事は、それこそ数えきれない程あるのだ。すぐには、思い当たらない。
すると、ザイードは溜め息を吐き、やや咎める調子で答えを述べた。
「私はあなたに、外に出なければ無知のままだと言いました。外にこそ、学ぶべきものがあると・・・・。そして、こうも言いました。神を必要とする時が、どんな時か。試練に耐える苦しみとは、どんなものか。いずれ、あなたにも分かるでしょうと」
ユウは、はっと胸を突かれたような思いがした。
勿論、その言葉を忘れていた訳ではない。
ただ彼女にとって、神は常に側にあるものだったし、試練も神が与えるものとして、耐えるのは当然の事と思っていたのだ。
どんなに辛くとも、それが自分の務めだと。
「ザイード様は、今がその時だと?」
ザイードの様子に胸騒ぎを感じ、ユウは恐る恐る尋ねてみた。
「いいえ、違います。何故なら、清らかな者には、決して分かる筈のない試練だからです。あなた様は、今でも清らかです。そして、これからも清らかでありたいと思っている。・・・・しかし、それでは永遠に分からない。あなた様が清らかである事を望まなくなった時、初めて私の言葉の意味が分かるでしょう」
ユウは、全身からさっと血が引いていくのが分かった。
ザイードの言葉は、神に仕える巫女として、とても理解しがたいものだったのだ。
神官が語るには、無茶苦茶過ぎる。
「ザイード様は・・・・、私に汚れろと、そう仰っているのですか?」
わなわなと、口許が震えた。
そんな恐ろしい事、想像する事も出来ない。出来る訳がない。
たとえ、大好きなザイードの言葉だったとしても、絶対に受け入れ難いものだった。
ユウは、ラを名に持つ者なのだ。汚れなど、望む気にもなれない。
「そうかもしれません。いや、望まなくてもあなた様には、何時か知る時が訪れるでしょう。それが、血というものです。ルカ王家の血は、呪われているのですよ」
呪われている?
————そんな馬鹿な。
ユウは、ザイードの言葉が信じられなかった。と言うより、信じたくなかった。
王家の血筋ではあっても、ユウは王家とは全く関係のない人間なのだ。
生まれてから一度も感じた事のない血筋の為に、汚れなければならないと言うのだろうか?
違う。
ルカの血筋など、関係ない。
私は、守人の娘なのだ。清らかである事が、大切な義務。
混乱したまま、ユウは必死になって自分に言い聞かせた。
何故、ザイードがそんな事を言うのか、ユウには分からなかった。
何時も優しい彼が、自分を混乱させ、恐れさすのか、その真意が掴めない。
すぐ側に居る彼が、遙か遠くへ行ってしまったような錯覚に陥った。
しばらく、静かにユウの様子を伺っていたザイードは、突然とって付けたように言った
「神殿は、全壊したそうです。ターメリッダの者は、殆ど死んだでしょう。あなたの大叔母様も、叔母様も、みな・・・・・。ティマ様だけは、ヘッサリムの牢獄に送られたようです。しかし、恐らく近いうちに処刑されるでしょう」
ぷつりと、ユウの思考は途切れた。
「・・・・それは、本当ですか?」
さっと、全てが真っ白になる。
そうなるだろうとは思っていたが、実際耳にするとショックは大きかった。
覚悟して、その時が来ても取り乱さぬよう、努力しようと思っていた筈なのに。
指先が、冷たくなった。全身から、全ての血が流れ出しそうな気分になる。
「関所での件は、既にリドマラの公安に伝わっています。恐らく、神殿から我々が逃亡した事も・・・・・・」
「それでは———」
「我々は、帝王に歯向かう逆賊です。捕まれば、首を切られるだけでは済まされないでしょう」
ユウは、眩暈によろけた。悲しみや恐怖が溢れ出し、パニックを起こしそうになる。
あまりの事に、言葉さえ見つからない。
震えは、止まらなかった。
「ここは、ある貴族の家です。ですから、公安も迂闊には踏み込めません。彼はこの家の息子で、私達の立場を知って匿ってくれました。ですが、ここも長居は出来ないようです」
そう言うと彼は、立ち上がってランプに火を燈した。それから、皆を起こし始める。
皆は寝不足の様子で、目を擦りながらザイードを仰ぎ見た。
「さあ、出発です」
ザイードは、素早く荷物を整理すると、そう言った。
同時に、部屋の扉が小さくノックされる。相手は返事を待たずに扉を開け、小声でザイードに急ぐよう告げた。
あの、ザイードの知人だという男だ。
一同は溜め息を吐きながら、緩慢な動作で立ち上がった。誰の顔にも、また歩かねばならないのかと言う、うんざりした表情が浮かんでいる。
そんな彼らを、男は何度も急かした。
激しいショックから立ち直れぬまま、ユウも神官達と土蔵を出る。
「サルエス様は?」
来た時と同じ裏道を辿りながら、ザイードが男に向かってそう尋ねるのが、彼女の耳に聞こえてきた。
「父上は、眠っている。今なら、家の者にも知られず外に出られるだろう」
ちらり、後ろを歩くユウ達に流した視線を、男はまたザイードに戻して答える。
「・・・・・すみません」
ザイードは、前を向いたまま素っ気なく謝った。
それから一同は、裏戸を潜って街路に出た。
外は、ひっそりと静まり返っている。郊外なので、人の通りも殆どなかった。遙か先まで続く塀と、その反対側に続く牧草地。路には、広葉樹の並木がルイライラ山の見える方角に向けて真っ直ぐ伸びていた。
男は、彼らと同じように路へ出て、ルイライラ山を越える為の比較的安全なルートが記された地図をザイードに渡す。
その時男は、
「お前は、何処に行こうとしているのだ?」
と、不安そうな顔で彼に尋ねた。
しかし、ザイードは答えない。ただ、薄い唇を引き上げて笑っただけだった。
男の顔が、暗く曇る。しかし、それ以上何も言わなかった。
「助かります」
ザイードのその言葉を別れの挨拶とし、月明かりに照らされた道を、一同はそのままルイライラ山の方向に向かって歩き出した。
『お前は、何処に行こうとしているのだ?』
男の言葉が、余韻のようにユウの頭の中でこだまする。
ユウも、それが知りたいと思った。
神殿を出てからのザイードは、何処か奇怪しい。まるで、何かに取り憑かれているようだった。
日に日に、優しく穏やかなザイードではなくなっていく。
ユウは、それが恐ろしくもあり、また頼もしくもあった。
ザイードが今ザイードであるから、安心して付いていける。
きっと、皆の為に心を鬼にして、頑張ってくださっているのだろう。
大丈夫、何処に行っても、信じて付いていけばいい。
段々、屋敷が遠くなって、最後は点になって消えた。ユウは時折後ろを振り返って見たが、あの男は見えなくなるまで、ずっとその場所に立ち尽くしていた。
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