第15話

 「さあ、家の者に見られないうちに中に入りましょう」

 その言葉で、ユウは慌てて男から視線を戻すと、ザイードは既に土蔵の鍵を開け、皆を促している所だった。

 レイや神官長が入って行くのを見て、ユウも急いで土蔵の中へ足を踏み入れる。


 土蔵の中は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。

 使わなくなった家具が押し込まれ、古びた本が山のように積み上げられている。その為空いた空間が随分狭くなっているのだ。掃除もしていないのか、どこもかしこもかなりの塵が積もっている。


 「これは、酷いですね」

 ベブリドは、顔を顰めてふっと近くの家具に息を吹きかけた。途端、白い煙となって部屋の中に広がる。

 「ぶほっ、おほっ、げほっ、この埃だけでも何とかなりませんか?」

 激しく咳き込みながら、エルドも悲痛な声で告げた。


 「いいではないですか、夜風に当たらぬだけでもあり難い事です。神はまだ、我々を見放してはいないのでしょう。まだ、人の気持ちが温かい」

 神官達を宥めるように言って、ガホーニ神官長が小さな目をしばたく。彼は、塵の積もった床を少し払い、ゆっくりと座った。


 レイやユウも、黙ってそれに倣う。

 そうすると、他の神官達も口を閉ざし、神に感謝の意を示して座った。


 「あなた方は、ここで疲れを癒していて下さい。私は、必要な物を調達して来ます。食事は、袋の中にありますので自由に食べて下さい」

 土蔵の隅にあったランプを灯すと、ザイードはそれだけ言い残して、忙しそうに部屋から出て行ってしまった。


 一同は、しばらくザイードが去っていった扉を見つめていたが、誰からともなく溜め息の嵐を巻き起こす。

 彼がいなくなると、急に皆の間に不安が膨れてきたのだ。


 「まるで、我々は雛鳥のようだな。ザイードなしでは、誰も何も出来ない」

 関所の前での件以来、ずっと黙したままだったレイが、初めて口を開いた。

 しかし、彼の言葉は冷たく閉ざされた固い言葉。

 まるで捨てられた子供のように、レイは皆から離れた土蔵の隅で膝を丸めていた。


 守人のそんな様子に、ユウの顔が曇る。


 レイは、ずっと黙して語らず、ザイードのするままに任せている。ザイードが兵を殺したと聞いた時でさえ、何一つ言葉はなかった。

 今のユウにとってレイは、誰よりも大切な人だったのだ。神の御子であるレイが、何故みなを導いてくれないのか。何故、守人の役目を放棄するのか。


 彼が守人ではないと宣言した言葉を、未だに信じられずにいるのだ。


 「守人様、私達は・・・・」

 「止めてくれ、私は守人ではない。私は、不甲斐ないお前の兄ではあっても、お前の慕う大地の化身などではないのだ」

 口を開きかけたユウに向かって、レイは苦々しく吐き捨てた。


 表情を歪ませ、象徴である赤毛をぐじゃぐじゃと掻き乱す。決して人前では取り乱した姿を見せてはならぬ者が、全身で不満や怒りを露にしたのである。

 ユウは驚いて、レイの顔をまじまじと見つめた。ユウ自身も、守人の顔を直視してはならない決まりを忘れていた。


 ————守人様ではない?


 その言葉に、大きな戸惑いを感じる。どうすればいいのか分からず、傍らにぴったりと寄り添ったパティオの顔に視線を移した。

 ユウの視線を受けたパティオは、なるべくその視線を直視しないよう注意しながら、彼女に優しく頷いて見せる。

 そして、


 「守人様は、守人様です。どんな事があろうと、世界でただ一人の清らかなる人です」

 とはっきり言った。


 普段は、五位の巫女風情が守人に直接話しかける事など出来ない。それどころか、同じ部屋の空気を吸う事さえ許されぬものだ。

 しかしパティオは、ユウの為に敢えてその禁を犯した。


 何故なら、今の彼女にとってユウは、誰よりも大切な人だったのだ。この世に存在している筈の父よりも母よりも、兄弟達よりも、それこそレイよりも、一番に守らねばならない清らかな魂だった。


 守人が己の義務を放棄した時点で、パティオの崇拝は完全にユウだけのものとなった。だからこそ、ユウの為ならば、守人を咎める事さえ罪とは思わなかったのだ。

 が・・・、パティオが言い終わった瞬間、埃に塗れた一冊の本が凄い勢いで飛んで来た。


 それは運良く彼女には当たらなかったけれど、後ろの壁に激しい音を立てて叩きつけられた。

 「兄様!」

 ユウの口から、思わずその言葉が飛び出す。


 守人が、パティオに向かって投げつけたのだ。激するなど無縁の人が、まさかそんな事をするなんて思いもしなかった。

 しかし、ユウの戸惑いとは逆に、レイの口から安堵の溜め息が漏れる。


 「やっと、私を兄と呼んでくれたな」

 レイは、不意に優しい表情に戻って呟いた。

 そして、また表情を引き締めて一同を見回す。


 「ユウ、それに皆も聞いてくれ。私は、決して清らかな人間ではない。腹も立てれば、取り乱したりもする、皆と同じただの人に過ぎぬ。皆が命をかけて守るほど、立派な人間ではないのだ」


 「ですが・・・・・」

 「お前達が、私を思ってくれるのは嬉しい。しかし、私にはその価値はない。愛する者を見捨てて逃げるような男を、何故神の使いと呼べようか」


 言葉を絞り出すように告げ、深い皺が刻まれた眉間に手をあてる。それは、酷く苦悩している人間の姿だった。


  愛する者とは、神殿の人達の事だろうか?

 ユウは、兄の苦しそうな表情を見て、そう疑問を抱く。


 「守人を継ぐ身である事が、私にとってどれほど辛い事だったか、お前達には分かるまい。誰もが期待を込めて私を見る、けれど私には何も出来ない事を知っている。神の言葉も聞けず、神の姿も見る事は出来ないのだ」

 「でもそれは、守人様が民を思っているから、だから苦しいのではないですか。誰よりも、その事を考えているから・・・・・」

 「ユウ、お前には分かるまい。お前は、純粋で真っ直ぐな娘だ。私は、その真っ直ぐさが羨ましい。お前のように、綺麗な事だけを信じる事が出来れば良かった」


 レイは、憂いに満ちた表情で、かわいい妹をじっと見つめた。それから、ふっと視線を床に落とす。


 「・・・・しかし、私は父の苦悩も知っている。お前は、どれほど父に愛されていたか知っているか?父が、どれほどお前を抱き締めたいと願っていたか。人前では神の御子を演じている父が、私と二人だけになるとただの人になる。ユウは母に良く似ていると嬉しそうに話す父は、本当に何処にでもいる普通の人だったぞ。愛していても、その愛を表現出来ないなど、人としては不幸なのではないだろうか?————私は、父のような思いはしたくない」


 レイの話に、ユウは目を見開いた。嬉しいという気持ち以上に、大きな戸惑いを感じてしまう。

 守人が、それほどまで自分を愛していたなど、どうして考えられよう。

 守人は、民の為にあるのだ。娘でも、例外は認められない。


 「帝王のやり方は、確かに間違っている。けれど、守人がなくなればいいという思いは私も同感だという事を覚えていて欲しい。私は、守人になどなりたくないのだ」

 そこに居る誰もが、信じられないという顔をしていた。守人が、守人を否定するようでは、彼らは何の為に神殿を出て来たのか分からない。


 レイの言葉は、ユウだけではなく神官達の間にも激しい衝撃を与えた。今までの努力が全て無駄になってしまうような、混乱と譬えようのない恐怖だ。

 レイはまた口を閉ざしてしまい、それから眠るまでの間、ユウ達も重たい沈黙の中で過ごす事となった。

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