Vir ―人生体感―
黒中光
ある兵士の記憶
人生体感装置Vir。その最終テストが行われようとしていた。開発者自らが被験者となり、フルフェイスヘルメットに似たVirを装着している。そして、低反発のベッドに身を横たえる。実験室そのものは、彼一人分のスペースしかないが、壁の一つがガラス張りになっており、その向こうに、麦藁色の髪を伸ばした助手がデータを取っている。
「それでは始めてください」
無機質な声に従い、開発者ジャンはVirを起動させた。
ジャンは土埃の立つ街中にいた。遠くから悲鳴が聞こえる。生暖かい風が傷だらけの身体にまとわりつき、口の中では血の味がした。
Virは体験者の五感すべてに作用する。しかし、それだけではない。Virは元データとなった人間の記憶までを再現する。
自分が実際には静寂に包まれた試験室にいるという実感だけではない。「ジャン」として生きた三十年の歳月そのもののリアリティーが消滅する。彼は今、自分が元データとなったアレンだとしか自覚できなくなった。
アレンは敵国の都心部で息を切らせながら物陰に身を潜めた。怪我をした左足が熱を持って攻め苛む。彼は陸軍歩兵。敵の町に治安維持として睨みを聞かせるのが仕事。まだ二十歳。戦争なんて初めての新兵。
半月前にこの町を制圧したアレンの部隊だったが、大規模な反攻によって現在は壊滅。周囲に味方は居らず、武器と言えば弾が残り僅かのライフルのみ。周囲では敵が投げ込む手榴弾が絶え間なく響く。
二ヶ月前に基礎訓練を受けただけの新兵にもこれが絶望的であることは肌で分かった。応援が来るような場面ではない。きっと別働隊は安全地帯に向かって全力で後退している頃だ。
枯草が蔓延る花壇に身を隠しながら移動する。生き延びられる可能性は万が一にもないが。ひょっとしたら、億に一つはあるかも知れない。根拠のない希望に、アレンは必死ですがりついた。
その脳裏に浮かぶのは家族のことだ。共働きの両親と口の悪い妹。
いつも忙しそうな両親とはハイスクールに入る前から疎遠になり、同じ家にいても必要なこと以外の会話はなかった。
それが当たり前だと、どこかで諦めていた。しかし、アレンが二十歳になり、召集令状が送られて来たとき。母は泣いた。父は徴兵所に出かけ、免除を申請した。
普段とあまりに違う親バカぶりにアレンは面食らった。
その時は皆戦争に行くのが当たり前だと思っていたアレンに、父の行動は自分勝手な恥ずかしいものに映った。
だから父に向かって、「そんなものはフェアじゃない」と言ってしまった。
両親の言葉をろくに聞かず、徴兵所から出頭日時の案内が来て安心しているような兄に、妹のエミリーは「馬鹿だ」と何度も言った。そして出頭当日、アレンの部屋にやってくると顔を赤くして「絶対に帰って来なくちゃダメよ」と迫った。いつもは冷めた態度で気にくわなかった妹が、数年ぶりにみせた感情だった。
目の前で閃光が弾ける。熱い空気がアレンの身体を掬い上げた。
背中に衝撃が走り、貫くような痛みがやって来た。車の割れたミラーには、麦藁色の髪に地がついているのが見えた。
手足が痺れて来て、立ち上がることすらままならない。耳が聞こえず、世界が無音になる。
突然のことに、訳もわからないまま。今から自分が死のうとしていることをアレンは感じた。
あっけない。無意味な死。
妹との約束を破ってしまう。両親は泣き悲しむだろう。
恐怖が冷たい手でアレンを掴む。その手は彼の勇気や見栄を粉々に握りつぶしてしまった。
「父さん、母さん。ううぅ」
自分にすら聞こえない後悔。
どうして、戦争になんか来てしまったんだろう。法律で決まっているから? そんなのくそ食らえだ。国から逃げるなり、隠れるなり、何だってできたはずなのに。
瓦礫の隙間から灰色の軍服が見えた。敵だ。
相手は銃口をあちこちに向けているが、アレンに気づいている様子はない。
それでもまっすぐアレンのもとへやってくる。いつ気づかれてもおかしくない。
今しかない。今やらないと殺される。
恐怖と焦り。アレンはただ夢中で引き金を引いていた。
敵は背を向けて逃げ出そうとしたが、間に合わなかった。マネキンのようにパタリと倒れ、動かなくなる。
その軍人らしからぬ行動を前に、アレンはすぐに己の行動を恥じた。
相手もまた、ただ生きようとしてしていただけだったのだ。彼にも帰りを待つものがいただろう。その切実な願いをアレンが壊した。
死にかけで、助かる見込みすらないのに。それでも人を殺した自分が醜くて仕方がない。
足の血は止まらない。身体を横たえていると、戦争の音がまた戻ってきたん。
「ママー、ママ! どこ?」
殺し合いには不似合いな言葉が戦場に響く。浅黒い肌の、赤みがかった髪をした子供だった。
アレンにはその子供が『
『
アレンは咄嗟に銃を向けたが、カチカチと引き金が鳴るだけで弾は出なかった。
アレンの目の前で、子供は声を張り上げながら、無防備な姿で瓦礫の中を彷徨う。愛する母を求めて。
眠っていたジャンの人格が僅かに表れ、悲しみが胸に満ちる。彼は知っている。この母親が翌日、無残な姿で見つかることを。
アレンの前では、運命を知らぬ子供が戦争すら目に入らぬ様子で母親を求め続けている。
それはひたむきで、余りに弱い命だった。誰もが理不尽に殺される世界にあって、とても生き残れるものではない。
アレンには、それが不吉な者にはとても見えなかった。幼い頃より、ニュースや友人から聞いていた卑怯で狡猾な民族の姿とは余りにそれはかけ離れていた。
自らの命など何も考えていないその無垢な姿は、自分のために人を殺したアレンにとって、とても尊いものに見えた。
美しく、吹けば飛ぶように脆い。だからこそ、そっと守らなければならないように。
土煙の向こうからガタガタと戦車がやって来た。無骨な砲身をぐるりと向けて、子供に狙いを向ける。
アレンは飛び出した。傷ついていたはずの足は、この時飛ぶように駆け抜けた。
子供を突き飛ばす。無情な砲弾が放たれた。
10メートルほど吹き飛ばされて、二人は倒れていた。
掠れ行く視界の中で、子供が起きあがり、アレンを見て目を見開く。
自分の姿は、さぞ酷いものだろうと思いながら、アレンは精一杯笑って見せる。重い腕を持ち上げて、「行け」と手を振る。
何度も振り返りながら、子供の姿は小さくなり、やがて見えなくなった。
薄れる意識の中でアレンは家族に語りかけた。
「約束を守れなくて、ごめん。心配してくれていたのに気づけなくてごめん。俺は生きては帰れないけれど、俺は無意味な死にかただけはしなかったって、それだけは誇れるぜ」
異国で命を落とした一兵士、アレンの人生が終わり、ジャンは浅黒い手で頭に装着していたVirを外す。ヘルメット型の装置の下からは、赤みがかった髪が覗く。
ほうっと息を吐く。他者の人生を受け止めたことによる疲労と満足がそこにはあった。
ジャン・ソロミオン。Virを開発した張本人。そして、第三次世界大戦の最中、アレンによって救われた少年。
アレンに助けられた日から、ジャンは不思議で仕方がなかった。
どうして侵略者の兵士が、命をなげうってまで自分を助けたのか。
ある人は、「そいつはお前を殺そうとしただけさ。ただ、神がそいつに天罰をくらわせたんだ」と言った。
けれど、ジャンの記憶には、優しい表情が刻み込まれていた。その兵士は、心の底から自分をいたわってくれたと感じた。
だからこそ、ジャンはVirを作った。
「馬鹿ね」
年上の開発助手が近づいてくる。普段の冷めた表情とは裏腹に、彼女の目には涙が浮かんでいる。
「他人のために……誇りだなんて」
「エミリー、すまなかったな」
ジャンの口から滑りでた言葉に、助手は呆然と呟く。
「兄さん?」
ジャンはそっと頷く。彼の心には、自分のものではない愛情が沸き起こっていた。
Virは死者そのものを使用者の中に描き出す。スイッチを切っても、その強烈な感覚が残響のようにジャンの中にある。
胸にすがりつくエミリーを、ジャンはアレンとして抱き締める。
「母さんは、父さんは元気か?」
「ええ、皆元気よ」
「そうか……よかった」
自分の中で、アレンが急速に薄れていくのをジャンは感じていた。
機械の産み出した魔法。死者の最期の想い。
この魔法はあと十秒で解ける。
Vir ―人生体感― 黒中光 @lightinblack
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