Aは荒れていた。
のっとん
Aは荒れていた。
その人は最近人気急上昇中の若手女優Aだった。
小顔で色白、まっすぐな眉が印象的な美人だ。
Aは荒れていた。
その自慢の顔に傷がついたからだ。もう元には戻せない。
正確には、元となった顔がこの世にいないから戻せない。
Aは人ではなかった。
本当の顔、どころか体さえあやふやな粘土のような存在だった。そして、粘土のように有機物、無機物関係なく様々な姿に形を変えて生きてきた。その中でも、この顔は特別だった。
人の形は複雑で、細部を作るためには、元となる顔に触れる必要があった。彼女はもうこの世にいない。
Aは荒れていた。
恐怖と好機の視線を集めながら、髪を振り乱し、よろめきながらホールを進むAは、夏の夜に語られる怪異そのものだった。
不幸なことに、そこはテレビ局のホールだった。立ち止まり、こちらを振り返る人の中にはアイドルや女優もいる。
突然、Aの体が大きく傾いだかと思うと、見物人の一人に白い手が伸びた。女性は驚きのあまり声も出せず固まっている。Aの手が女性の顔に触れ、いや、鷲掴みにしたと同時に、乱れた髪の隙間に見える顔がぼこりと歪んだ。
Aは何事か呟くと、次のターゲットへと体を向ける。新人アイドル、雑誌モデル、AD、人気女優、次々とターゲットを変えるうち、だんだんとその言葉が大きくなる。
「・・・・・・・・・・・・ぅ。・・・・・・がう。ちがう。違う。違う。」
その場はパニック寸前だった。
誰もが場の空気に押され動けずにいるが、ひとたび破られれば、その亀裂は一瞬にして細部まで広がることが予想される。張り詰めた空気の中、Aだけがゆらり、ぐらりと動いている。Aが次のターゲットを捉えたその時、視線を切るように割り込む者が現れた。
夢見だ。
夢見は一直線にAへと近づくと、その頬を叩いた。空気の抜けたゴムボールのような音をたて、頬がぼこりと凹む。乱れた髪の隙間に見えるその顔は、いくつも殴られたかのように膨らみ、赤黒く変色していた。
驚いた表情を見せるAの手首を掴むと、夢見は呆気にとられる周囲の人間には目もくれず、階段を下りていく。
ひとつ階を下り、廊下に差し掛かると、夢見は壁に貼ってあるポスターの前までAを引っ張って言った。
「元の顔に戻りたいんでしょう?これ触って戻れないの?」
指示されたポスターには、青空の下で満面の笑みを浮かべたAの顔が写っていた。
Aはそっとポスターに触れると小さく首を振った。
「そう。なら仕方ないわね。」
そう言うと、夢見は再びAの手を引き階段へと向かう。
ちょうど上がってきた有名女性モデルと手早く交渉した夢見は、Aに彼女の顔を借りるよう促す。
「そのままじゃ歩きづらいからね。」
真顔で言った夢見に同じ顔が2つ。パールのような白い歯を見せて笑いかけた。場の明度が40%は上がったと錯覚させるほどのインパクトだったが、夢見はお礼だけ言うとさっさと階段を下りて行く。
さらに2つほど階段を下りて、長い廊下を進んでいく。と、急に夢見が振り返った。
「そういえば、あなた骨格とか、顔以外は変われるわよね?」
Aは答えとして体を変形させた。デッサン人形のような木質の胴体に人間の腕とコンパスの針のように尖った腕、競技用義足のような鉄製の足が生えている。
質問の本質が分からず、様々な形をとってみたが、ならいいわ、と夢見は歩き出してしまった。Aは後を追いながら慌てて人の体へと変形する。
いくつか角を曲がった後、狭い廊下にある扉の一枚を夢見が叩いた。ごんごんとくぐもったノック音と共に、夢見が滑り込むように中へと入る。閉まりかけた扉をAは慌てて押しやり中を覗き込んだ。
とても狭い部屋だった。
いや、狭く見える部屋と言った方がいいかもしれない。
壁際に並んだ大小様々な棚と所狭しと並んだ小物が空間を圧迫している。盆地のような空間の中央、4畳ほどのスペースを占領するのは四角い炬燵机だ。
「どう?できそう?」
夢見が声をかけるまでAは炬燵にいる老婆に気が付かなかった。
老婆は一瞬夢見に目を向け、何も言わずに手元に視線を戻した。視線を追うと、こぶしほどの大きさの人の顔が握られている。
製作途中の人形らしい。髪の毛は無く、目も肌と同色の窪みがあるだけだ。
「よかった。大丈夫そうだね。」
いつの間に移動したのか、夢見が老婆の後ろから覗き込む。
「資料が少ないから心配してたけど、なんとかなりそうだね。」
Aは夢見の口角が上がった様子を初めて見たことに気づいた。
老婆はTOMIEというらしい。普段はテレビ局の裏方作業、主に小道具を作成する造形アーティストだということだ。
そして、TOMIEの手元には、Aのポスターや雑誌の切り抜きが散らばっている。
閉幕(2023/08/22の夢)
Aは荒れていた。 のっとん @genkooyooshi
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