【9】かがり火の夜(2)


「逃げたのは、ただ――そう、ただ――……」

 清らかな神殿のうちで、麗しく白銀に着飾られた母が、月明かりのもと殺されるのを何度も見た。


 届かぬ安寧と不死に焦がれる外の人々と比べれば、微々たる数かもしれないが、〈まほろば〉の民は少なくない。彼らがみな〈禍津影〉になることなく、神子の血の祝福を受け続けるためには、七日に一度の儀式でさえぎりぎりだ。


 苦しむ民を出さないために。〈禍津影〉をしばしの間でも生み出さぬために。


 死に臨む母はいつも穏やかで、遠く月を見つめて清らかに微笑んでいた。淡い銀色の月の下、真っ赤な血を、花のように散らして――。


 ただいつも伊砂那は、それを見ていると、なぜか胸を突く鈍痛に、両目の奥が苦しくて仕方がなかった。

 〈まほろば〉の外では、死は穢れとして忌み嫌われるという。けれど、母の死は、望まれ、喜ばれる祝福だった。だというのに――目にするのが辛かった。


「母さまのように優しくありなさい、と父さまに言われたんだ」

 じっと見守るかがり火の瞳に、伊砂那は淡く思い出に笑んだ。


 それを伊砂那は、幼心に受け入れていたんだと思う。民のために、幾度だろうと死ぬべきだ。死は怖くない。蘇るんだ、と。


 しかし、実際刃で喉を裂かれた時は、ひどく痛かった。母のように穏やかに、清らかに、微笑んではいられなかった。最初の死も、目覚めも、逆巻く嵐の稲妻に打たれたようで、ただ恐ろしかった。


「私が儀式を行ったのは、月に一度だけ。血を飲んだ人も、そんなにはいない」


 伊砂那の儀式は母よりは、執り行われるまでの期間が長かった。試みだったからだ。母の血を受けた不死の者に、伊砂那の不死の血を重ねる。そうすることで次の神子の血も受けたなら、血を得る神子を次々と変えていくことで、〈禍津影〉にならずに済むかもしれないから。


 実際、成果がどう出たのか、まだなのかすら、伊砂那は知らない。その前に、逃げ出してきてしまったから。


「何度も殺されるうちに、死ぬのは慣れた、というか……死や、その時の痛み自体は、あまりどうとも思わなくなったんだけれど」


 最初の死の震えは覚えている。けれど、殺されるたび、その感覚は霞んでいった。生々しい悪夢を見て、眠りに落ちるようなもの。目覚めれば、よく耐えたと優しく褒められた。一年ひととせほど経てば、そうして鈍る苦しみとともに、死と向き合うのになれていっていた。


 ただいつも淡竹だけは、痛ましげに、詫びいるような涙色の目で伊砂那を見つめ、誰もいない時に、いくども許しを請うように頭を撫でた。伊砂那の首を裂き、心臓を突く役目の者ですら、そんな表情を向けたことはないのに。


「おじいさまの……そのつらそうなお顔だけが、ずっと引っかかるようになっていっていた」


 殺されるために生まれてきて、殺められ続ける優しさを望まれる。

 静かに、抗わず、穏やかに――慈悲すらたたえて命を奪われ続ける今の神子に――叔母の姿に、淡竹はずっと、思うところがあったのかもしれない。


「父さまをはじめ、多くの人は望んでくれているけれど……おじいさまがつらそうにするなら、母さまと同じようにしているのはいけないのかもしれないと、ちょっと、思ったりしてたんだ」


 そんな時に、淡竹が〈まほろば〉を出ようと伊砂那に告げた。


「『遅きに過ぎた。常盤に誘われたその時に、お前と逃げればよかった』といわれた。――だから、逃げたんだ」


 逃走を持ちかけた淡竹の哀切のこもった切実な瞳に、このままここで死ぬために生きるより、この瞳と願いに応えた方がいいのではないかと思った。


「それ以外の理由は、実はあまりなかったんだ。それなのに……――私はおじいさまを置いてきてしまった」


 〈まほろば〉の追手は巻いた。だが、それからひと月ほど経ったころのことだ。


 〈禍津影〉のまき散らした腐肉を食んだ動物が、その呪われた不死の身の影響を受け、化け物に変ずることがあるのだが、その哀れな獣――〈穢獣えじゅう〉の群れに襲われることがあった。


 〈禍津影〉と違い、〈穢獣〉は不死ではない。倒すために鬼神官の力や呪紋様もいらない。だが、ある程度の再生能力を持ち、ただの獣である時より大きな力でもって、人を襲った。並みの人間には手に余る相手だ。


 それが群れとなって襲い来たのである。淡竹はもちろん腕に覚えがあったし、伊砂那にも神子の力がある。太刀打ちできないものではなかったが、大群となると苦戦を強いられた。


 そこへ、近くの神宮から討伐隊がやってきてしまったのだ。そして運悪く、月明かりに染まり変わっていた伊砂那の髪の色を見られてしまったのである。


 討伐隊は、追跡隊へと役割を変えた。攫われた〈月花の神子〉を保護し、下手人を捕まえようとしたのだ。

 〈穢獣〉と神宮と伊砂那たちの三つ巴となった混戦の中、淡竹は深手を負うにいたった。


「その時、『逃げろ』と、叫ばれたんだ。声を荒げたのを聞いたことがないおじいさまの、必死な叫び声を、聞いたんだ」

 ここで捕まれば、次はない。それも致しかたないと早々に諦めた伊砂那を、急き立てるような叫びだった。


「どうしても、逃げなければいけないと思った。だから、何も考えず、逃げて来たんだ……でも、だから――おじいさまの最期を知らない……」

 ぽつりとこぼれた言葉とともに、伊砂那は抱き寄せた膝頭に顔を寄せた。


 淡竹は、〈まほろば〉における高位の神官がそうであるように、〈月花の神子〉の血を飲んではいなかった。ゆえに、受けた傷も癒えなければ、死を逃れることもできない身だ。

 伊砂那が逃げだした時の傷を思えば、もう、けして、言葉を交わすことは叶わないのだろう。


 だが、目の当たりにすることはおろか、確かめることすらできていない。だから、受け止めすらできず、どこか淡竹の死というものは、伊砂那の中で茫漠としていた。


「……おじいさまと別れた場所に、戻りたいとは思うんだ。でも、〈月花の神子〉は、〈禍津影〉や〈穢獣〉を寄せるみたいだから」

「人の営みを襲うのと同じなんじゃないかな。〈禍津影〉はかつての暮らし――そこにあったはずの安寧を、無意識に得ようと奪いに来る。だからその血が与えてくれていた安寧を求めて、寄ってくるんだろう。もう、穢れ、腐れきった身体には、効果がないと分かる理性もなく、ね」


「そう、だったのか……」

 篝の言葉に、伊砂那は目を瞬かせた。そしていやに深く、なるほどなるほどと頷くと、藍色の双眸にかすか得心の喜びを灯して篝を仰いだ。


「よかった。実はおじいさまと別れてから、〈禍津影〉を祓いきれずに、ちょっと何度か死んでしまったことがあって。あまりに私がしっかりしてないから、こんなにも襲われてしまうのかと思っていたんだけど……違ったんだね」

「なんか聞き捨てならない報告混じったけど、少し詳しく聞いていい?」


 さらりと流れていった死んでいた報告に、思わず篝は笑みを深めた。安堵の色とともに、うっかり感覚で語られた気がするが、断じてそんな内容ではない。だが、伊砂那にはそのあたりが伝わっていないようで、細い首は小さく傾いだ。


「詳しくもなにも……おじいさまに多少手解きは受けたけど、戦い方はまだあまり上手くなくて。人には見られないうちに生き返ったから、血を飲んだ人は、いないと思う。たぶん、そこは平気。まさに無駄死ってぐらい、うまい具合に、誰もいないところでばかり死んだから」

「さっきまでの会話の流れ、そんなお手軽感覚で君の死を語っていい雰囲気じゃなかったけど、大丈夫?」


 あまりに淡白に、しかし謎に軽やかに力強く平気を保障されたが、問題なのはそこではない。そこではないのだが――藍色の大きな瞳は、不可思議そうに、情の色薄く揺れるばかりだ。


 篝は、ため息と一緒にいろいろなものを飲み込んだ。

 慣れてはいけないものに慣らされている――そこは釈然としないが、いまはそれを説くのも無為だろう。


「まあ、ともかく……昨日の夜、村で君を見つけた時から、淡竹殿がいないな、とは思っていたんだけど――そういう事情だったのは分かった。俺も一度、会ってはみたい人だったから、残念だな……。でも、君が逃げられたのがせめてもの手向けになるだろう。ただもし、君が最期をその手で送りたいと望むなら、その場所に一緒に戻ってもいいけど?」


「――いい、の……?」

 思いもつかなかったことらしく、細い面差しは、篝の提案に静かな驚きでもって彼を見つめた。


「あそこは〈穢獣〉が多かったし、神宮も近いから、ひとりではとても戻れないと思っていたんだ。でも、篝たちがいるなら、平気かもしれない」

「よし、それじゃあ戻ろうか」

 押し切るように篝は微笑んだ。


「それぐらい寄り道する余裕はあるし、君はなにより、やりたいことがあるなら、それをやった方がよさそうだから」

 どういうことかと問いたげな伊砂那を、「場所を教えてよ」と篝ははぐらかした。

 言われるままに、伊砂那はたどたどしく淡竹と別れた所の情報を話す。やがてそのげんに、篝の唇が満足げに引き上がった。


「なるほど。〈まほろば〉外周部の裾先。須万すまのあたりかな。それならこっちにも都合がいい。君に会わせたい奴がいてね。いま、ちょうど、ここと須万の間ぐらいにいるらしいんだ。そいつと合流して、須万にいこう」

「都合がいいならよかったけど、私に会わせたい人って?」


 きょとんと瞬く瞳は、そこに確かに思いのさざめきはあるのだろうが、まだ弱々しい。透き通った幻想的な面差しがどこか覚束なく、色褪せた切なさを湛えるのも、そのせいだろう。


 もったいないと純粋に思って、それが変わればいいと、かすか期待を込め、篝は焔の瞳を淡く細めた。

「たぶん君の――運命の人だよ」



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