【9】かがり火の夜(1)


 ごろんと何度目かの寝返りをうったあと、伊砂那はおもむろに起き上がった。耳たぶをかすめ、頬をくすぐる髪先は周囲と同じ、夜の黒。月はもう天頂を過ぎて傾いて、森には差し込まない。


 少し離れた場所のたき火は、ほんのりと明るく炎を燻ぶらせて揺れていた。就寝に際し、くべる枝葉を減らして小さくしたのだ。

 火の晩と見張りは智景が当たる時間のようだが、たき火近くの石に腰かけたまま、こっくりこっくり船をこいでいる。見張りはやはり、得意分野ではないらしい。笹羅は縛られたまま器用に眠り、智登世はその脇ですやすやと転がっていた。


 篝の姿が、見当たらない。


(どこ、だろう?)

 不安とも違う妙な心もとなさに胸の端をひっかかれ、伊砂那は彼の姿を求めて立ち上がりかけた。その時。死角から低く声が囁きかける。


「寝れない?」


 瞬間、ひゃっと全身が総毛だった。が、思えば聞き知った声音に、走った緊張をほどくように伊砂那は吐息をこぼした。それに篝が肩を揺らして、低く笑う。腰まであるほどいた黒髪が、遠くたき火の火灯りを纏って、夜空を宿した水面のようだった。


「ごめんごめん。寝つくにここは、場所が悪かったかい? それとも男所帯だとやっぱ難しい?」

「ううん? 野宿には〈まほろば〉を出てからだいぶ慣れた。それに、眠るのに男女は関係ないよ」


 他意なく、当たり前のこととして伊砂那は微笑んだ。眠れないのはつい最近、一度死んだせいだ。そうするとしばらく眠りが浅くなる。そのせいだと伊砂那自身は分かっているのだが――なぜか篝はにこやかに笑んだまま、しばらく沈黙に固まった。


「……篝?」

「いや、うん。ちょっと、待ってね」


 固まった笑顔をほどいて、ひとつ、深く篝は息を吸い込んだ。訝しむ伊砂那のそばへ、顔を突き合わせてしゃがみこむ。


「ひとつ、想定をしてほしいんだけど。君がここで寝ていると、俺が君の隣、これぐらい近くまでやってきて横になった。そのうえ寝た様子はなく、それどころか寝ている君を押さえ込んで拘束してきた。この場合、君はなにが起きてると思う? ちなみに、君の神子として不死を与える力は一切関係ないものとして考えてほしい」

「不死の血は、関係がないとして……? それは、うん……?」


 淡竹の名を出されて、確かにいま伊砂那は彼らにずいぶんと警戒心をほどいていた。当初篝に抱いていた、得体のしれない危うい感覚も薄れている。

 だが、淡竹の件がなんらかの嘘やたばかりで、篝たちも不死のために伊砂那の命を狙っている、としても不思議はないのだ。だがら、油断して寝入っているのに乗じて、彼女の血を得ようと手をかけてきた――という想定は容易に考えつけた。だが、そうではないとなると、さっぱり分からない。伊砂那は頭を悩ませた。


「……不死を得るほかに、私に手を出す理由があるだろうか? あ! 一番いい寝る場所を取ってしまったので、どかそうとした、とか、どうだろう?」

「うんうん。そうだね。それもあるかもねぇ。――よ~し、分かってきたぞ。思っていた以上に育ってきた環境が違う。安寧の〈まほろば〉……なるほど。おまけにそこの神子……なるほどね」

 自信をうかがわせた藍の瞳に、にこにこと作り笑いを深めていた篝は、そこで唐突に頭を抱えた。


「どうすんの……! この無防備さ!」

「その……眠るには、〈まほろば〉と外でなにか違う作法があったのだろうか?」

「あ~……うん、ある意味?」

「なら、それを教えてほしい」

 ぐいっと躊躇いなく、伊砂那は篝に迫った。


 〈まほろば〉の外のことについて、無知なのは自覚していた。淡竹に多少、外の仕組みのこと、貨幣のこと、物流のこと、町の暮らしこと――いろいろと話を聞き、逃避行の中でも教えを受けた。が、まだまだ及ばないことは多々あろう。


 間近で躊躇なく篝を見上げる瞳は、ひどくまじめで、まっすぐだった。

 その眼差しを無下にはできなくて、篝は致し方なく受け止め、無垢な藍色を見やる。


 なにの教授を乞うたのか、自覚のない彼女との距離は、夜のとばりの内、息が通い合うほど近い。暗い闇にほのか浮かび上がる儚い白さと細い首筋は、容易く手にかけられそうだ。だがその距離は、信頼ではない。


 厄介だ、と篝は天を仰いだ。穢れを知らぬ〈まほろば〉の安寧。その弊害としかいえない。


「いや、教えてもいいんだけどさ。いいんだけど……」

 ちらっとうかがえば、動かぬ表情の中、それでもどこか期待に満ちた目が彼を映している。思わず、篝は真顔になった。

「駄目だろ」

 伊砂那に告げてるのか、己に向けてるのか分からぬ響きで強く言いきる。


「ともかく、そうだな……あ、あれだ。教えるけど、少なくとも今はうまい教え方が思いつかないんで、ちょっと時間が欲しい」

 困惑がのった藍の双眸を、曖昧に引き延ばした約束でにごして、篝は伊砂那から少し離れたところへ腰を下ろした。


「――しかし、君が男のかっこうをしていたのも、確かにひとつ意味があったようだ。それは淡竹殿の発案かい?」

「うん。〈まほろば〉の手の者に見つかりにくいように、髪を短くして着物を男物に改めた。髪を切る時おじいさまには謝られたけど、私は頓着はなくて、別に良かったんだ。でも、すごく気にしてくれた。……思い返せば、ずっと、〈まほろば〉にいた頃からそうだった気がする」


 眠れぬ夜。隙間を埋めるように寄り添う焔の瞳。それに誘われるように、ぽつりぽつりと、伊砂那は辿る思い出を、言葉に変えはじめた。


「七日に一度、〈月花の儀〉というのがあるんだけど……七つを過ぎた頃から、それに参列するようになったんだ。その時に――いつも手を握ってくれていた。〈まほろば〉を出ようと言ってきてくれたのも、たぶん……私が儀を行う側になったからなんだと、思う」


「――俺は〈まほろば〉にいたことはないけど、その儀がどんなものかは、知ってる。その儀をやっていたのは君の母上だろう? 幼い君にそれ見せてたってのは……ずいぶんと、惨いことだね」 

 伊砂那の声は淡々とおだやかだったが、篝の響きには刺々しい憤りが滲んだ。


「儀式なんて言って取り繕っても、それは結局、民の前で行う神子殺しのことだ。七日に一度、神子の首を裂き、心の臓を抉って〈まほろば〉の者たちで血をすする。そうしないと、常永久の命でもって苦しむから」

「外にいたのに、知っているの?」

 大きな瞳をさらに大きくした伊砂那へ、篝は肩をすくめた。


「俺たちの頭は、元・鬼神官だからね。《ツクヨミ》の一部しか知らない秘密にだって精通してるさ。逆に笹羅殿はどうも、鬼神官ではあるが、〈まほろば〉に入る前だから、知らされてないようだけど……」


 篝にしてみればずいぶん甘い、純朴で真面目な気質がうかがえる彼のことだ。神子の血を得るための行為があろうとは分かっていても、月に四度も身を裂き屠るようなものだとは思っていないだろう。知ったならば、素直に〈まほろば〉の鬼神官などやっていなかったかもしれない。彼らの頭が、〈まほろば〉と袂を別ったように。


「神子の血は、天女の祝福と――呪いだ」


 月の輝きを受けて、銀色に染まる月天女の子。その血の一滴で傷が癒える。その血を飲めば不老不死になれる。

 けれど、代わりに呪われる。


 その血をもらい続けなければ、不死の身はいずれ苦痛にのたうつ。そして血を得られぬ果てには、人ならざるモノ――穢れをためた、〈禍津影〉になってしまう。

 だから神子は、〈まほろば〉に縛められる。不死を得た民たちに、血を与え続けなければならないから。殺され続けなければならないから。


「……おまけに〈月花の神子〉の血は、それを口にした者に忘却を与えるんだろ。血を飲めば飲むほど……情を忘れて失っていく」


 虚栄の苦しさも、嫉妬の痛みも。怒りも、悲しみも、欲望も、妄執も。愛おしさも、喜びも、楽しみも。およそこの世で人が抱き、縛られる情のすべてを喪失する。ただそこに残るのは、ある種、心穏やかな平穏だ。人らしく生きられなくなる代わりに、苦しみなく永遠を手に出来る。


 それが、〈まほろば〉の不死と安寧だった。〈月花の神子〉を屠り、その血をすすり続けて、忘却と永遠を得ることで回る。――いけにえの血に濡れた桃源郷だ。


「一度不死に焦がれて、〈月花の神子〉の血を飲んだが最後。不死の化け物になるか、空疎な不朽を手に入れるか、どちらかだ。まあ、生きるのに疲れ、それでも死を恐れる者には、後者は魅力的なのかもしれないけどね。それにしたって、不老不死ばかりがひとり歩きして、儀式の惨さに思いを馳せる者もいなけりゃ、神子の血の本当の力も知る者なんてほとんどいない。長年よくもまあ、巧妙に隠し続けてるもんだと、その点では《ツクヨミ》に関心するよ」

 微塵も敬意がない調子で、篝は乾いた賞賛を送った。


「おまけに上層部は、もっと大きな秘密も隠し続けているんだろう? 君は……そこまでも教えられてるの? だから、逃げてきた?」

「〈赤〉の鬼神官さまは、そこまであなたたちに話したの……?」

 瞬く藍色の瞳に、篝は柔らかに微笑んだ。


「一部の者にだけね。反神徒の集まりといっても、一度は〈まほろば〉と《ツクヨミ》への信仰のもとで生きてきた者たちだ。全員が全員、冷静に受け止めきれないでしょ。結局、不死になろうと、最後は〈まほろば〉の民も、神子も、〈禍津影〉になるって」


 血を与え過ぎると神子は不死の力を失い死ぬ――それはより正確にいうと、少し違った。血を与え過ぎた神子は、最期に〈禍津影〉となる。


 そして、ある代の神子の血で不死を得た者たちは、次代の神子の血では同じ効力を得られなかった。だから、自分が殺して血を飲んだ神子が〈禍津影〉になれば、自然と、その末路は同じ化け物になると決まってしまうのだ。

 そうして〈まほろば〉の外には、死なない魔物が増えていった。


 鬼神官や呪紋様の力が〈禍津影〉を祓えるのは、一時のこと。彼らは元は、神子の血で不死となった人間だ。死ぬことが出来ずに、また化け物として腐った身体で蘇る。


「あんな化け物にされたくないと思うのは、当然のことだ」

 気休めでなく、篝は伊砂那の逃走を是とした。けれど、伊砂那はゆるりと首をふるう。


「そうじゃ、ないんだ。いつか〈禍津影〉になるっていうのは……知ってはいても、よくまだ実感してない。もしなるにしても遠い先のことだし、そうならない方法が、もしかしたら見つかっているかもしれないから」

 自分の中で不鮮明に漂っていたものを確認し直すように、言葉を選びながら、伊砂那は静かに言った。



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