【8】《迦具》
たき火の灯りに、木々の影が濃く黒く揺れる。
町の外、平地を過ぎた先の雑木林を抜け、さらに遠く離れて進むと、あたりの木立ちはいつしか森と呼ぶべき深さと広さに変わりゆき、そこが今宵の伊砂那たちの寝床となった。要は野宿だ。
「そっちの左目が緑なのが
木の幹を背に座る伊砂那の正面。左右からしげしげと、ほぼ瓜二つの青年たちが好奇心を宿して伊砂那を見つめてきている。短い髪は淡い鳶色。それと同じ色の瞳が、それぞれ左右にひとつずつ。もう片方は篝の言葉通り、新緑の緑だ。篝よりもわずか年下、伊砂那と同じ年のころのようだが、大きな目元のせいか少年の気配が残る風貌だった。
「弓と馬の腕はなかなか立つよ。見張りのような役回りは得意じゃないけど。あとはまぁ……いっか」
「なんだよ、篝、そんな失敗よりも他にもっと言うことあるだろ!」
「さっき援護して、
「君らの夕飯の面倒みさせられて忙しんだよ~、俺」
口を尖らせ騒ぐ智景と、不満顔で募る智登世を適当な笑い声で流しながら、篝は肉の炙り加減を見ている。伊砂那と篝は早い夕餉を終えたが、双子はこれから空腹を満たすのだ。香ばしい匂いには、伊砂那も心少なからず惹かれてしまうところがあるが。
「それに、そちらの鬼神官さまも、腹減ってるだろうから、早くご準備してさしあげないとね」
にこりと篝が目をやった先に、申し訳なさを添えて伊砂那もそろりと視線をやる。そこには、丁寧に後ろ手に縛りあげられて歯噛みする、笹羅の姿があった。傷の手当てもされている反面、呪紋封じの
「ももと手羽、どっちが好き?」
「うるせぇ! お前の焼いた肉なんぞ誰が食うか! それより解け! なんだこれ、ほんと! 起きたらこんななってて、ふざけんなよ反神徒ども! お前ら後で! 俺が! 直々に! どうにかしてやっからな!」
「よく吠える」
「篝~、やっぱこいつ、あの場に置いてきた方がよかったんじゃね?」
「こんなに騒ぐ奴、連れて移動するの、僕、やだ。捨てていこ」
微笑みに目を細める篝に、左右から対象的な調子の同じ声が交互にかかる。そんな彼らにちょうどよく焼き上がった串を渡してやりながら、篝はさも残念そうに、大仰に首を振るった。
「俺もそうしたいのは山々だけど、伊砂那のことを見られちゃってるからね。このまま放って、〈まほろば〉側に〈月花の神子〉の所在を知られるわけにはいかない。仕方ないさ」
人の好さと責任感が仇となった。伊砂那たちを案じて後を追ってこなければ、森で虜囚の憂き目を見ずに、神宮で歓待の身であったろう。
(……もしくは、今日が曇っていたならな……)
若葉芽吹きだした木立の隙間からのぞく空を伊砂那は見上げた。満ちた月はちょうど天頂。遠く小さく、けれど明るく光を注ぎ落している。
伊砂那の髪は森の中では不安定に変わった。こぼれる月明かりに銀色に輝く時もあれば、風に揺れる枝葉の影に覆われ、黒く染まり戻ることもある。ちょうどいまも、空を見るのに少し身を乗り出したら、銀へと煌めき変わった。
「それ、不便だよな。〈月花の神子〉ってばれやすくって」
「でも面白い。きらきら変わって、ずっと見ていたくなる」
「智景、智登世。不躾に眺めるものじゃないよ」
白雪にはしゃぐ子ぎつねのように、また伊砂那へと向けられた二対の好奇心をたしなめて、篝は伊砂那を振り向いた。「いる?」と問われて頷いた彼女へ、串を一本手渡す。
物欲しそうな顔をしていただろうか、と首を傾ぎながら、そそられる焦げ目のついたもも肉に伊砂那はかじりついた。美味しい。塩ではなくなにかを塗っていたが、それで独特な爽やかな痺れのある刺激と、甘しょっぱさが舌の上で踊るのかもしれない。
もぐもぐと、小型の肉食獣のようなせっせとした咀嚼を眺めながら、篝が笑う。
「鬼神官さまと違って、神子さまの方は素直について来てくれて良かったよ」
相変わらず、その笑みには人好きのする慕わしさがたたえられていた。だが、先の黄昏の草原。伊砂那の腕を掴んだ抗いがたい凄みの残り香も、どこか香っている。
思わず伊砂那は篝に捕まれた手首を見下ろし、そしてゆっくり、彼の微笑みへ視線を戻した。
「やだな、そんな無言で疑義を訴えないでよ」
「そこそこ逃げられない力で掴まれていた気がする」
「言葉にしてって意味じゃないからね?」
ぼんやりと手首の感覚を思い返しながらこぼれた伊砂那の言を、にこやかに篝は流して捨てた。
同じ笑顔なのにずいぶん様々な色合いをのせる人だ――そう、妙な感嘆を抱きながら、伊砂那は彼の見目のいい顔を見つめる。
「それに……『探してた』というのが気になったから」
淡々と、逃げなかったもうひとつの理由を伊砂那は告げた。
探していた、ということは、〈まほろば〉から伊砂那が――次の〈月花の神子〉が、逃げ出したことを知っていたことになる。あの野盗たちのように偶然に神子の存在を知って、あわよくば不死を得ようとしてきたのとは訳が違う。〈まほろば〉の外にいると確信し、見つけ出そうとしていたのだから。
「君を〈まほろば〉から連れ出したのは、君の従兄殿なんだろ?」
「どうして、そこまで……」
表情の変化に乏しい伊砂那に、明らかな驚愕が浮かんだ。
〈まほろば〉からの逃亡を伊砂那に持ち掛け、そしてともに都を囲う壁を超えたのは、祖父ほども年の離れた従兄だった。
本来常永久の存在である神子は、しかし〈禍津影〉の影響で、人へ不老不死を与える力を使い過ぎると、その永久を失ってしまう。しかし神子がいなくなる間際、かならず次の神子が現れ出るのだ。天を巡る月の灯りが、満ちようとかけようと、必ず昇りくるように。神子はけして途絶えることはない。
だが伊砂那は初めて、そうではない神子だった。いまの神子の統治はまだ百年にも満たない。どれほど力を使おうと、あと数百年は生きていく。だから、次代の神子が生まれるのはいままでどおりならば、もっと先の話だった。
だが伊砂那は、いまの神子の娘として生を受けた。それゆえか、彼女もまた、母と同じ月天女の祝福を得ていたのだ。
実際のところは、先例がないので血の繋がりがゆえんかは定かではないのだが、神子であることに違いはない。
伊砂那は生誕時からいままでは普通の子と変わりなく年を取ってきたが、もう二、三年もすれば老いなくなり、そしていつか――母の後を継いで〈まほろば〉の象徴となるさだめだった。
こうしていま、〈まほろば〉の外に逃げ出していなければ。
「十数年前、君が生まれた少し後ぐらいか。〈まほろば〉の鬼神官のひとり、〈赤〉の
火灯り照らす穏やかな笑顔は、そう、伊砂那の知らなかった従兄の老翁のことを語った。
「『今さらに、お前を頼ることを許してほしい。〈まほろば〉を抜け出した先、もし私が志半ばに倒れることがあった時は、伊砂那のことを頼む』とね」
赤い瞳の奥に、たき火の火の粉が爆ぜる。くるりと篝の手が、新たに炙り出した肉の串を適切に返した。
「手紙を運んだのは、常盤が彼の元に残した隼だったんだけど、まあ、そいつも年老いていたから、そこそこ届くのに時間を要してね。それに内容も、常盤の手に渡らず他者の目に触れる可能性を恐れて、いつ、どうやって、どこへ逃げ出すのかっていう詳細は記されてなかったんだ。だから、さすがに探すのにはなかなか苦労したけど」
「そうか……
ほっと伊砂那は、抱き込んだ膝に知らず安堵の吐息を落としていた。白く澄んだ頬がわずかやわらぎ、笑みを灯す。
それに篝は優しく目元を緩めて、楽しげに声をたてた。
「おじいさまって呼んでたの? まあ、確かに年齢的には従兄殿よりもそっちのほうがしっくりくる。あとで常盤に話してやろう。お前の年はおじいさまだ、ってね」
「んなこというと、またどやされるぜ」
「ほんと、息子みたいなものだからって、常盤さま相手に懲りない、篝」
もぐもぐと忙しく肉をほおばりながら双子がいう。篝は聞こえていない風で、もう一本ずつ串を渡して黙らせてやった。
「それに、まあ、君のおじいさまの頼みもあったが、こっちにも事情があってね。俺たちも〈月花の神子〉を必要としてたんだ。〈まほろば〉のすべてをぶち壊すためにね。だから、今回の君の脱走は願ったりだった、ってわけさ」
ついでのように物騒なことを紡いだ柔らかな声音は、笹羅の方を向いて口端を引き上げた。
「当然、〈まほろば〉側も君を追い、見失ってからは探していたようだけどね。ただ、探し手にどこまで事情が知らされてたかは、微妙なとこだな。彼、攫われたとかって言ってたし」
「どうだかな! お前らの言い分が本当なのかは怪しいし、神子殿だって、淡竹殿の意図にどこまで賛同されて〈まほろば〉を出たのかは分かんねぇだろ!」
詳細を知らされずにいたことは図星らしい。苦し紛れの叫びで暗に認めながら、笹羅は動かぬ身体で悔しげにじたばたともがいた。
「っていうか、そうか、お前、篝! その名で気づけばよかったんだ! お前、常盤の作った反神徒集団『
そこで笹羅の勢いがしぼんだ。唐突に口内に肉の串を突っ込まれ、思わず目を瞬かせて咀嚼する。
うんざりとしたため息が、篝の口から盛大にこぼれた。
「その呼び名、あまりにもなにかがむず痒いからやめてもらえる? そもそもそちらの誰? それつけたの。服装? 髪色? どこからとったの? こんな出で立ちのやつ、そこそこいるだろ」
「漆黒の篝漆黒の篝漆黒の篝!」
しっかり肉を味わい終えてから、勝ち誇ったように笹羅は連呼する。ゆったりと、不穏な穏やかさで篝の瞳が細められた。
「笹羅……俺は気は長くないけど優しい男だから、次にその腹にのめり込ませるの、肘と膝、どっちがいいかは選ばせてやるよ。どっちにする?」
首を傾いだはずみで、肩口から長い黒髪が蛇のように滑り落ちた。火影が陰影を彩る笑みに、笹羅はすっと口を閉ざした。
その左右に、ひょっこり座り込んだ智景と智登世がひそひそと彼をこづく。
「尻込みするなよ、いけよ。応援だけはしてやるから」
「男ならやり切ればいいのに……骨、拾ってやる」
「いやいやいや、無理だろ、あれ。俺、いま肉食っちまったばっかだし。出てきちゃうだろ」
年が同じほどだから、共通の敵に似たなにかを得たからか――急速に刺々しさの消えた空気でこそこそ賑わいだした三人に、ふと篝は口元を緩めた。
「打ち解けてきたようでなによりだけど、君の前でここまで包み隠さず話してるってことは、どういうことかわかるかい?」
はっと、双子とやりあっていた笹羅が顔色を変える。
しかし、一瞬張り詰めた空気を篝は笑い飛ばした。
「なんてね。君を始末するなら、最初からそうしてる。わざわざ神宮側が君を捜索しだす危険を冒してまで、連れてこない。ただ、そういう方法も取れるということだ。それをよくよく理解しておくことだね。君は捕虜。処遇は俺の胸三寸。いいね?」
いい含めるほど優しくはなく、けれど脅すほど突き放す冷たさも潜ませず、篝は静かに念を押した。
「ま、それに、俺たちに大人しくついてくるのも悪くないと思うよ。こっちに鞍替えしようって気になることがあるかもしれないからね」
「……それだけはねぇよ」
見つめる赤い眼差しから、そっけなく顔をそむけながら笹羅は呟いた。だがそれに応えるのは、悠々としたただ軽快な笑い声。
再びいるかと差し出された肉の串を、笹羅は拒みはしなかった。
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