【7】たそがれの誘い


 雑木林の合間を華麗に縫って、矢はどこからともなくひきりなしに〈禍津影〉に注ぎ、その腐った肉を散らし、抉る。しかし、影の意識はひたすらに篝に注がれていた。怒りにも似た執着で、四肢で大地を揺すり、木々をなぎ倒しながら彼を追いかけてくる。

 だが、伊砂那の見やる先、その澄んだ口元に浮かぶのは不敵な微笑だ。


 町の半鐘はもはや遠く、代わりに夜空には幾重も甲高い笛の音がこだましていた。独特の高低で呼びかけあうように、夜に染まり出した濃き紫の空気を切り裂いていく。耳を研ぎ澄ませば、〈禍津影〉の轟かせる足音に紛れて、馬のひづめの雄々しい響きが混じっていた。


「ここらかな!」

 唸りを上げて薙がれた〈禍津影〉のしなる腕の一撃をすれすれでよけ、篝は狙い定めて、ある一転に滑り込むように身を翻した。雑木林の途切れ目。やや開けた場所だ。


 そこへと〈禍津影〉が追いすがったとたん。

 突如迸った光の輪が、その身を戒めた。鼓膜を破かんばかりの絶叫で膿み爛れた身体を揺り動かし、空を騒がす。


「やれやれ……なんとか捕縛は成功」

「これは……?」


 初めて見る光景だ。ようやく止められた足に、荒い息を整えながら、伊砂那は目を瞠る。守られながら、庇われながら――そのわりには強引に引っ張られ続けながら、結局彼に連れられるままに走ってきてしまっていた。


「〈禍津影〉封じの呪紋様だよ。四方と中央に紋様を刻んだ輝石きせきを埋めて、誘い込むことで発動するんだ。使いにくいわりに、呪紋様具は貴重だし、費用対効果は正直微妙なところなんだけど……決まればあとは楽なもんさ」


 左手に握った長い方の太刀を、しなやかに篝は眼前に構えた。ゆらりと手首の赤い勾玉が、焔のような輝きを抱いて揺らめく。


「この勾玉に施された紋様には、〈禍津影〉を引き寄せるのと、他の呪紋様の力を増す効果があってね」

 太刀に彫られた紋様に火花が迸り、刃はたちまちに炎を帯びた。火灯りに朱色に照らされながら、呻き嘆く〈禍津影〉を見据え、篝はぐっと深く足に力を込めて身を低くした。


「これならか弱い呪紋様でも、止めの一撃ぐらいにはなるってことさ」

 瞬間、地を蹴りつけた篝の身は、軽やかに高く、〈禍津影〉の胸部へと迫っていた。紅蓮に燃え盛る剣が一閃、その八つの目玉を身体ごと横薙ぎに切り裂く。


 とたん火柱が〈禍津影〉を貫いて燃え立ち昇り、夜に染まった空もろとも焼き焦がした。断末魔の響きが宵の静寂を揺るがし、脳天をつんざく。

 だが、すぐにそれは焔とともに夜天やてんに飲まれゆき、〈禍津影〉は灰となって消え去った。


 春の風が、涼やかな闇を纏って吹き過ぎていく。

 夕陽の名残は消え果て、空には星が瞬き、あたりはすっかり夜だ。


「人目がない場所でよかっただろ?」

 ゆるりと、長い髪をなびかせて、赤い篝の瞳が笑みに細められ振り返った。

 東の山の端には、全き月が輝いている。


「あそこだと、力を使わなくても大勢にばれてたよ」

 降りこぼれる月明かりに溶ける、伊砂那の銀色の髪。甘い夜風がその髪先を戯れにさらう。


「知って……」

 微塵も驚きのない彼に、伊砂那は言葉を飲む。

 彼は答える代わりに、走り抜けてきた町の方へ目を向けた。

「しかし、厄介なことに、ひとりにはばれたらしい」


 溜息に振り向けば、そこには足を引きずる姿があった。青緑の髪。頬の紋様――笹羅だ。

「お前……」

「町の方を頼んだと思ったんだけどね」

 睨むに近しい驚愕の様相にも、動じた風なく篝は肩をすくめた。


「まさかお前、いやあなたが、攫われたっていう次の〈月花のみ、」

「よし! これしかない!」

 笹羅が己が受けた衝撃を言葉にしきる前に、篝はにこやかにそのみぞおちにえぐい拳の一撃をのめり込ませた。防ぐ間もなく、なにか、笹羅の口から苦痛とも苦悶とも、どっちともとれる可哀想な音がもれでた。白目をむいて、そのまま地面に昏倒する。


 あまりにも爽やかで躊躇いのない暴力。伊砂那は思わず呆けて見守ってしまった。

 その隙に、無防備な手首をがっしりと掴まれる。


「さて、うちの見張りがヘマするから、ずいぶん回りくどいやり方になっちゃったけど……ま、あの一宿小屋で顔合わせるより、仲よくなれたかもしれないね」

「あ、思い出した」


 掴む手首にある赤い勾玉。それが、あの夜の朧になった記憶と繋がる。喉をかき切られた伊砂那を抱いた、その手首にあったものだ。

 探していた――と。そう彼は言っていた気がする。


 振りほどこうとしても振りほどけない腕の強さと、なぜか逃げようと必死になれない己に戸惑いながら、伊砂那は篝を見上げた。


「君を探してた。来てもらうよ」

 微笑む赤い瞳に、春の宵風が銀糸の髪をなびかせていた。




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