【6】討伐

 黄昏の闇が、足元から、東の裾のから、じわじわと迫る。伸びる影は広く大きく、さらにか黒い夜の指先にさらわれていく。


 人の流れに逆らって駆け抜けた先。鼓膜を砕く倒壊音が響きわたり、鼻をつく異臭が立ち込めてきた。膿み爛れた獣の臭い。

 轟く地鳴りとともに巻き上がった土煙が晴れれば、そこには西日を禍々しく受けた、どろどろの小山ほどの生き物がのっそりと蠢いていた。きつい腐臭はそこからだ。


 赤黒く爛れた肉とも皮膚ともつかぬものが、それの全体を覆っている。人に形は似ているが四つ脚で這い、頭部と思しき部分に顔はない。胸元にあたるところに、蜘蛛のように八つの目に似たものが、稲光ようにちらついていた。

 その前に、人影がひとつ。深い青緑の頭髪。浅葱の衣。笹羅だ。


「おい! お前! さっきの!」

 背後の息きらせた伊砂那の気配に気づいて、笹羅は目をむいて声を荒げた。

「こんなところで何やってんだ! 逃げろ! 〈禍津影〉は反神徒とは訳が違うんだぞ!」


 〈禍津影〉は不死の化け物。そして、月天女が嫌った不浄とされていた。月天女の力を呪い、弱める、穢れたモノ。


 常永久の命を得ている〈月花の神子〉。本来は永遠を生きられるはずの神子に、実は代替わりがあるのも、この〈禍津影〉のためだ。本来は月天女によって不死を与えられている神子なのだが、〈禍津影〉が地上に蔓延るため、その祝福を万全に受けきれていないのだという。


 ゆえに神子は、〈まほろば〉の民に安寧と不死を与える力を使い過ぎると、月天女に呼び戻されるように、儚くなってしまうのだそうだ。次の神子に、〈まほろば〉と民を託して――。


 そのうえ〈禍津影〉は、神子のまったき力を不全にするだけでなく、現れ出れば、命あるものやその営みを呪うように破壊し尽くした。


 意思があるようにも、ないようにも見える、得体のしれない異形のモノ。ただ人の手にはどうにもできない怪物。そして、なにより、〈月花の神子〉を穢し貶める存在――。

〈禍津影〉は、あらゆる意味で、〈まほろば〉の排除すべき敵であった。


 だから、鬼神官がいるのだ。彼らが生まれついて持つ呪紋は、〈禍津影〉に抗しうる力を授けてくれた。その力だけが、〈禍津影〉と戦い、一時的に消し去ることを可能とするのだ。


 だが、呪紋を持ち生まれいずる者は、たった五人。それだけでは、国の津々浦々に現れ出る〈禍津影〉と戦うには、どうしても心もとない。そのため《ツクヨミ》は、長い年月の中で、鬼神官がもつ呪紋を元とし、呪紋様じゅもんようと呼ばれる模倣の紋様を生み出した。それを武具に刻むことで、鬼神官に比べれば微々たるものだが、似た力を引きだすことに成功したのだ。


 けれど、伊砂那はそんな武器さえ手にしていない。その無謀に笹羅が怒りを示すのは、もっともなことだった。


(でも……)

 笹羅の足へ、伊砂那は目をやった。深い裂傷。浅葱は赤黒く染まり、引きずっている。

 制止を聞かずにそばまで一気に駆け寄り、伊砂那は笹羅の足を庇う位置についた。


「笹羅、〈禍津影〉の相手をしたことは……?」

「……一度!」

「――援護だけでも」

 悔しさに歯噛みした、けれど正直な答えに、伊砂那は空をちらりと見やった。


〈禍津影〉の背後。西の薄紅も暮れてきている。出でた月が輝きだしてしまう。

 できればなんとか、笹羅の目をそらして終わらせたかった。


 〈禍津影〉を祓う力は神子にもある。それは鬼神官よりも強いものだった。

 けれど、力を使えば神子とばれる。月明かりと関係なく、白銀の髪を晒してしまうからだ。

 運よく笹羅は着任したててで、〈まほろば〉を知らない鬼神官だった。だから伊砂那の顔は見覚えていなかったが、神子の力のことは知っていよう。

 〈まほろば〉の者に、いま伊砂那がここにいると知られるわけにはいかない。


(なんとか、うまく)

 思案する。その頭上に影が差した。振り下ろされる、うねりくねる長い手の一撃。とっさに笹羅を突き飛ばすようにそれを避ける。地響きと衝撃に、堪えようと笹羅が苦痛を飲み込み、つい足を押さえたのが見えた。傷は深いに違いない。


 それで、我が身をかばう立ち回りを考えてばかりもいられないと、伊砂那は覚悟を決めた。

 笹羅のそばに転がり落ちた、先まで彼が手にしていた二振りの短刀のひとつを掴み取る。


 止めて叫ぶ声に耳をかさず、伊砂那は〈禍津影〉の元へと駆けた。しなる腕が羽虫を払うように空を薙ぐのを、地を蹴り、身を翻してかわして、八つの目が不気味に蠢く胸部を狙いすます。


(あそこを貫けば、霧散する)

 伊砂那とて、数をこなして〈禍津影〉と対峙してきたわけではない。刃を振るうようになったのは、〈まほろば〉を出てから。それとて、日が浅い。〈禍津影〉を祓えた経験は、一、二度程度だ。


 それでも、笹羅よりは経験はわずか先をいっている。ゆえに、伊砂那は間合いへの一歩を踏み込んだ。


 だが、それが過信だった。

 狙った胸元の目の周り。そこから棘のような牙のような突起が口を広げて現れ出で、伊砂那に覆いかぶさって襲い来た。今までになかったこと、とっさのことに、伊砂那は瞬き、慣れぬ身体が動きを止める。


 逃げなければ、と思考が判じたのはその一瞬後で、すでに遅きに失し過ぎていた。

 笹羅が怒声ともに何かを唱え、足を引きずり駆け寄るのが見えたが、その術が間に合うとも、手が届くとも思えない。


 だが、伊砂那の視界を腐臭纏う棘が貫き覆うより先に、飛び込んだ黒い人影が彼女の腰を抱き上げ地を滑り、転がるようにその場から逃れ出た。

 土煙が巻き起こり、〈禍津影〉の悲鳴に似た絶叫が鼓膜を叩き壊して重なる。


 しかし、伊砂那の身体に痛みはなかった。あるのは抱きしめられている感覚と、ぬくもり。盛大に落とされた吐息に耳朶をくすぐられ、肩抱く腕の見知った赤い勾玉に視線を上げれば、真紅の瞳が乱れた前髪をかきやっていた。


「っぶない……」

「か、篝……?」


 すらりとした見目からは意外なほど力強い腕と、しっかりとした体躯。思いもかけない救いの手の主に伊砂那が目を白黒させれば、彼は悠長に、にこりと笑った。


「いやぁ、なかなかな緊張感だったけど、かわせてよかった」

 そう彼は先まで伊砂那がいた場所を見やる。地面がひび割れ、牙の数だけ抉られて、陥没しきっていた。


 今さらながらに伊砂那の背にも冷や汗が伝った。自分の身に起きたかもしれないことゆえではない。

「だ、大丈夫? 篝、怪我は!」

「それ、俺の台詞ね」

 初めて声を張り上げ慌てふためく伊砂那の額をこづいて、篝は彼女を腕から解放した。


「お前も昼間の……」

「どうも。そういえば名乗り忘れてたみたいだけど、篝っていいます」

 昼とは違いどこか無礼な慇懃さで笑んでこうべを垂れ、篝は腰の二振りの刀に手をかけた。〈禍津影〉へ振りかえる。


「おい……まさか、お前」

「ああ、あいつの相手は俺がやる」

「だから! 昼間の反神徒気取りのごろつきとはわけが違うんだぞ! 普通の人間じゃ太刀打ちできない!」

「せめて呪紋様の武器でもないとね」


 片目で目くばせし、笹羅を制した篝の手。それが、昼間は鞘に納めたままだった太刀をすらりと抜き放った。西日の残照うけ、研ぎ澄まされた刀身が朱色に煌めく。そこには笹羅の頬とよく似た紋が彫りこまれていた。


「お前、どうして、それを……」

「呪紋様の武器を持つのは、神宮だけではないんだよ」

「だがその程度じゃあ、力が弱い! あれだけ巨大な〈禍津影〉相手じゃ、」

「大丈夫ですよ、鬼神官さま」

 にこりと篝は笑みを向けた。畏まった言葉遣いの端々に、露骨な尊大さが透けている。

「弱い力は、数で補う。それが、俺たちのやり方!」


 瞬間、夕闇の空をいくつもの矢が滑り、〈禍津影〉の背中に突き刺さった。同時に一気に間合いをつめた篝が足元を叩き斬り、宙へと脛から下を刎ね飛ばす。

 とたんに切り口から炎が燃え上がり、一瞬、影を覆い尽くして焼き焦がした。それはにわかに黒煙を噴き上げ、紅蓮に燃え盛る。だが、〈禍津影〉の雄叫びと身震いに、儚くかき消えた。


 しかし、注意が篝に向くには十分な攻勢だったらしい。

 〈禍津影〉は、怒るような、嘆くような叫び声を轟かせると、篝目がけて駆けだしてきた。


 それを見越して、すでに距離を取っていた篝もいっきに地を蹴る。そして走り抜けるままに、呆然とする伊砂那の手を取った。

「じゃ、町をよろしくお願いしますね~、笹羅さま~」

 軽快で軽薄な調子で言い残して、篝は町の外を目指し、後を追う〈禍津影〉もろとも、引きずるように伊砂那を連れて去っていった。


 言葉もないまま取り残された笹羅を、藍色の夕闇が包み込みだす。

 空の東ではゆるやかに、月が輝きを纏いだしていた。



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