【5】〈禍津影〉


 川端の食事処の板戸を出れば、あたりの影はずいぶんと長く伸びていた。伊砂那は不安げに空を見上げる。

「そろそろ日が暮れる……」

「春先の日暮はまだ早いね」

 呑気な声が頭上から降った。同じく空を仰ぐ赤い瞳と似た色が、西の果てから広がっていた。


 東の空にぼんやりと月が見える。いまは月が一番長く出る満月だ。輝きだす前に別れなければと、さすがに伊砂那もいてきた。篝の軽快で心地よい語り口に耳を傾けるままに、悠長に時を過ごしてしまった。


「もうおなかも膨れたし、私はお暇するよ。お代は、」

「おごりでいいよ。困ってはないから。でも、よければもうちょっとどうだい?」

「嬉しいけど、今日は宿の荷を解いてもいないから」


 嘘をついた。己でも、すんなり口から出てきたことに多少驚いたほどだ。

 だが、それで思わず正直に、指先が口元を覆ったのが、たぶんいけなかったのだと思う。


「へぇ……宿、どこ? 送るよ」

 にやりと引き上げられた口角。少し意地悪い光が、赤い双眸に瞬いた気がした。

 その時だ。


 夕闇の空をつんざく叫び声と大地を揺るがす轟音が、平和な黄昏の空気を塗り替えた。まどろむようだった春の夕暮れをうち壊して、町の半鐘がうるさいほどに鳴り響く。


「お客さん! あんたらもすぐに逃げな!」

 さきまで店で談笑していた客たちが逃げ出すのに交じって走り出てきた店主の女が、戸口前で立ち尽くしたままのふたりへ口早にまくしたてた。


「〈禍津影まがつかげ〉だ! あの半鐘は、〈禍津影〉やってきたときのなんだよ!」

 聞くが早いか、変化に乏しい伊砂那の表情が、はっきりと険しく変わった。人の流れとは逆へ、走りゆく人々が逃れてきた方へと一目散に駆け出していく。


「ちょっと! 兄さん!」

 呼びとめる店主の声が響いたが、伊砂那はすでに騒ぎ逃げ惑う人波の向こう。振り返りすらせず、行ってしまった。


 だから――静かにその背を見つめていた篝が、苦笑交じりに肩を竦めたのには、当然、伊砂那は気づけなかった。






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