【4】篝
通りを抜け、ずいぶんといったところの橋の上。ここは水運で栄え、大きくなった町なのだと知れた。膨らみかけた花の匂いが溶けた風が、柔らかに吹き過ぎていく。水面をきらきらと陽光が跳ね、揺れる流れの底には魚の影が見えた。
「で、どうしようか?」
青年は伊砂那の手を放さないまま、立ち止まり振り返った。
「女の子を強引に連れてくるのは、まずかったかい?」
「え? だって、最初は『お兄さん』って」
「まあ、分かってたけど、装ってるみたいだから、一応、それに見合った声掛けが礼儀かなって」
事もなげにからりと青年は笑った。
伊砂那は華奢で、青年と並べば頭ひとつぶんも背は低いが、女性の中に交じれば飛び出る程度の高さはある。髪もたいがいの女性が長くするのが通例の中、髪先が耳たぶをくすぐるほど短い。どこかの誰かが着せてくれた地味なきなり色の男物は、華やかさとは程遠い。長いまつげに縁どられた藍色の穏やかな双眸はまったりと大きいが、白雪のように涼やかな雰囲気は中性的な美しさで彼女を彩っていた。
「あまりばれたことがないから驚いた……」
「ほんとに? こんな可愛いのに?」
「かわ、いい?」
聞き慣れない賛辞だ。あまりに馴染まなくて、伊砂那が戸惑いに小さく眉をしかめれば、彼はさらに声をたてて笑った。
「君の周りの者たちは、よほど見る目がなかったか、もしくは……君が相当恐れ多かったりでもしたのかね?」
覗き込んだ赤い瞳。そこに一瞬宿った、探るような光に伊砂那は気づかなかった。すぐにそれはにこりと、人懐こい色に変わったからだ。
「それで、どうしようか? 君は俺といてもいいようだから、嘘の用事を本当にしようか」
振りほどかれない手を引いて、青年がいう。
「いや、まだいいとは、」
「早めの夕飯でも食べる?」
「……早すぎないかな?」
待ったの声をさえぎって話を進められたのに、思わず伊砂那は己が腹に手をやった。昨夜から昼を過ぎた今まで、何も食べていない。夕餉の刻限は遠いが、腹具合は遅すぎるほどだといっていた。
正直な伊砂那の仕草に、くすくすと青年の肩が揺れた。その背で長い髪がはしゃぐ獣の尾のように楽しげに踊る。
「ずいぶん食べてなくて腹が減ってるんだろ? 時間は関係ないようだ。行こう」
「あなたの名さえ、知らないのだけど」
なかなかの勢いで腕を引かれ、つんのめりながら、伊砂那はささやかな抵抗で問いかけた。
「あれ? いってなかったか」
わざとなのか素なのか、どちらともとれる風合いで彼は伊砂那を振り返った。
「俺は
「伊砂那」
「そうか。よろしくね」
薄く形のいい唇が、緩やかに甘く弧を描く。瞬いて、伊砂那は光の落とす影の中、煌めく彼の瞳を見上げた。
(……やっぱり、不思議な人だ)
慕わしく惹かれるのに、触れてはいけない心地もする。危ういとの思いは、頭の片端で渦巻いているのに、火灯りの瞳にひかれるように、伊砂那は腕を振り払ってまで去りがたくなってしまった。
「よろしく……」
ひかえめな伊砂那の答えに、篝は満足げに笑みを結んだ。
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