【3】鬼神官


 一宿小屋は、大きな町外れの道沿いに建てられていたものだった。歩き売りの行商とすれ違ったり、ゆるゆると進む荷運びの馬の一団を追い越したりしながらひたすらに走っていくと、伊砂那はいつしか、ずいぶん栄えた町の中へと辿り着いていた。


 伊砂那が足を止めたのは、ちょうど見世棚みせだながならぶ商い通り。昼日中なのもあり、人通りも多い。ゆらゆらと商品を示す色とりどりの旗が春風にそよぎ、売り手の呼び込みや買い手の値切りの声が華やかに弾けている。通りをよぎり、視界を霞ませる煙の元からは、香ばしく焼かれた穀物や魚の香が立ち昇り、鼻先をくすぐっていった。活気と賑わいに満ちた、生命力に溢れた場だ。


 そんな道のまん真ん中で、走り疲れた顔で肩を上下させているのは、いかにも悪目立ちしてしまいそうだった。伊砂那は通りを少し避け、いそいそと裏路地に身を潜めた。


 だが、一息整える間もなく、さきほど通り抜けた表通りの方から、突如悲鳴が聞こえた。ひとりやふたりではない。耳に不快な何かが壊れる大きな物音も重なって、伊砂那は柳眉をひそめた。

 ちらりと物陰から伺い見れば、賑わいは喧噪に、活気は騒乱に一転していた。四、五人の男たちが、見世棚を荒らして回っている。



「ここは〈まほろば〉に寄進をしてる見世棚なんだろ。そんな無駄な貢物はやめておけ」「どうせいくら貢いでも〈まほろば〉になんぞ、俺たち下々が入れてもらえるか」「神子の権威と、ありもしない不死を吹聴して、あそこのやつらは私腹を肥やしてるだけよ。俺たちに月天女げってんにょの加護はない!」「〈まほろば〉にくれてやるくらいなら、こっちに寄越しな! いつかあそこをぶっ壊して、たんまり蓄えた財宝を奪ったら、お前らにも恵んでやるからよぉ」


 見世棚を壊し、抵抗する人を殴り伏せながら、彼らは次々と並ぶ品々を奪っていく。逃げ惑う騒ぎのうちから漏れ聞こえる高説を聞くに、彼らは〈まほろば〉に叛意を持つ一団――反神徒はんしんとのようだ。


 〈まほろば〉は、遠く陽牟加ひむかの地にあるこの国唯一の都だ。不死と安寧を世にもたらす月の天女を女神と戴き、その力の片端を授けられえた常永久とことわの者――〈月花の神子〉を中心とした神官組織、《ツクヨミ》が治めている。その統治の力と信仰は、この国の広い範囲に及び、地方は《ツクヨミ》傘下の神官たちが組織する神宮によって、そのまつりごとの下におかれ、多くの人々は、いつか〈まほろぼ〉に迎え入れられることを夢見ていた。


 〈まほろば〉の民は、〈月花の神子〉の血を与えられ、不老不死と安寧を享受していると言われているからだ。


 だが、それを信じない者もいれば、信じ続けてもいつまでも〈まほろば〉に受け入れられぬことに絶望し、逆に憎むようになる者も当然いる。それが、反神徒と呼ばれる者たちだ。徒党を組み、組織立ち、里を築くまでの大きな一団もあると聞いたが、いま伊砂那の目の前にいる者たちのように、野盗の集団と変わらぬ輩もいるようだ。

 もしかしたら彼らは、反神徒を気取って、好きに横暴を働きたいだけなのかもしれないが。


 強引に物を奪い取ろうと振り上げた男の腕が、逃げようとしていた女性の頭に、したたかにあたった。倒れたその女性の腹は膨らんでいる。それ故に、逃げ遅れたのだ。だというのに、その身重の彼女を男は嘲笑しながら、邪魔だと蹴り飛ばそうとした。


 そこに、伊砂那が飛び出すより前に、男と女性の間に両手を広げて立ちふさがった者がいた。子どもだ。まだ十に届かぬ少女。それが、震えながら男を睨み上げている。女性の娘のようだった。


 男の動きは不意をつかれて止まったが、そんなものは一時だろう。子どもだろうと構う相手でないのは、すでに見て取れている。

 堪らず飛び出そうと、伊砂那は手近にあった長い角材を手を伸ばした。そこへ、背後から声がかかる。


「お兄さん」

「え?」

 思わず伊砂那は振り向いた。伊砂那は女性というには髪は結わえないほど短いし、着物も男のそれだ。だから呼びかけに驚きはなかったが、この騒ぎの中でいやに悠長な声の響きには、一瞬虚を突かれた。それにまったく、背後に気配を感じなかったのだ。


「正義感は素晴らしいけど、その獲物じゃ、人混みで振り回すのはお奨めできないな」

 そこには長い黒髪を高く結い上げた、すらりと長身の男性が微笑んでいた。重ねた襟元に濃い紫檀したん色がのぞいているが、それ以外は袖のない着物も袴も、夜を盗んだように黒い。肘をこえて腕を覆う布の手甲も同じく黒く、まるで烏のようだ。だが、その柔らかく笑みながらも鋭い双眸は、深い紅色あかいろだった。左手首にも、それに似た赤い勾玉が、管玉とともに飾られている。その赤が、黒の中、火灯りのように際立っていた。


(赤い、勾玉……?)

 見覚えがあった気がして、伊砂那は記憶を手繰ろうとした。が、その前に彼女の目の前に、彼はひと振りの小太刀を差し出した。腰に吊るしてあったものだ。


「ここは堅実にいこう。これ、貸してあげるから――」

 旧年来の友に話しかけるように青年は伊砂那へ目くばせすると、小太刀を伊砂那の手に押し付けた。

「一緒に正義の味方と洒落こもうか!」


 言うなり、青年は残っていたもうひと振り腰の太刀を鞘のまま持って、通りの方へと躍り出た。

 立ちふさがった生意気な少女へ、足を振り上げたにやけた男の頭を、勢いそのままに蹴り飛ばす。


 吹っ飛び、倒れ込んだ仲間の姿に一瞬おののき、動きを止めた男たちの腹に太刀の柄を抉り込ませ、背を蹴り倒し、果敢にも殴り掛かってきたひとりの拳を軽々避けて、お返しに顎下から脳天目掛けて強烈な一撃を喰らわせて昏倒させる。瞬きの間にのされていく仲間たちに、残ったひとりが青褪めて逃げだしたが、それを青年は許しはしない。敗走を決めた後頭部を強かに鞘のままの太刀で殴り飛ばし、青年は男を地に沈めた。


 唖然とする周囲と同じ心地で、渡された小太刀を手に余らせたまま、伊砂那は青年を見つめる。

 少女をなだめ、女性を助け起こす青年の元へ、完全に出遅れた気まずさとともに、伊砂那は歩み寄った。


「……私、いらなかったようだね」

「いやいや、こいつらふんじばるの、手伝ってもらわないと」


 少女と女性が重ねる礼を軽やかに受け取って、彼はふたりに身体を休めるよう奨め、近くの見世棚の者へ託した。世慣れた様子だ。結局動けなかった伊砂那とはずいぶん違う。


 なんとも居心地悪い気分で伊砂那は青年へと小太刀を返したが、彼は見守るだけだった伊砂那を気に留めた風もなかった。

「俺がちょっと、張り切りすぎちゃったかもね」

 そう悪戯めかして笑う様が、人懐こかった。整った容貌もあいまって、心地よく人の隣に寄り添ってくる。


 それがなぜだか伊砂那には危うげに感じられ、彼女は首を傾げた。親しみを覚えたのに、近づいてはいけないような、奇妙な焦燥。

(変、なの)


 小太刀も返した。男たちの方も捕らえれば、早々に別れられよう。不思議となにかに急かされるように、伊砂那はのびた荒くれ者たちを振り返った。まずは縛めるものを調達しなければならない。

 その矢先。


「隼?」

 隼が一羽、荒縄を掴んで飛んできた。傷が浅かったのか起き上がりかけた男のひとりの背に飛びのり、その側頭部をつついて沈める。


 野生ではない、意思があるとしか思えぬ動きに伊砂那が目を瞠れば、隼の飛び来た方角から声がした。

「すごいな、あんたら」

 気さくな、年若い男の声。同じく声へと目を向けた青年が、意外そうに微笑んだ。

「驚いた。鬼神官きしんかんさまじゃないか」


 伊砂那と同じ、十六、七ほどの少年だった。小柄で、背丈は伊砂那よりわずか高いぐらい。軽装だが鎧を着こみ、ぱりっと糊のきいた浅葱の着物を纏っている。しかしなによりも目を引くのは、その髪の色と、左頬に刺青のように刻まれた痣だ。くせのある髪の色は、霧纏う深山のような神秘的な深い青緑。頬の痣は藍色で、耳元にかかるまで広がり、弧を描いた線が複数交わって繊細な紋を描いている。


 それは、〈まほろば〉を中心とし、この国を治める《ツクヨミ》のうちでも、最も高位にある五人の神官。そのひとりである証だった。


 かつて月の天女のそば近く仕えた、五人の鬼神。彼らはその力を受け継ぐ者といわれ、鬼神官と呼ばれていた。呪紋じゅもんと呼ばれる紋様の痣を持って生れつくことが、鬼神に選ばれた証だ。こんな〈まほろば〉を離れた地にいるはずもなく、そして、万一用向きがあって足を運んでいたのだとしても、常なら地方の神宮の内で歓待されて出歩くことのない貴人だった。


 通りにまだ残っていた者たちが、思わず畏怖のどよめきとともに距離をとる。頭を垂れ、中には膝をつく者も現れる中で、伊砂那の隣に立つ青年の態度はあまりに軽々と、打ち解け切きっていた。


「こんなところに、あなたさまのような方がいらっしゃるとは思わなかった」

 〈まほろば〉の関係者はまずいと、無意識のうちに伊砂那は後ずさりした。それをまるで背に庇うように、青年が伊砂那と鬼神官の間に割っていって歩み寄る。


「ああ、ちょっと野暮用があってな。鬼神官と言っても、俺はつい最近任じられたばかりの新米だから、〈まほろば〉でゆっくりさせてはもらえず、遠出の任務にあてられたんだ」

 あまり気を置いた風のない青年の対応に、機嫌を悪くするどころか好ましげに、鬼神官は髪と同じ青緑の瞳で笑った。


「反神徒どもの暴動を収めてくれて感謝する。礼をさせてくれよ」

「ねぎらいとせっかくのお誘いは光栄だけど、俺たち実はこのあと急ぎの用があってさ。だから奴らの後始末をお願いできたなら、この場を辞させてもらうよ。ね?」

「あ、うん。申し訳ないけれど……」


 旅の連れ合いのごとく赤い瞳に目くばせされたのも、こうなっては渡りに船だ。話を合わせて小さく伊砂那が頷けば、鬼神官の青年は残念そうに肩を竦めた。


「そっか。じゃあまたの機会にな。どこの神宮でも、〈青〉の鬼神官の笹羅ささらっていえば、通じるからさ。困ったときは良くしてくれる」

「ああ、ありがとう。月天女げってんにょの加護のあらんことを」

「おお。月天女の加護のあらんことを」

 笹羅の晴れやかな笑顔に暇を告げ、青年は伊砂那の手を取った。


 いまさら彼と行くことを拒むわけにもいかず、引かれるままに、伊砂那はともに通りを抜けていく。

 伊砂那の藍色の視線が見上げた先。端正な横顔は上機嫌なのは分かったが、思惑はどうにも読み取れなかった。


(でも……なんでだろう……)

 包み込まれた手の感覚は、いやではなかった。

(これは、なんなの、かな……?)

 自分でもこの青年から離れたいのか、一緒がいいのか分からず、釈然としない気持ちに伊砂那はひっそり首をひねった。



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