【2】よみがえり


 ◇



 ぱちりと、伊砂那の大きな深い藍色の瞳が瞬いた。長いまつげを纏った瞼が、その後いく度か、動くのを確かめるようにゆっくりと上下する。


(ここは……?)


 目の前には、板葺きの簡素な天井。横になっていたのは、粗いむしろ――の上に敷かれていた反物の切れ端だった。余り物とはいえ、布の敷物を一応でも用意してくれるとは、それなりに丁重に扱われているらしい。泥と血に濡れた衣服も替えられている。男物で少々伊砂那の身体には大きいが、元から身に着けていたのも男の着物だった。だから、個人的には大差ない。清潔であることの方が嬉しかった。


 もう傷ひとつない身体を起こしてみれば、どうやら伊砂那が寝かされていたのは、旅人向けの安価な一宿小屋いっしゅくごやのようだった。首を巡らせずとも、端から端までが視界に入る狭い板敷の部屋で、申し訳程度の薄い壁に、引き戸がひとつと、小さな格子窓がある以外にはなにもない。


 だが、一宿小屋は、だだっ広い板間に旅人たちが雑魚寝をするのが常であるから、どんなに質素でも、間仕切りのある部屋は割高だ。

 先まで寝ていた身としては、余計な視線にさらされずありがたい配慮ではある。


(でも、誰とも知らない人の手の内にあるのは、ちょっと……よくない、気がする……)

 村で野盗の前から、何者かに連れ出されたところまでは覚えている。その点では、助けられたとは思う。だが、善意の目的で手を貸してくれたと、楽観的には考えられない。


(……逃げても、いい、んだよね?)

 礼を告げないのは心苦しいが、仕方がない。幸い、この部屋には見張りのひとりもいなかった。

 身ひとつでの逃走となるのが心もとないが、格子窓からのぞき見た空には昼近い太陽がある。月明かりを気にして動く必要もない。逃げ出すならいまだ。


 その時。がたがた、と建付けの悪い引き戸が揺れた。誰かが来る。

 そう思った瞬間、伊砂那は格子窓へと身を翻した。出入口は、引き戸だけ。そこが使えないならば、窓しかない。


 淡い光が伊砂那の手のひらを包み、黒い髪がするりと銀色に煌めき変わった。掴んだ木の窓枠から、緑のつる草が勢いよく芽吹き、格子に絡みついて覆っていく。とたんに、格子木は見る間に朽ちて、砕け、ばらばらにこぼれ落ちていった。

 光が収まり、髪色が黒く戻る。


 と、同時に、「あ!」と背後から慌てた驚愕が上がったのが聞こえたが、振り返ってはいられなかった。

 伊砂那はそのまま朽ち壊れた窓から外へと飛び出し、脱兎の勢いで駆け出した。




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