第13話 収縮宇宙からの脱出
あれから一〇〇〇億年近くの時間を僕は眠って過ごした。こう書くと、ものすごく怠惰な人間みたいだが、事実だから仕方がない。ビッグバン歴一九九九億年、僕はまだクリスチーネ号の中に居て、悪魔のわめき声で再び意識を取り戻した。
「ねえ、起きて!」と彼女は叫んだ。「大変なことが起こったの」
「参ったな、急に起こすなよ」と僕は不満を口にした。
僕は永い眠りを妨げられて非常に気分が悪かった。
「もう宇宙に大したイベントなんか残っていないだろう。大変なことって何だよ」
「とにかく大変なの」と彼女は言った。「この宇宙が収縮をはじめたの!」
「何だって、それは一大事だな」と僕は言った。
ビッグバン以来、膨張する一方だった宇宙が、どこかのタイミングで収縮に転じたらしい。僕なりに収縮の原因を推測してみる。まず、この宇宙の曲率(空間の曲がり具合)は初めから若干プラス側だったのだろう。それが、初期インフレーションやその後の加速膨張の影響で、限りなく曲率ゼロに見えていたのだ。
また、これまで宇宙を膨張させてきた暗黒エネルギーだが、一〇〇〇億年単位の永い時間をかけて減少していき、ついには消滅したのではないか。その結果、重力が宇宙膨張に大きなブレーキを掛けられるようになったのかも知れない。
宇宙の収縮が始まった真の原因は定かではない。しかし、これまでの予測シナリオとは全く異なる展開が、僕たちを待っているのは確かだった。バラバラに孤立していたスーパー銀河たちは急速接近して合体していく。まるで映画のフィルムを逆再生するかのようにして。宇宙の収縮が進むと、物質密度が上がり、宇宙全体の温度も上がっていく。
今や宇宙の背景はマイナス二七〇度の冷たい暗闇ではない。数百度のどす黒い赤色となって不気味に輝いている。太古の昔から暗闇は死を思わせる危険で不安な時間だった。だから人間は灯りを灯して夜の暗さに耐えてきた。その一方で、暗闇が僕に安らぎの時間を提供してくれたのもまた事実なのだ。あの優しい暗闇はどこに行ったのだ?
「何だろう、この奇妙な景色は?」と僕は呟いた。「初めて見るはずなのに、どこかで見覚えがある。地球で暮らしていた頃の、ずっと昔の記憶に似ているんだ」
「ねえ、まるで夏の夕暮れみたいな景色でしょう?」と彼女は言った。「生命の源である太陽が地平線に沈み、間もなく夜が訪れる。そういう景色に人間は切なさを感じる。それはたぶん遺伝子に刻まれた記憶みたいなもの」
彼女の言う通りだった。この切なさ、甘酸っぱい感傷が込み上げてくる赤い光は、子どもの頃、河原で母親と一緒に見た夕焼けにそっくりだったのだ。あの夕焼けはすべてを優しく包み込むように僕と母の顔を赤く照らしてくれた。あの時、転んで擦りむいた膝からは血が滲んで痛かったけれど、こんなの全然平気だと思った。地球で過ごした記憶が、僕の電子頭脳を鮮やかに駆け巡った。そして大事なことに気が付いた。
この宇宙で最も速いものは何か? それは光の速さでも、宇宙膨張の速さでもない。この宇宙で最も速いもの、それはきっと人間の想像力だ。人間の精神はどこまでも自由で、想像力の翼で飛び立てる。この力があれば、人間は一〇〇〇億年前の記憶に一瞬でアクセスし、次の瞬間、宇宙の行く末について考えることもできる。光速以上の現象ではないか。人の心はたぶん、時空を超えている。
「メフィスト、これから宇宙はどこに向かっていく?」と僕は尋ねた。
「収縮宇宙は最後、一点に潰れておしまい」と彼女は言った。「破局の一秒前になると、大中小すべてのブラックホールが一気に合体して、全宇宙が飲み込まれる。というか、宇宙そのものがブラックホールになる。まあ、だらだら膨張を続けて、永遠の老後を過ごす宇宙よりも、カタルシスがあって好感が持てるけどね」
今の宇宙は、ビッグクランチという破局に向かっている最中らしい。重力ですべてが引き合い、ブラックホールに飲み込まれて一巻の終わり。グランド・フィナーレとでも言うべき大往生で、この宇宙の歴史は完結するらしい。
「ふざけるな!」と僕は怒鳴った。「そんな結末、俺が認めない」
「じゃあ、何か代案でもあるの?」と彼女は言った。「私の力なら、あと一回だけ貸してあげられるけど、どうする?」
「まだ諦めるのは早いんじゃないか」と僕は言った。「むしろ、ゼロからまた宇宙をはじめてみたい気分だ。宇宙は無から生まれたと人はいう。だったら僕たちにだって作れるはずだ。何しろ、無ならそこら中にあるじゃないか」
僕は地球を出発する時に持ってきた膨大な蔵書を読み漁った。先人の知恵に何かヒントはないか。そのうち、興味深い二編の論文を見つけた。一つ目は『実験室で宇宙を創ろう』という題名、もう一つは『インフレーションによる宇宙の多重発生』というもの。
観測によると、宇宙がビッグクランチで大往生を遂げるまで、あと五〇〇万年も残っていない。ビッグクランチを回避する方法はただ一つ、この宇宙が潰れて終わるまでに、子ども宇宙を生ませて、そこに逃げ込むことだ。あっさりした死を受け入れるのも悪くはない。しかし、死の直前になって復活のルートがあると言われたら、その可能性に賭けたくなるのが、人情というものではないか?
「最後に一度だけ、君の力を貸して欲しい」と僕は言った。「宇宙のはじまり、ビッグバンより前にあったインフレーションを人工的に発生させて欲しいんだ。この願いが叶うなら、僕の魂でも何でもくれてやる。今から『子ども宇宙の作り方』をレクチャーするから、よく聞いてほしい。これが僕たちの最後の共同作業だ」
「さて、子ども宇宙の作り方だが」と僕は言った。「やり方はこうだ。広大な領域に、莫大なエネルギーを一極集中させて、真空の相転移を起こす。ただし、水が氷に相転移する時に熱が出るように、真空の相転移でも大量の熱が発生する。難しいとは思うけど、熱を上手く抜きながら、真空のエネルギーを高めて欲しい。広い領域で真空の相転移が起こるとインフレーション膨張が始まるだろう。すると、まるで母宇宙からマッシュルームでも生えてくるようにして、子ども宇宙が生まれるはずだ」
「そのキノコの軸は、ワームホールという時空の虫食い穴でできている。これは母子宇宙をつなぐ『へその緒』みたいなもので、キノコの傘が子ども宇宙にあたる。キノコの傘が急成長する一方、キノコの軸は急速に収縮する。真空の相転移を考慮して重力場の方程式を解くと、確かにそういう時空が出てくるらしい。最終的に『へその緒』はブツンと切れる。この瞬間、母宇宙と子ども宇宙の因果関係が切れて、子どもは独立した宇宙になる。子ども宇宙からは更に、孫宇宙やひ孫宇宙なんかも生まれるかも知れない」
「ふうん、面白いかもね」と彼女は言った。「宇宙にエネルギーを注いで妊娠させるとか、だいぶクレイジーだけど、試してみる価値はある」
「さあ、俺の願いを叶えてみせろ」と僕は言った。「並行宇宙でも何でもいい。とにかくこの宇宙に風穴を開けて、外からありったけのエネルギーを持ってこい。ただし、上手く熱を抜くのを忘れるな!」
「それで、あなたは満足するの?」
「それはわからない」と僕は言った。「人間の欲望にはキリがないから。でも、どこかで折り合いをつけなくちゃいけないことはわかっている。無事に子ども宇宙まで行けたら、その時は初めに決めた合図をしようと思っている」
「時よ、止まれ。お前は美しい」と彼女は言った。「ちゃんと覚えている?」
「ああ、俺の魂なんか全部燃やしてしまえ」と僕は言った。「すべては宇宙の寿命を延ばすためだった。たぶん、僕はこの使命を全うする為に生まれ、君と出会ったのだと思う。今日まで一緒に過ごしてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」と彼女は言ってお辞儀をした。
「あなたほど私を長く楽しませてくれた人間は他にいません」
彼女は目を閉じ、何かを祈るようにして手のひらを合わせた。次の瞬間、超巨大ブラックホールが一斉に爆発したんじゃないかと思うほどまばゆい光が視界を包んだ。僕たちの居るこの領域でいよいよ真空の相転移が始まったのだ。真っ赤な宇宙ともお別れの時間が来た。さようなら、母さん。でも、あとはどうにかなるさ、と僕は思った。生まれたばかりの子ども宇宙がどんな運命を辿るのか、それは誰にもわからないのだから。
マクスウェルの悪魔 @sky-walker
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