第4話 名前

「そういえば、名前はなんていうんですか?」

 僕は魔女さんの家にいた。早朝、学校へ行く前に時間があったので寄ったのだ。どうしてか、魔女さんはいつ行っても起きている。夜中に行くなんてことはないけど、少なくとも仕事らしい仕事をしていない魔女さんは、学校が始まる前のような時間でもいつでも起きていた。

「名前?」

「知らないなと思って」

 家で朝ご飯は食べたけれど、魔女さんに振舞ってもらったので食べる。目玉焼きとトースト。家でほとんど同じメニューを食べたけど、言わない。

 魔女さんはしばらく窓の方を見ていた。ここは二階なので、映るものは空しかない。

「私、名前はないの」

 窓の方を見ながら当たり前のように話す。その表情もまた、当たり前にいつも通りだったので、その言葉が本当かわからない。

「人じゃないからなあ」

 そう言って、ふっと魔女さんは笑った。ああ、冗談じゃないんだな、と、いつも通りなのになぜだかわかった。


「俺、そろそろ学校行きますね」

 お皿を洗い終わって、いい時間になったのでそう言った。

 いってらっしゃい。気を付けてね。魔女さんは観葉植物に水をやりながらそういった。人じゃないなんて信じられないな。


 それから、学校へ行って、普通に過ごした。普通に授業を受けて、ちょっと眠いなと思った。今日は天気が良くて、気持ちいいなと思う。狭い教室で、何人も人がいて、それぞれがそれぞれ仲のいい人と、気の合わない人との交流をなんとなく避けながら生活していた。

 そういう風景をみて、うっすら嫌だな、と思った。

「あの家に行ってるって、ほんとう?」

 中庭で、そう話しかけられた。

 天気が良かったし、涼しかったのでぼーっとしていたところだった。

 今まであまり話したことのない女子生徒だったけれど、午前中ずっと視線を感じていたので、もしかしたらそれを聞きたかったのかもしれない。

「うん」

「何で?」

 会話のテンポが速いな、と思う。僕が思っている以上に魔女さんの家に行っていることは周知なのかな、とも。

「なんでって、どういうこと」

「え、いや」

 太陽が雲に隠れて、なんだか暗くなってきた。曇りだって嫌いじゃないので、それはそれでよかった。

「だって、あそこの家変だよ。私の友達がその家と同じ町内に住んでるけど、町内会に参加したりしないし。そもそも人が住んでるのかもわからなかったんだよ。あんなに古くて、大きい家に」

 中はけっこうきれいだよ、と言おうとも思ったが、なんだかずれている気がしてやめておく。

「あと、こういうこと言うべきじゃないかもしれないけど、あの家ってね」

「じゃあ言わなくてもいいよ」

 彼女の顔が真剣なのに、僕がずっと何も言わず聞いていたから、もしかしたらイラつかせてしまっていたかもしれない。

 あの家がどういうものなのかも知らない。でも、なんとなく教室にいたときと同じ気持ちになりそうだったから、彼女の話を遮ってしまった。

「ご、ごめんなさい」

「あ。いや別に……。でも、大丈夫だよ。良くして貰ってる。心配してくれたんだよね。ありがとう」

 そういって、教室に戻ろうとする。単純にお昼休みがもうそろそろ終わりそうなのだった。彼女も僕も、目的地は同じはずだけど、彼女は動かなかった。

「ねえ待って。おせっかいかもしれないけど、高校生がひとりでほとんど知らない人の家に行くのって、ちょっと危険だと思う。本当はすごく怖い人かもしれないし、何があってもおかしくないと思う」

 そうだね、そうかもしれない。でも彼女は人じゃないらしいよ。

「ありがとう」

 もし僕が彼女の立場だったら、同じように思うだろうし。

 何も知らないのにね。そう言おうとして、やっぱり言わなかった。

 そんなことはきっと彼女もわかっていただろう。

 小雨が降ってきた。雨は雨で嫌いじゃないので、いいな、とだけ思った。


 そういえば、話しかけてきた子の名前を知らないな、と思った。

 彼女が授業で当てられたら、わかるんだけど。けれど結局当てられなかった。彼女は運が良かった。代わりに僕が当てられた。質問に答える。周りはいたって普通にノートを取ったりしているので、みんな僕の名前を知っているんだなと思った。

 人じゃないからなあ。そう言った。けれど、人じゃなくても、名前はあっていいだろうと思う。笑った彼女の表情は、なんだか自嘲気味だった。自罰的だった。

 名前を僕が考えるのは、だめだろうか。勝手だろうか。名前なんて、彼女はいらないと思っているのでは、ないだろうか。


「佐々木さん」

 結局、教卓の上にある座席表を見た。あのクラスメイトの名前を見た。放課後、鞄を肩にかけて帰ろうとした佐々木さんに話しかけた。

「え、あ、どうしたの」

「さっきは、態度悪かったなと思って。ごめん」

 なんだかあたふたしていた佐々木さんは、それを聞いてこちらを見ていた。

「ううん。こっちもごめん。私の名前知ってたんだね」

 さっき確認しただけだけど、絶対に言わない方が良いだろうな。

「あ、ごめんね。これも失礼だよね。でもちょっと浮世離れしてる感じだから」

「そんな風に思ってたの?」

「結構みんな、思ってると思うよ」

 友達と帰るから、と佐々木さんと別れた。その友達もクラスメイトだけど、名前はわからなかった。うーん、やっぱりこういうの、良くないよな。座席表をまたみようかと思ったけど、友達さんの席がわからなかったので、明日にしようと思う。


 雨が降っていたので、まっすぐ家に帰ることにした。傘は持っていなかったけど、これくらいなら大丈夫だろう。

「ビショビショじゃん!」

 帰ってすぐに、普段あまり話さない弟にそう言われた。駄目だった。弟は洗面所にいた母親から、タオルを拝借してくれる。

「ありがと」

 軽く拭いて、制服を脱ぐ。ワイシャツを洗濯機に入れに行く。

「あはは。濡れたね」

 洗面所にいた母親、にそういうことを言われてしまった。途中で本降りになってきたけど、走るのがめんどくさかったのだ。けれど、スラックスやベストも濡れてしまったので、母親に迷惑をかけてしまった。

「お父さんが帰ってきたらごはんにするから、鍋に火をかけてくれる? あと、圭に鞄自分の部屋に持っていくようにも」

「わかった」

 圭というのは一応、弟の名前で、なるほど、こういうときにも名前を呼ばなきゃいけないんだなと思う。

 佐々木さんに声を掛けたときも、名前で呼ばなかったら、僕が誰に声を掛けたのか、佐々木さんはわからなかったかも知れない。もともと、そんなに話したことのない人だったから。


『シス単持ってない? 俺の』

 友人からそう連絡がきた。鞄の中を見たけど、ない。僕のシス単だけだ。シス単というのは、英単語帳のことだ。

『ない』

『おわった』『小テスト』『範囲のページ写真でおくってよ』

『50ページあるけど』

『見開きで25 いけるいける』

 まあかわいそうだし、送ってあげよう。そう思って、パシャパシャと写真を撮り始める。

 めくる、ページを抑える。撮る。めくる、ページを抑える。撮る。

 その繰り返しの中で、メッセージに名前は登場しなかったな、と思う。確かに、二人でいるんだから必要はない。

 二人だったら、呼ばなくてもわかる。

 人でも、名前はいらない。

 佐々木さんは僕を浮世離れしていると言った。僕は話したことのない人の名前は覚えない。

 じゃあ、人と話さない人に。人じゃない人に。名前は必要ないのだろうか。

 長い読み込み時間を終えて、写真は全て送信された。手の影が入ってしまったものも有るけど、見る分に不自由はしないだろう。

『恩人』『明日何かおごる』

 良かったね。やったー。そう返した。心の中で彼の名前を読んでみた。必要性だけを考えると、やっぱりいらなかった。


 翌朝、やっぱり早くに起きたので、魔女さんの家に行く。

「おはよー。いらっしゃい」

 魔女さんが出迎えてくれる。佐々木さんの言葉を思い出す。危ないだろうか。

「じゃがいもの皮切れる?」

「ピーラーがあるなら」

「はい」

 ピーラーを渡されたので、皮を剝く。グラタンのトーストを作るみたいだった。時間はあるので、僕も食べられるだろう。

「早起きだよね。眠くない?」

「結構早くに寝ちゃうので」

 魔女さんは、隣でホワイトソースを作っていた。その姿がお母さんとダブって、目をそらす。魔女さんは寝てるのだろうか。もしかして、寝ていないのだろうか。寝なくても良かったり、するのだろうか。

「痛」

 ボーとしながら切っていたら、手を切ってしまった。ピーラーでも怪我ってするんだなって当たり前なのに思う。

「だ、大丈夫」

「あ、全然。ちょっと切っただけです」

 手をシンクで洗う。意外と深くて、流しても血がしばらく流れ続けた。血がついてしまったジャガイモは使えないな。

「めっちゃ血、出てるじゃん」

 僕とは裏腹に魔女さんはあたふたしていた。心配をかけてしまった。

「待ってて」

 そう言って、魔女さんは僕の手を掴んだ。傷跡を覆うように、もう片方の手を傷跡の上にかざした。

 突然のことだからびっくりして、僕は魔女さんの方を見た。魔女さんは僕の手の方を見ていた。下を向いていると魔女さんの長いまつげがやけに目立った。

 手を離されると、傷がなかった。というより、塞がっていた。確実に怪我は手にあるけど、全然痛みを感じない。なかったことにするのではなくて、時間が過ぎたような。

「魔法」

 魔法だった。本当にこの人は魔女なんだな。

 驚いて、何も言えなくて、魔女さんの僕を見る。その表情は、何。

 自嘲か、自罰か。

「私の時間を一週間あげたの」

 こともなげに、切実そうに魔女さんが言う。危険だろうか。人じゃないのだろうか。

 危険かもしれない。人じゃないのかもしれない。

 でも、もう治った傷を、血が流れなくなった傷跡を、ずっと心配そうに見てるこの人は、すごく不毛できれいだと思った。人だと、思った。

「名前、俺が考えて、その名前で呼んでいいですか」

 二人しかいない。名前を呼ぶ必要がない。けれど、人じゃないといった彼女の表情が、名前を呼ばれたがっている気がした。いらなくても、欲しがっている気がした。

 魔女さんがこちらを見る。初めて目があったなと思う。

「うん」

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魔女と呼ばれる人がいる やた @hayamayata

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