ビバ☆フタリ

柏望

寂しさ、はじめまして

「おい。なんでお前がそこにいんだよ」


 電車の中で駅に降りたがってるばあさんを見かけた。荷物が重そうだっので、エレベーターまで運んでやった。俺の乗り換えは間に合わなくなったが、後悔はしていない。はずだった。

 ばあさんなんか気にしないで急行に乗っていれば、よくわからん女子とホームに現れた大場おおばを目にすることはなかったんだから。


 見えてるものが真実かと疑っている間に、発車のアナウンスが始まった。飛び降りも構わないと出口へ走ったが、あと数歩の所で扉は閉まってしまう。

 大きな音を立てて、額がドアに弾かれた。大場へ伸ばした手は、窓ガラスに薄汚れた跡を付けるばかりで届かない。


 ガラス越しに見える大場は、俺の知っている大場じゃなかった。

 高校の制服でもなければ、連れだって山に行く時のアウトドアファッションでもない。つやつやした靴に、すらっとした細身のズボン。白いシャツの上には、キレイめのジャケットまで着てやがる。

 そしてなにより、お前のそんな顔を俺は見たことがない。

 鮮やかに染まった頬。かすかに緩んだ唇。一か所を見ては、弾かれるように飛んでいく落ち着かない視線。

 お前はいったい誰の隣にいるんだ。ソイツは誰だ。


 山で鍛えた視力だ。大場の隣にいる女子くらいはハッキリ見える。けれど、誰だかパッと浮かばない。ソイツとは廊下ですれ違ったような気もするし、クラスメイトのような気さえしてきた。同じ学校なのはうっすらわかるが、誰だか本気マジでわからない。

 制服じゃなきゃ、女子なんてこんな簡単に誰だかわからなくなるのか。


「大場、お前はいったい」


 俺も大場も浮いた話題がない同士だった。だから女が絡んだ話もする。手掛かりになりそうなものを必死に思い出していけば。


『どこが気になるって聞かれたら、涙ぼくろなんかどぎっとするかな』

『ほくろフェチとか変わってんなお前』


 どっかで大場とした、女子にあったら気になる部分という話題が脳裏を過る。あの女子にも、目元にほくろが一つある。目元の端、まつげの下あたりにホクロがついている女子。クラスに一人いたはず。

 それこそ、大場から教えてもらった話だから。


「あいつ、小宮こみやか」


 同校どころか、クラスメイトじゃねえか。

 小宮とかいう名前の割に、ずいぶんでけえやつだなと思っていた。始業式が始まって初めての点呼の時にそう感じたくらいで、あとは顔と名前が一致しているだけだ。けれど、大場と同じく。小宮も俺の知っている小宮ではない。


 なんか歩き辛そうな靴。丈が長いスカート。リボンみたいなフワフワしたやつがたくさんついた長袖のシャツ。種類はわからないが、オシャレなのは伝わってくる上着。


 大場も小宮も、普段着にしてはずいぶん洒落たものを着てるじゃ――。


 なにかに気づきかけて、反射的に視線が二人から離れる。


「なぜだ大場。どうして俺に気づかない」


 電車が動きだして初めて気づいた。大場は線路を挟んで向かいのホームにいる。普通はわかるはずがない。

 吐いた息が窓ガラスにかかって、二人の姿を白いモヤの中へ隠してしまう。

 袖で拭って、二人を目で追った瞬間。大場の指が小宮の指先へ絡んでいくのが見えてしまって。そこから先のことは覚えていない。


 家に帰るまでが山登りとはいうが。帰ったら帰ったで、飯を食って早く寝ないと翌日に響く。だから飯を食ったが、味がしない。風呂に入って汗を流したが、スッキリとは行かなかった。

 大場と小宮。駅で見た二人のことが原因だ。誰が誰と付き合おうが知ったこっちゃないつもりだったのに、落ち着きを失くしている自分が情けない。

 

 モヤモヤしたままというのも気分が良くないから、大場に聞いてみようかと思ったが。今日のことは聞いていいのか。聞いていいならどう尋ねるか。聞かれるのが嫌だったらなんて謝ればいい。考えごとが次々に浮かんでまとまらない。


 床に転がってもいい考えが浮かぶはずがない。このまま朝まで悩んでも、疲れるだけなんだから動くしかないだろうが。


「ヤマメの写真を撮っといたよな」


 本来は、今日の登山は大場と行く予定だった。俺の都合で延期したのを、俺の都合で決行したのだ。登山計画の中には渓流釣りも入っている。大場にとっては初めての経験で、とても楽しみにしていた。

 だから、決行できるとわかったらすぐ誘ったのだが。


「ごめん。別の予定もう入れちゃってて」


 と断られた。無理強いするのも趣味じゃないから、写真くらいは送ってやるよと約束をして一人で山へ出た。

 週明けの学校で見せるつもりだったが、大場と話をするいいきっかけになるんじゃないか。そう思ってスマートフォンの電源を入れてみたら。


「なんだ、あいつの方から来てるじゃないか」


『いつも通りだったら電車の中だよね。釣りはどうだった? 』


 受信した時間を見れば、大場が連絡してきた時間がわかる。メッセージが届いた時間を確認してみれば。俺が駅で大場を見かけた時間からそう離れてはなかった。


「やっぱ気づいてるじゃないかよ」


 頬が緩むのが自分でもわかる。大場は俺に気づかなかったんじゃない。小宮に気を使っただけだ。だから別れてすぐ、俺に連絡してきたわけだ。

 言い訳か照れ隠しかどっちか知らないが。付き合ってやろう。やはり野郎同士はこうじゃなきゃいけない。


 まずは喜ばせてやろうと思って、釣れたヤマメの画像を送った。どんな風に釣れたかくらいは説明してもいいかもしれない。

 文面を考えていたら、すぐに大場から返事が返ってきた。


『今日はごめん。すごいのが釣れたね』


 しらばっくれようっていうのは、少し心外だが。大場も言い出しづらいのかもしれない。まずは返事を送ってやるか。


『他所と比べれば小ぶりだが食いつきがいい。期待できるぜ』


 この辺りのヤマメは小さいが、山魚の魅力は大きさだけじゃない。写真からでも伝わってくるはずだ。返事をすればすぐに既読がついて、大場から返事が来る。渓流釣りを楽しみしていた大場の喜びようが伝わってくる。

 なんだかんだ山の話で盛り上がって、次の土日の予定も決まった。が、肝心の小宮の話は聞けなかったし、言えなかった。


 ハッと目を覚ますと、スマホの画面が暗くなっていた。二人そろって寝落ちしたらしい。部屋の時計を見たら深夜だったので、今日の駄弁りはここまでにしておく。


 問題は、目を閉じても眠れそうにないことだ。妙な疲れ方をしたのか。大場のことが気になるのか。どっちでもあるだろう。大切なことは、無理に寝ようとしないことだ。漫画なり本なり読んで、眠くなるまでゆっくり過ごせばいい。

 じっとしているだけでも、多少は身体が休まる。気晴らしも兼ねて、大場に勧められた漫画を手に取ってみたが。


「あー無理だ。ムリムリ」


 漫画はダメだった。恋愛漫画でなくても女子は出てくる。ヒロインどころか、ちょっと出番のある脇役すら可愛く見える。ささやかでもラブシーンだってあるから気持ちが揺さぶられる。

 山を降りるまでは軽く読み飛ばしてたシーンが、妙に気になってしまう。目が合う瞬間。なにげないお喋り。同じコマに写ってるだけの場面もキツい。

 大場も今日はこんなことしたんだろうなと考えてしまう。ハッキリ言えば、ドキドキして眠れない。


「よし、やめよう」


 漫画がダメだったから本を選んだ。漫画より酷い結果になった。気分転換も兼ねて小難しい本を選んだのが良くない。浮ついた部分が一切ないからこそ、より二人のことについて深く考え込んでしまって。完全に眠気が吹き飛んだ。


 疲れ足りないかと思って、夜空の下へ繰り出した。めちゃくちゃ暑くなっただけだった。汗が止まらない身体を冷やすためシャワーを浴びたが、全身がガチガチになった。ほぐすためにストレッチを試みたら、間もなく体中が痛みだし、朝になるまで七転八倒するはめになった。

 

 空が明るくなってきたあたりでぷっつりと意識が途切れ、あわや遅刻というところで目が覚めた。切り刻まれたように痛む全身に鞭を打って、なんとか教室に滑り込むことができた。


「さーせん。まだ間に合ってますか」

「いいよ。そういうことで」


 担任の気まぐれで遅刻はナシになった。席に向かう途中で、大場がにっこりと親指を立ててくる。俺も笑顔で同じ仕草を返した。


 休み時間はもっぱら、俺の登山の話が続いた。話せば話した分だけ、今週末にやる登山への期待が高まっているようだった。大場が昨日の話をしないのもちょうどいい。小宮となにをしてたかなんて、聞けやしないんだから。


「どうやって食べたって。そりゃまあ塩焼きだ。荷物を軽くしたいからどうしてもそうなる」

「食べてるところも見てみたかったな。どんな味がしたの」

「うーん。皮も硬けりゃ骨も硬い。脂だって乗ってるわけじゃない。まあ、スーパーで買えるようなものとは違う。でも癖になる。年に何度かは食べたくなるくらいにはな」

「いいね。今週末が楽しみだ」


 話しているうちに察したが。やはり大場は、昨日の出来事に気づいてないらしい。

 いつも通り話して、いつも通り盛り上がって、いつも通り笑う。普段と変わらない、俺の知っている大場が目の前にいる。

 だが、駅にいた大場も同じ大場だ。だとしたら、昨日の大場はいまどこにいるんだ。


「荷物は減らした方がいいかな。なにか買っておくものとか」

「普段通りでいい。登山計画も今夜送る。任せとけ」

「いつも頼りっぱなしでごめんね」

「こういう時は感謝だ」


 大場と山の話で盛り上がっていると、いつから小宮と付き合っているのか考えてしまう。

 小宮も俺も、大場と出会ったのはこのクラスが始まってからだ。出会ったタイミングが同じなら。俺とつるむより、小宮と付き合っている期間の方が長くても不思議ではない。

 そう考えると、笑いあっている大場との距離は思った以上に遠いような気がしてくる。


「はい。小宮さん」

「Bが正解だと思います。理由は――」


 小宮のことも気にはなっている。制服を着ている小宮は俺の知っている小宮だ。廊下ですれ違えばわかる自信はある。駅であっても会釈ぐらいはするだろう。

 思い比べてみても、極端に変わってる部分はなかった。髪型とか服とかは違うにしても、涙ぼくろの位置とかは変わっていない。並べて十人に見せたら、全員が同じ人間だと答えるはずだ。

 どうして大場も小宮もまったく別人に見えたのか。それは、お互いがお互いの前だったからなんだろう。


 誰が誰の一番だとか、そう簡単に決められるもんじゃない。決められるものじゃないが、少なくともこの学校においてなら。俺があいつの一番だと思ってたんだがなぁ。


「毎学期。よくもまあこんな溜め込むよ」


 期末が終わってから終業式までの短い期間。たった数日だが、校内の粗大ゴミやらその他不要物が捨てやすい日になっている。

 テスト明けでほっと一息つく連中も多いが、せかしく汗をかくやつも少なくない。部活動や委員会に参加している生徒の一部。教職員やなんかの業者。それと俺だ。


 学校中のドアからデカくて重そうな荷物を抱えた連中が出てきて、ゴミ捨て場の前に並ぶ。列に続いて辿り着いたゴミ捨て場の中は、段ボールとか梱包材で覆われたなにかでぎっしり詰まっている。

 不要物の山の上に紐で括った古本を積んで、後ろのやつへ順番を譲る。前学期もやった図書委員の手伝いだ。

 廃棄される本から好きなのを選んで持ち帰っていい。という条件で不要本の廃棄を引き受けたが、少しキツい。とはいえ、やると言った以上は責任がある。準備室に溜め込んだ古本の山はまだまだ残っている。

 さっさと戻って、もう一往復しようかと思ったが。


「お疲れさん。よくやるよお前も」

「やっぱり中山なかやまもか。お疲れ様」


 自分の肩幅の倍ぐらいはありそうな段ボールを、大場はよろけながら抱えている。俺は勝手に本を運んでやってる変わり者だが、大場は違う。頼まれたら断れないお人好しなのだ。

 お前のそういうところが好きだから、手を貸してやろう。


「その調子じゃ、ゴミ捨て場まで持たんぜ」

「いいのこれ。結構重いよ」

「俺とお前でやろう。遠慮すんな」


 段ボールの端と端を持って、二人で順番待ちの列に並ぶ。二馬力だから重さ半分。というわけでもないだろうが、二人で持っても段ボールはなかなか重い。どこの連中のどんなゴミかは知らないが。学校の裏の端にあるゴミ捨て場まで、よくもまあ大場一人で運ばせたもんだ。


「あー手がいてぇ。お疲れさん」

「ごめんね中山、こんな重いの持たせちゃって」

「こういう時は感謝だ」

「ありがとう」


 捨てる順番が回ってくるまでは何十分もかかっていないはずだが、それでも手はしびれているし背中まで汗をかいている。大場を一人にしないで、手伝えて良かったとマジで思った。

 ゴミ捨て場から離れてしばらく、俺たちは膝に手をついて息を切らしていた。山で鍛えている俺でさえ、しばらく動きたくない。ましてや大場の消耗っぷりは見てられなかった。


「なに入ってたんだよアレ。ちょっと休憩しよう、休憩」

「同感だ。運びたいものはまだあるんだけど、今すぐはちょっときついかな」

「まだあんのかよ」


 頼み事をするやつなんてのはだいたい厚かましいが。大場にあんなに重い荷物を一人で持たせたやつは鬼か悪魔だ。間違いない。


 大場はジュースを買いに自販機へ、俺は割引品のポテトを狙って購買へ向かった。このポテトの袋が絶妙な大きさで、ワイシャツの胸ポケットに入れるとちょうど良く収まる。これでジュース片手に、壁に寄りかかってボーっとするのが俺たち流のサボりだった。


「はい。梅干しジュース」

「ありがとうさん。手の調子はどうだ」

「冷たいものを持ったからかなだいぶ良くなったよ」


 左ポケットに収めたポテトを、大場もつまみながらゆっくり過ごす。二人でなにかに首を突っ込んだ時とか、課題や試験の勉強なんかで詰まった時とか、合間合間をこうやって過ごしてきた。

 なんでそんなことやってるんだとか。この問題意味わかんねえとか。振り返れば忘れているようなしょうもない話とかして過ごしてきた。

 自然な流れとして、ゴミ捨て場までなにを運んできたのかが話題になるわけで。


「図書委員のモヤシどもじゃ危なっかしいからよ」

「自分が好きでやってることなんだから。もうちょっとかっこいい言い方してもいいんじゃない」

「俺はお前と違って嫌なら断る。しんどい思いまでしてやらないからいいんだ。大場こそ、なに運ばされたんだよ」


 大場のお人好しは校内でも有名だ。俺が勝手にやるのが嫌で、先に大場に声をかけて手伝わせるやつも少なくない。善意を利用される人間より、利用する人間の方が嫌いだ。


 前々から腹が立っていた。だからつい、口が滑った。


「あんなでかい荷物を一人で持たせるとか。どういう神経してるやつな」


「違うよ。そうするって自分で頼んだ」


 話してる途中で大場に遮られるのは初めてのことだ。苦言を呈する時でも柔らかい言葉選びを考える大場が、こうもハッキリと自分の意志を伝えてくる。これも初めてのことだ。

 大場にこうも言わせる相手の心当たりは。


「小宮か」

「どうして」


 昨日のこともあって、思わず口走ってしまった。青ざめた大場はそれきり喋らない。

 開けてはいけない扉。入ってはいけない場所。言ってはいけない言葉。いま俺は、タブーに踏み込んでしまったと直感する。


 失言を謝るべきだと直感するが。言葉にする前に謝罪する機会を逃してしまった。


「じ、じゃあ。小宮さんが待ってるから、また」


 先に言葉を放ったのは大場だった。走り去っていく大場を、俺はあっけに取られたまま見送るしかできなくて。残ったポテトを口に詰めた後は、この場を立ち去るほかなかった。


 ポテトの袋と空き缶をゴミ箱に捨てた後は、モヤシどもが待っている図書室へと戻った。

 本を運んでいる最中に、大場の荷物運びを手伝うべきだと思いついたがやめた。ゴミを捨てるたびに、小宮と一緒にいたいだろう大場の邪魔をするつもりはないからだ。

 手伝おうかと悩んではやめるを繰り返して、けっきょく日が暮れるまで本を運び続けた。


「あー来ちまったか」


 テストが明ければ終業式まではあっという間だ。つるむ相手は多い方じゃないが、大場とだけつるんでいるわけでもない。そんなだから、夏休みまでどうということもなく過ごせてしまう。

 問題は終業式が終わってからだ。休みに入ったらすぐ、大場と初めて渓流釣りに行く日がやってくる。


「んん。来るたびに緑が濃くなるな」

「本当にね。前に来た時からそんなに経ってないのに、来るたびに別の場所を歩いているみたいな気持ちがするよ」


 山は天気がすぐ崩れるし、晴れていても地面は泥まみれで歩き辛いことは珍しくない。外から見た景色と中の環境は必ずしも一致しないし、不安定だ。

 だが、来るたびに新鮮な驚きがある。険しい環境でこそ感じる幸福がある。


 険しい上り坂の厳しさを、滑りそうになる下り坂の不安さを、清涼な空気と暖かな光に包まれる緩やかな道の安心感を。危険と隣り合わせの艱難辛苦と山でしか味わえない細やかな幸福感を、共に味わった相手と分かち合える。


 一人で登山をしていたときには想像もできなかったほどの充実した時間を、大場と過ごして俺は手に入れた。小宮も俺と同じ経験をしているのだろうか。


「この辺りにしとこう。もっと奥にいい場所はあるが、ここから先は一気に岩が鋭くなる。行きはいいが帰りが怖い」

「滝みたいな勢いで水が流れてるけど、本当に魚がいるんだね。渓流ってもっとさらさらと水が流れてそうな印象だったから、驚いてるよ」

「こういう岩場の流れが速いところにいる時はいる。待ってりゃ釣れるよ」


 遠くから見ると平穏な沢の流れでも、いざ近づくと激流に気圧される。なんてことは珍しくない。底まで見える透き通った流れだって、葉を浮かべてみれば瞬く間に彼方へ流されていく。山の水辺は目で見える以上に危険な場所だ。

 大場だって何度も登山をやってきている。水に近い場所の厄介さは俺から聞いているし、自分で調べもしただろう。だが、不安定な足場や急流だけが山の危険ではない。


 突発的に起こった強風に俺たちは巻き上げられそうになる。足元を気にしていた大場は岩から落ちそうになったが、態勢を崩しきる前に俺が手を掴むことができた。


「危なかったな」

「いきなりあんな風が吹くなんて。今はこんなに静かなのに」

「こういうことある。もうないとは言い切れないから、気をつけてくれれば助かる」

「ごめん。やっぱり」

「なにがあっても俺が掴んでやる。楽しもうぜ」


 いつでもお互いを助けられるよう釣り糸が絡まない程度の距離を取って、俺たちは渓流釣りに挑む。身体を冷やさないようにストレッチをしつつ、おやつを食べていたら思ったより早く獲物がかかってきた。

 大場が釣り上げたヤマメは『沢の主』と呼べるくらい大きいやつで、竿を折りそうになりながら二人がかりで釣り上げた。


 下処理はきっちりしたが、あとは塩を振ってガスコンロで焼いただけ。最低限の調理だが、齧りつく俺たちの手に迷いはなかった。


「どうだ。そんな美味くねえだろ」

「おいしいよ。でもなんというか。食べ慣れないな」


 激流に逆らって泳ぎ続けたヤマメの肉は硬く、しっかり火を通しても歯ごたえが尋常じゃない。腕でしっかり身を掴み、顎を使って、首を振ってやっと肉が口に入る。

 噛んで。噛んで噛んで。すり身になるまで噛み続けて、やっと飲みこむ。


 食べられるから食べる。それ以外は度外視して口にすべきものが、とてつもなく美味い。厳しい環境を生き抜いた野生の滋味に、俺の五感はまた魅了される。


「ぶっちゃけ食いづらいが。それ以上にたまねえんだよな」


 大場は食べながらうんうんと頷いて、また身に齧りつく。普段の態度からは考えられないほどの食いつきだった。


 熱湯で戻して食べるタイプの携帯食料も一緒に食べたが、しっかりと焼き上げたヤマメを頭から尾まで骨ごと平らげるのに時間はかからなかった。


「ごちそうさま。一緒に食べられて本当に良かった」


 食った後は気が緩むし、下山では登山時よりも滑落や転倒などの事故が起きやすい。まだ日は高いし、食後のほわほわした感覚が収まるまでのんびり過ごすことにした。


 大場は持ってきたクッションの上に、俺はリュックを枕にして横になる。山の澄んだ空気に包まれて、木立の隙間から覗く高い空を二人で眺める。

 眠気とは違う、意識が溶けていくような感覚に身を任せていると。駅や学校で起きた出来事が、別の国の話のようにさえ思えてきた。自然と一体化した心地よさも、山を降りて安全な下界に立てば消えてしまうのだろうか。


 こんなに楽しんでも、家に帰ればまた悩み始めるかもしれなくて。山から降りる前に、言いたいことを口にすることに決めた。


「小宮ともデートすんだろ。しばらく登山計画は一人分で立てる。寂しいけどさ」

「誘ってよ。小宮さんと付き合ってるのは僕なんだから、都合は自分で付ける」

「いいのか」

「別に被ったからって。山に小宮さんは連れてかないよ」


 それっきりしばらく黙っていたが、俺のリュックの上でなんかの虫が交尾を始めたのを大場が見つけた。

 二人で茶々を入れながら、腹を抱えて笑いまくった。笑い声が木霊して幾重にも重なるのすらおかしくてしかたなかった。山の景色は理由もないのに面白い時もあるし、妙に哀しい時もある。

 それでも、二人で同じ景色が同じように見える時は珍しい。


 登山口を出れば夕暮れが始まっていて、駅で帰りの電車を待っていると空の端に星が瞬いているのが見えた。駅は始発から数駅のところにあるから、どこを選ぼうがゆったりと座ることができる。

 電車の中は文明の力によって快適に過ごせる。が、そのまま過ごして二人で目的地を寝過ごしたことがあった。それ以来は再発防止のため、目的駅まではなんでもいいから話して過ごすことにしている。


「じっさいさ。どこまでいったんだよ」

「どこまでって。そりゃ付き合ってるわけだし」

「ヤッたのか」

「大人になってからって。思ってるよ」

「へー。付き合ったらそうするもんだと思ってた。自分が惨めだ」


 集合場所の駅が解散場所にもなっている。到着する頃にはすっかり夜も更けているが、山と違って街は明るい。温かいものや甘いものを食べると、人里に降りたようで心底ホッとする。

 だから二人で登山した帰りは、解散場所の駅で一度降りる。それでなにか食いに行って、解散するのが慣例になっていた。


 空いてたカフェで甘いものを思う存分食べて、今日は解散だ。


「今回も楽しかったぜ。休みは長いんだし、一回くらいはキツいの行っとくか。登山計画は送っとくよ」

「期待してる。準備はやれるだけやるから、近いうちにまた行こう。じゃあね」

「あばよ」


 先に電車が来た大場の背中を見送ると、登山を始めたころに比べてホームへ向かう足取りがずいぶんと軽くなっているのに気が付いた。そういえば、ここ最近は追加で休憩を挟むこともなくなった。

 あの進歩ぶりは、単純に登山に慣れたというだけではないだろう。自分で鍛えてないと説明できない。しばらくはお預けだが、次の山登りが楽しみだ。

 せっかくの長い休みだし、普通に遊ぶのもいいだろう。ガラじゃないが、大きめの夏祭りなんか。


「いや。祭りは小宮と行くか」


 山でのことで心晴れやかだったはずなのに、小宮が浮かぶと心にモヤがかかった。このまま帰っても初めて二人を見た時と同じ夜を過ごすだけだ。自分の気持ちを整理するにはもう少しだけ時間が欲しかった


 改札を出て駅を離れる。大通りをしばらく進むと、長い下り坂に繋がっていく。下りきった先にはデカい川があって、大場とヤマメを釣った渓流も流れ込んでいる。

 山に比べれば明るいが、川の周りだって十分暗い。ジョギングしてるおっさんやテールランプを光らせている車も、俺が視界に入っても気にしない。


 夜の闇の一部になった俺は、久しぶりに孤独を寂しいものだと感じている。


「月が綺麗ですね。とか言いそうだよなあいつ」


 独りでいるのは嫌いじゃないが、大場と遊んだ後ではどこか物足りない。遊び足りないわけじゃない。今日は十分楽しんだ。


 ならどうしたいのかと考えれば。大場と小宮の絡んでいく指先が目に浮かぶ。今頃の大場は小宮とメールでもしてるだろうと思ってしまう。


 理由はわかっている。今までは認めるのが恥ずかしかっただけだ。大場と小宮をダシにして、目を逸らし続けるのも格好がつかない。ここでスッキリして、大場の恋愛を祝福したい。


 今の俺は夜闇の一部だ。なにをしても気にはされない。


 かすかに輝く空の星と、眩しく彩る地上の星。その全てに抱え込んできた思いの丈をぶちまける。


「彼女ほしーーーーー!」

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ビバ☆フタリ 柏望 @motimotikasiwa

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