第5話

 有休をとろうか思案する柳は廊下を歩く。

 すれ違う患者や看護師に愛想よく挨拶し、頭の中で仕事の段取りを整えている最中に、異変が起こった。


「死ねっ! 裏切り者おぉっ!」

 その声が自分に向けられたものだと、最初は思っていなかった。

 鋭い痛みが右の肩甲骨かんこうこつあたりに走り、耳の奥が湯でも注がれたかのように熱くなる。

 右肩全体が燃えるように熱く、指先が痺れるのを感じた。


 なにが起こったんだ。


 突然のことに、柳は自分の身になにが起きたのか分からなかった。


「この茶色はなんだっ! 私をバカにするなあっ!!!」


 痛みでうずくまる柳がよろよろと立ち上がると、先端が血にまみれたボールペンがリノニウムの床に落ちた。

 どうやら、後ろからこのボールペンに刺されたらしい。


「離せっ! 離せええぇっ!!! こいつは敵だ、殺さないといけないんだあぁっ!!!」


 愕然とした。

 大勢のスタッフに取り押さえられたのは、ついさっきすれ違った看護師の女性だった。


「【白】衣を着ていたから、信頼していたのにっ! どうして、私を傷つけるんだっ!!! どうして、この汚い色を私の視界に入れたあああぁっ!!!!」


 呆然とする柳は、彼女の正気を奪った原因を見つけて唇をかむ。

 焼きそばパンを食べた時に零れ落ちた、3mmミリにも満たないソースのシミが白衣――ポケットの下の目立たない位置についていた。

 ベンチに座れば太もも辺りにあたる場所だ。

 彼女は柳が気づかなかった、その小さなシミを目ざとく見つけて自分への敵対行動だと結び付けた。


「大丈夫ですか、柳先生」

「あぁ、ちょっと辛いかも。あとでレントゲンとらないと」


 心配して駆け寄るスタッフに、柳は苦痛と困惑に顔をしかめて答える。

 彼女はいつ色調不良症候群プアカラー・シンドロームに発症したのだろうか。ずっと以前からか、それとも、つい最近なのか。

 SMSはやっていたのか、それとも柳が危惧していた発症者によって感化された一般人か。

 

 口角に泡を飛ばし意味不明な言葉を喚く女は、黒々と澄んだ暗黒の瞳をしていた。情も温もりもない、まるで黒い氷のような瞳だ。看護師の女性は柳を人間として見ていなかった。

 排除すべき対象を見つけた目――柳を【バケモノ】だと。

 罪悪感も一片の慈悲をかける必要のない、排除すべき対象だと本気で考えているのだ。


 スタッフに連行される女を見送り、柳は靴先で自分の肩甲骨を穿ったボールペンをころがす。

 女の手で、ただのボールペンで、白衣と服と初老の皮膚をつきぬけた全力の殺意に恐怖を覚える。

 被害妄想を肥大化させて暴力に歯止めをかけない――彼女みたいな存在こそ柳には【バケモノ】に見えるのに。


 あぁ、だけど、これでしばらく自分は休むことが出来るだろう。

 その結果、職を失うかもしれないが、傷を癒し自分の殻に閉じこもっている間、これから次々と生まれてくる【バケモノ】たちの産声を聞かずに済む。

 

 おおやけに休める口実を手に入れた柳は完全に油断した。

 背後で恐ろしい形相の男が柳に向かって突進してきたのだ。

 男の視線の先にあるのは柳の背中から流れる【赤】い血だった。


【了】

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

PoorColor Monster (プアカラー モンスター) たってぃ/増森海晶 @taxtutexi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ