コン_ビ・ニ

たってぃ/増森海晶

コン_ビ・ニ

 蝉の声がやかましく、体中が汗で濡れていた。

 炎天下の田舎道をだらだら歩いて、何分経過したかわからない。

 何分? 何十分? もしかしたら、何時間?

 道の両脇に茂る田んぼが勢いよく天に伸びて、赤いトンボが空を飛んでいる。澄み渡る青い空。遠慮のない太陽は近くの入道雲まで輝かせている。人影は皆無。あまりの暑さに前方が熱気で揺らいでいる。


「…………」


 あぁ、やばいかもしれない。

 目の前の景色が黄色く明滅していた。だが、わたしはこの場で休むことよりも、歩くことを優先する。

 まるでバカの一つ覚えみたいに。

 限界の限界。歩くことに集中しすぎて、あの時のわたしは明らかに視野が狭窄状態きょうさくじょうたいだった。

 いつの間にか空が見えなくなった。

 いつの間にか田んぼが見えなくなった。

 視線は下へ下へと下降し、足元しか見えなくなっていた。


 だから、その音を聞き逃さなければ、あの時、コンビニを素通りしていただろう。


 いきなり軽快なメロディが耳に飛び込み、わたしは反射的に音がした方向へ顔をあげた。

 そこにあったのはコンビニだった。

 コンビニを見た瞬間に、汗で濡れた肌が馴染みのあるクーラーの冷気を切望し、全身の細胞が乞うように叫んでいる。

 帰りたい。と。

 ふらふらと、わたしはコンビニに入った。扉ガラスに映るわたしの姿が目に入った。上着を腰に巻き付けた小柄な少女は、いまにも泣きそうな顔でわたしを見つめ返している。


 裏切られたというよりも、失望したという顔。

 わたしは「早く大人になること」を迫られていた。


 ひんやりとした心地のいい冷気が頬を撫でた。

 虫の居ない清潔な白い店内に安堵し、日光を遮るブラインドの縞々の影に緊張がゆるみ、「いらっしゃいませ」というマニュアル通りの店員の対応と、こじんまりとしたイートンコーナーが好ましく感じた。


「…………」


 まるで別世界にきたように思えて、わたしは声を漏らしそうになる。

 この時の心情を表すのならば、オアシスを見つけたキャラバンのような心境だっただろう。

 灼熱地獄を彷徨った甲斐があった。本当にそう思った。

 


 子供は自然が一番だと、大人は――特に父は勝手に思い込んでいた。

 年に一度の父の里帰りが、わたしには苦痛だった。

 父の実家は汚くて、常に家のどこかでハエが飛び、腐った臭いが漂っていた。

 大きいだけでエアコンがない家も、ぼっとん便所も、カビだらけの風呂場も、破れたビニールの包装が散らばっている居間もしんじられないものだった。

 虫がきらいだった、蛍なんて論外だった。植物に触れるなんて汚らしかった。

 川は冷たくて泳ぐ以前に凍えそうで、魚釣りも退屈そのもの。

 星がきれいだと思ったこともない。花火も祭りもお稲荷さんの怪談も、ちっとも楽しいと感じたことがない。

 極めつけに田舎の子供たちは乱暴で、話が合わなくて、さらに言うと下品だった。


 ここは、暑くて、苦しくて、煩わしい。

 これはなんの拷問なのだろう。

 何度訴えても、父はわたしを田舎に連れて行きたがった。

 冗談ではなかった。

 祖父がアニメを見ることはゆるせない。

 祖母が漫画やゲームを取り上げる。

 父がわたしの宿題の邪魔をして携帯を奪い、一緒に遊ぼうと駄々をこねる。


 母はここを嫌がった。わたしもここを嫌がった。

 今年は母と一緒に海外へ旅行に行こうと話し合っていた。

 中学受験に勤しむわたしを労うためだ。


――だが、祖母が倒れたと聞いた父が、強行きょうこうとわたしをここ田舎へ監禁した。


「お父さんとお母さんはこれから離婚する。ゆきちゃんはここで、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らすんだ。受験なんて子供らしくないことはやめるんだ」


 思い出しただけで鳥肌が立った。

 私の父は「父」ではなかった。


 倒れた祖母を心配していたのに、出迎えたのは元気な祖母の姿。

 父と祖父に拘束されたわたしは、庭の片隅にある倉庫に閉じ込められた。


 あぁ。なんて悪質な。

 彼らはいつから、この計画を練っていたのだろう。


 倉庫には窓がついていた。

 鍵の部分が錆びついて、開閉できない状態だった。

 わたしはその窓から逃げようと、乱暴に窓を、特に鍵のついた金具の部分を、ガチャガチャ揺らしてこじ開けようとした。

 このままここにいたら、どうなるかわからない。

 確実に分かることは、今ここから逃げないと、わたしの人生は滅茶苦茶にされる。

 家族だと思っていた化け物たちに。

 乾いた音をたててスライドする窓から、わたしは身をよじって脱出した。


 幸か不幸か、倉庫のまわりにも庭にも見張りがいなかった。

 

 駅からバスを乗り継いでやっとたどり着ける場所だからこそ、父はわたしが逃げきれないと踏んだのだろう。


 

 そして、計算違いは、何通りもある駅までのルートに、コンビニが出来たことだろうか。

 

 

「すいません、電話を貸してくれませんか? 携帯を失くしてしまって」


 ポケットから小銭を出し、スポーツドリンクの会計を済ませて店員にお願いする。携帯を持っていない言い訳を咄嗟に口をして、すまなさそうに目を伏せてみる。


「えぇ、いいですよ」


 それは、コンビニ店員とはにつかわしくない上品で面長な顔立ちだった。

 少し狐に似ている気がした。

 店員がうかべる爽やかな笑顔に、体中が安堵で満たされた。

 助かった。と。

 

 通された事務所も掃除が行き届いて清潔だった。

 長椅子に案内されて、電話の子機を渡される。

 心臓が高鳴った。ワンコールで出た母親の声に、鼻がつんと痛くなる。


「そう、コンビニが出来たのね。よかったわ、体は大丈夫。だいぶ歩いたでしょう、気持ち悪くない?」


 父からはとうてい出ることのない優しい気配に、わたしは母と話していると実感する。


「うん、大丈夫。イートンコーナーがあるから少し休みたい」


 思えば悠長なことを言った。

 コンビニここがいつまでも安全とは限らない。駅にたどり着いても、捕まったらおしまいなのに。


「あの、ちょっとよろしいでしょうか。電話をかわっていただけませんか?」


 唐突に店員が割って入ってきた。

 わたしは少し迷い、そして母に「店員さんが、お話があるって」と言って、子機を店員に渡した。

 

 それから、母と店員が一言二言ひとことふたこと言葉を交わしたが、内容は判然としない。

 店員は「駅までタクシーを手配したから、到着するまでイートンコーナーで休むといいよ」と、わたしに言った。

 疲れがたまっていたのか、そのままイートンで眠りについたわたし。

 

 それが去年の話だ。

 気がついたら家のベッドに寝かされていて、わたしの胸の上で突っ伏して眠る母の姿があった。

 

 わたしは薄情だろうか。

 あれから、わたしを探しに行った父が行方不明になったらしいが、どうでもいいと考えている。

 そして、わたしがどうやって帰ってきたのかも、思い出したいとは思わない。

 母はなにもいわない。わたしもなにもいわない。


 助けてくれた店員にお礼が言いたくて、コンビニの所在を調べたら、そこは田んぼだと教えられた。

 その時に、背中にかんじたひんやりとした空気が――答え。


 店員と会話したはずの母は、気まずそうに口をつぐんで言葉を濁し、わたしは察して追求することはない。

 お礼を言えないことだけが心残りだ。

 それだけを、心にとどめていこう。


タクシーに乗り込み

後部座席に滑り込んだわたしが

後方の窓からコンビニに入る父を見た気がしたのは

それは多分、なにかの間違いなのだ。

 

【了】

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