第7話 婚前交渉編IV
華やかな一帯を抜けてきたぶん、そのひと気のなさ、静けさは一層強く意識させられた。アーケード街のような屋根がある訳でもないのに、どこか薄暗く、洞窟でも前にしているような感覚に襲われる。
そこにはまるで時代に取り残されたかのような建物が並んでいた。いわゆるシャッター通りと呼ばれるような光景に近しいが、それよりもさらに寂れた、しかしどこか懐かしさを感じさせるようなノスタルジックな雰囲気のある場所だった。
というのも、建物自体が古めかしい。さすがに木造ではないだろうが、そもそもシャッター等が備わっていない家屋もあるようだ。木枠のガラス戸であったり、露店のように入り口が大きく開放されているものもある。
強い地震があれば丸ごと崩れてしまいそうな、火災が起これば一帯すべて焼け野原になってしまいそうな、そうした昭和初期の町並みとしてモノクロ映像で紹介される風景が目の前に現れたようだった。
「不思議、というか、不気味な場所でしょう? 分かります。……ただ、こちらの世界の感覚で言えば時間が停まっているかのようですが、〈分別〉された世界というのはたいていこのように中世的、古い方に近代的な雰囲気が多いですね。なので、私からすると落ち着きのある場所に感じられるのですが」
そのことが、逆に違和感がある、と。実家のような安心感に、不自然さを覚えてしまう。
「この現実、〈基盤世界〉のただなかにぽっかりと開いた穴……あるいは、この世界の一部を〈分別世界〉で"
「目指さなければ迷い込むこともなく、そもそも気付かれることもない場所。……まあ、そうした土地自体はそう珍しくなく、気付かれないだけで各地に点々とあるものではありますがね。いわゆる心霊スポット、パワースポットなどが"代表的な例"です」
胡太楼は言いながら、こちらをどうぞ、とスーツのジャケットの内側から何かを取り出し、満弦に手渡した。
受け取ったのは、眼鏡ケース。開いてみると、中には胡太楼が今掛けているものと同じデザインの眼鏡が収まっていた。
「出会いの記念に差し上げます。ちょっと掛けてみて、あちらをご覧ください。度は入っていない、いわゆる伊達メガネというものですが」
……これは、もしかして。微かな期待を抱きながら、眼鏡を取り出す。
胡太楼の掛けているものと同じかと思ったが、こちらは耳にかけるツルの先端から、首から下げることの出来るようにチェーンがつけられている。
それから、透き通ったそのレンズを見て、ほんの少しの違和感。なんとなくだが、これは違うものだ、そんな直感を覚えながら眼鏡を掛けてみて、
「……?」
思わず一度外してから、再び掛けなおした。
……視界が曇っている。
レンズは透明できれいなものなのに、そのレンズ越しに見る景色はなぜか"もやがかって"映った。満弦の周囲は薄っすらと、背後を振り返ると鮮明で、しかし胡太楼の実家があるという例の一帯に目を向けると、
「どのように見えるかは人それぞれですが、概ね霧や"もや"がかかっているように映るそうです。それが〈神秘〉の気配……魔力を含んだ空気とでも言いましょうか」
もやの中にきらきらと、さながら天気の悪い夜空に垣間見える星の光のように、陽光を受けて輝くガラスの粉末のようなものが漂っている。空気中の塵が発光しているようにも見えるし、暗がりからこちらを窺う眼光のようにも映る。そんなどうにも無視できない、光の破片が散らばっていた。
「この場所は他に比べて、明らかに〈神秘〉の濃度が高い」
眼鏡を外すとなんともないのに、眼鏡をかけると世界が変わったような感覚があった。視界だけでなく、さっきまでまるで意識しなかった"匂い"……果汁ような甘さを含んだ空気が鼻先に触れ、砂糖を口に含んだような"味"まで感じる。
「眼鏡と言えば"視界を変えるもの"といった印象でしょうが、直接身体に触れているのは耳と鼻です。なので、その眼鏡は視覚のみならず聴覚と嗅覚、おまけに味覚にも影響を与える代物です。それを掛けていれば『妖精』を見ることも、その声を聴くことも出来るようになります」
……『妖精』が見える? それって……、
「見えていることは"むこう"にも気付かれますが、それにはこちらの息がかかっていますから、変なちょっかいをかけられることはないでしょう。こちらから絡まなければ基本的には安全です」
予想だにしなかった贈り物に、思わず飛び跳ねたくなるほどに気持ちが高揚した。クリスマスの朝、枕元にプレゼントの包みを見つけた子どものような気分だった。
……その一方で、こういうものがなければ〈神秘〉を目にすることが出来ない――そんな自分の「才能のなさ」を自覚して、少しだけ気分が沈んだ。それでテンションのつり合いがとれたため、踵が浮いたのはほんの一瞬。しかし胡太楼には感づかれたようで、
「〈神秘〉の薄い世界で育った人間はそれが一般的です。逆に、私のような『異世界育ち』からすると、こういう一か所だけ明らかにおかしな土地というのは厄介なもので、"もやがかった視界"がデフォルトになります。なので、こちらは〈神秘〉を見えにくくする眼鏡を掛けているという訳です。いわゆる『
見た目の上ではただの眼鏡だが、そう言われて満弦が眼鏡を掛けたまま見上げてみると、胡太楼の掛けている眼鏡のレンズは、彼の瞳をこちらの視線から遮るような"くすみ"があった。
胡太楼がこちらを見返すが、目が合っていると感じなかった。満弦からすると視線を意識せずに済んで気が楽になる。ありがたい。
「とまれ、こうして見てもらって分かったと思いますが、この場所は異質です。一般の人が進んでここに住もうとは考えないでしょう」
……だというのに、ここに実家が? しかも、小学生が住んでる?
「もとからこの土地で生まれ育った人間からすれば、逆にもっとも落ち着ける場所になるんでしょう。『住めば都』というやつですね。『住まば都』とも言いますが、私にも都合がいい。……しかし、私も然り、こういう土地にいる人間というのは、少々変わっているものです」
変わっている……小学生の、女の子。
ここにきて、今さらながら満弦は自分の置かれている立場に理解が及んだ。なぜかいつも、現実は遅れてやってくるのだ。
尾代胡太楼と結婚するということは、その娘の親になる、ということもであるのだ。だけどそれはこれから自分が育てていく実の子どもではなく、別の母親から生まれた、ちゃんとした意思を持った一人の人間なのである。
……胡太楼との付き合いはビジネスとしてやっていけそうでも、私は果たして「母親」としてその子との関係を築けるのだろうか。
その子……来実ちゃんの家庭の事情はまだ詳しくは聞いていない。だけど、母親のいない、ともすれば母親を知らずに育ってきた子どもの気持ちは、少しだけなら想像できる。
もしも自分に母がいなければ、どうなっていたことか。具体的なイメージはすぐには浮かばずとも、とにかくずっと不安に苛まれっぱなしで、少なくとも今この場に立っていることはなかっただろうと確信できる。
……他人と目を合わせることも出来ない私に、「お母さん」が務まるなんて――
とてもじゃないが、今はそんなこと思えない。
だけど――それもまた、私が向き合うべき現実なんだろう。
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