第3話 婚前交渉編II(1)




 葛藤があった。


 しかし、トイレで鏡を目にして、情けない自分の顔を再確認して、ここに来る前の母とのやり取りを思い出した。


 それから意を決し、叶乃かない満弦みつるは部屋に戻った。


 尾代おしろ胡太楼こたろうは料理に手を付けていた。傍らには原稿の束。


 ……どういうつもりかは知らないが、私が小説を書くことは相手に知られている。しかも、それを読んでいるという。こちらの機嫌を窺うためのお世辞……にしてはちょっとストレートすぎる感想があったが、なんにしても、自分の見合い相手について知ろうという意図によるものだろう。


 投稿した小説を読んだくらいでこちらの為人ひととなりが分かるとは思えないが……少なくとも読んで抵抗はなく、こうしてこの場にやってきたということは、相手にもいちおう「その気」はあるのだと思う。


 ならちゃんと、私もこの人に向き合うべきだ。


 ……そうしなければならない。この人は、私の超えるべき現実なのだから。


 そんな覚悟で元の席に戻った満弦だったが、当の尾代胡太楼といえば、ちらりとこちらに一瞥をくれはしたが、すぐに料理に戻った。満弦もいちおう、料理に手を付ける。しばらく、沈黙があった。


 やがて、


「……失礼。実は昨夜からちゃんとした食事をしていなかったもので」


 育ちの良さを感じさせる所作で口元を拭ってから、改めて居住まいを正し、満弦に向き合う。


「そうですね、さすがに突拍子がない。いくらファンタジーを書かれているとはいえ……いきなり『魔法使いだ』などと言われてもお困りでしょう。ちょっと、頭が回っていませんでした」


 彼、胡太楼はひとり頷くと、原稿の束を鞄に戻しながら、


「まずは地道に行きましょう。これは魔法ではないですが、私には貴女の考えていることが分かります。手に取るように、というか、表情に出ている感情を読み取ることが出来る、といった具合でしょうか」


 満弦が顔を上げると、胡太楼は穏やかな笑みを浮かべたまま、こちらの目を見返してきた。思わず視線を逸らす。


 ……心が読める。表情が読める。そんなもの、魔法でもなんでもない。少しコミュニケーション能力に長ける人間なら誰でもできるんだろう。引きこもりにそのスキルがないからって、そんなことで騙せるなんて考えが甘い。


「『心』というものは胸の内側に収まっている小さなハート、ではないんですよ、実は」


「……?」


「もっと大きく、身体に重なるように存在している。身体を覆う、膜のようなものと言えますね。〈念膜アウラ〉と呼ばれるものですが、オーラとか雰囲気、身にまとっている空気と言い換えた方が分かりやすいでしょうか。私は人の発する、そうした〈念膜〉を感じ取る資質に優れているようで。要するに、貴女の考えていることはだいたい分かるので、無理に声にしなくても大丈夫です、ということです」


「…………」


 少し、ドキリとした。人見知りである、ということだけでなく、「喋るのが得意でない」ことまで見抜かれている。

 ……でも、だけど、それは少し時間を共にしていれば、察しの良い人間なら気付くものではないか。そうでなくても、まだ『魔法』と言えるようなレベルのものではない。


「これはまあ、最低限の礼儀というもので、将来の伴侶となる方に隠し事をしないために説明したという次第です。『魔法』をお見せするのはこれから。……手鏡など、何か持っていませんか? なければ最悪、スマホでもいいですが」


 言われ、満弦はバッグの中の手鏡を思い出す。何か、場を和ませるための手品でもするのだろうかと思いつつ、満弦はおずおずとそれを彼に差し出そうとする。


「では、その鏡を覗いていてください。これから私が魔法をかけますので」


 悪戯っぽくそう言って、ウインクしてみせる。急に恥ずかしくなって、満弦は顔を伏せながら鏡面を覗き込む。情けない表情をした、自分の顔が映っている。


「じゃあ、魔法をかけますね――」



 ――うつせ、うつせ、うつせ――三重トリオのっとり、その光景をれ――



 独特な韻律、抑揚で以て紡がれた言葉。それは確かに呪文のようであり、そして、


「……え」


 満弦の持つ手鏡に、奇妙な光景が映し出される。


 それは……壁だった。


 見たことがあるような気もするし、そうでないような気もする。どこかの壁。屋内なのは分かる。そして何より、そこには鏡を手にする満弦の顔が映っていなかった。


 あれ、これって鏡だよね? と裏面をひっくり返してみる。普通に、さっきまで満弦が覚悟を決めるために用いていた手鏡である。何もおかしなところはない。再び鏡面を表にすると、そこには知らないおじさんの顔があった。


「!?」


「おっと、失礼」


 思わず満弦が鏡を手放すと、それが料理に墜落する前に胡太楼が受け止める。


「なにぶんですね、近くに手ごろな鏡がなかったもので。さすがに女子トイレに入る訳にもいかないでしょう?」


「ぇ、っ、と……」


 じゃあ、今のは……男子トイレの?


「ここに来る前に立ち寄りましてね。そこの鏡の一つに細工をしたんです。今、満弦さんの持つ手鏡が映し出しているのは、その男子トイレの鏡に映った景色、という訳ですね。……あぁ、そうそう、ちなみにあっちからはこちらの様子は見えていませんので、安心してください。音も入りませんし」


「…………」


 鏡の向こうで、知らないおじさんが俯き、薄くなった頭頂部をこちらに向ける。もしかして、手を洗っているのだろうか。やがておじさんは顔を上げると、こちらに見向きもせず鏡の中から消えていった。

 しばらく眺めていると、また別の男性が鏡の中を横切って行った。パチン、という指の音が聞こえ、満弦が思わず顔を上げたその一瞬に、手鏡は元に戻って、この部屋の天井を反射していた。


 ……いったい、どういう手品トリックだ? 部屋を出ているあいだに、特殊なデジタル機器と入れ替えられていたとか?



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