第5話 深夜の来客とうさぎとかめ(4)
続いて鶏肉を1センチ角に切り、マッシュルームも薄切りにして、順にフライパンに投下。ケチャップを加え、最後にご飯も合わせて炒めていく。
白米が徐々に赤く染まっていく様子にみちおばあさんは歓声を上げた。
「すごい、お店で見るチキンライスだ……!」
振り返った顔がきらきらとしている。笑っているからだろうか、肌は明るく少し若返ったように見えた。
睦実が塩、胡椒をふりかけて味を調える。そこは師匠の腕の見せ所なのだ。できあがったチキンライスは一度フライパンから皿に移しておく。
「さあ、肝心の卵だぞ」
今度はボウルに卵が二つ。みちおばあさんが卵を一つ手に取り、何の気なしに調理台の角にぶつけようとしたところ、
「馬鹿、卵は面で割るんだよ」
睦実の叱責が飛んだ。
「え……」
目を白黒させるみちおばあさんに、
「角で割ると殻の破片が中身に入るかもしれないだろ」
と睦実が言う。
「それは常識なのかい?」
みちおばあさんが夕良の方に尋ねる。どうやら彼女の中で夕良は料理レベルが同程度とみなされているらしい。
「ええと、一応私も知っています」
夕良がなんとなく申し訳ないような気持ちになりながらそう答えると、
「そうか……あたしはそんなこと知らなかった」
呆けたようにみちおばあさんは呟いた。言われたように卵を調理台の天板でとんとんと卵の殻にひびを入れる。
「この歳になっても知らないことがたくさんある。あたしはどれだけ多くのものを長い時間の中、見落としてきたんだろう」
ボウルの中に卵が一つ落とされる。みちおばあさんは少し不器用なのか、黄身が潰れてしまっていた。
「でも、新しいことを知るってなんて面白いんだろう……」
もう一つ卵を割り入れる。今度は完璧にまん丸だ。
夕良は彼女の横顔を覗き込んだ。間違いない。先程は表情が変わったから若く見えたのかと思っていたが、おばあさんは確実に年齢を遡っている。今は店を訪ねてきた時よりも若返っているのではないだろうか。
ボウルの卵をしっかり混ぜほぐし、こちらも塩と胡椒で味付けする。いよいよ最後の工程だ。バターを溶かしたフライパンに卵を流し込む。目指すのはふわふわとろとろの状態だ。
「まだかい?」
「まだだ」
フライパンの中の卵の状態を見ながら、チキンライスを入れるタイミングを今か今かと待っている。睦実の許しがなかなか下りず、みちおばあさんがじりじりしているのがわかる。
「そろそろどうかな」
「いやもう少し待て」
こんなやりとりを十秒ごとにすること複数回。
「よし今だ!ライスを入れろ」
「えっ、もう!?」
いざ許可が下りるとみちおばあさんはびっくりして、がちゃがちゃと派手な音を立てながら脇に置かれていたチキンライスの皿とお玉を手に取る。そしておそるおそる卵のシーツの上に、楕円形にライスを盛った。
「うん、良い感じだ。じゃあ両側の卵を中央に向かって折ってライスに被せるんだ。こんな風に」
片側は睦実がゴムべらを使って手早くライスに向かって卵を折りたたむ。さすがの手際だ。
みちおばあさんも手渡されたゴムべらで見よう見まねで卵のもう片側を折る。少し端に皺が寄り、破れてしまった。
「見えない部分だから大丈夫だ。さあ、それでフライパンの端に寄せて、皿を盛ってきて……」
睦実がみちおばあさんの両手を取りながら、見事にオムライスを皿の中央に着陸させた。
「わぁ…………っ」
夕良と穂高が声を上げる。白い皿の上の半月。ちゃんとオムライスだ。
「すごい。初めてなのにこんなに綺麗にできるなんて」
興奮気味に話しかける夕良に対し、
「うーん、でもちょっと形がいびつだよ」
みちおばあさんは不満げだ。意外と完璧主義であるらしい。
「そこはほら」
と睦実がペーパータオルを差し出す。これで形を整えろと言うのだ。
「それはちょっと邪道じゃないかい?」
みちおばあさんが眉をしかめるが、睦実は構わなかった。
「偉そうなことを言うな、素人。最後に綺麗な形になっていれば、その過程がどうだったなんて問題じゃないんだ。あと味さえ良ければな」
しぶしぶペーパータオルを受け取り上から被せて、理想の通りの形に調整する。最後にケチャップを上からとろりとかけて。
「完成だ」
みちおばあさんの囁くような、熱を帯びた声。
手作りのオムライス。食卓の上のかわいらしい月。今夜限りの芸術作品。
みちおばあさんはどんどん若返っていた。曲がっていた腰は伸び、しゃんと立っている。今は三十代くらいだろうか。
「見た目は完璧だけど、味はどうかな。温かい内に食べてみないと」
いそいそとエプロンを外すみちおばあさんを、「ちょっと待て。まだだ」と睦実が制止した。
「え?もうこれ以上やることは……」
怪訝そうな顔をするみちおばあさんの手に、睦実がしかめ面してフライパンを握らせる。
「おい、ここには深夜に起こされ労働に駆り出されている人間が三人もいるんだぞ。
あと三つだ。同じものをあと三つつくれ」
「――――ええっ」
寝不足による不機嫌はあるだろうが。睦実先生、思っていた以上にスパルタである。
この先の未来に同じような指導を受けるであろう夕良はひっそり震え上がった。
みちおばあさんがあと三皿のオムライスを作り上げるまで、夕良がテーブルをセッティングし、睦実がアイスティーを淹れ、穂高が洗い物を担当した。
そして「喫茶ほむ」のテーブルの一つを四人で囲む。
ロマンスグレーの老紳士は料理教室の間もこちらの様子に頓着せず、相変わらず新聞をめくっていた。その新聞の日付を見ると本日のものだ。もう新聞配達が来ているということは、時すでに早朝。とんでもない時間のオムライスの試食である。
「いただきます」
声を揃えてフォークを手に取る。
「あ、美味しい」
「当然だ。俺が教えたんだからな」
「睦実好みの味付けは僕好みの味付けでもあるからね。それが夕良にとっても美味しく感じられるなら、我が家は安泰だ。睦実の教えをちゃんと再現できた生徒さんも立派だよ」
食卓は賑やかだ。生徒を褒め、先生を褒め、その合間にどの皿のオムライスもぱくぱくと平らげられていく。
働かざる者喰うべからず。労働のあとの食事はとても美味しい。
「どうですか、みちさん」
先程から一人静かだったみちおばあさんに、穂高が声を掛ける。
「……あ、ああ。美味しいよ」
はっと気がついたようにみちおばあさんが返事をする。彼女は一口、二口食べてから、しばらく動かないでいた。
「みちさん?」
不審に思って穂高が再度名前を呼ぶと、彼女は「大丈夫、ちゃんと起きているよ」と苦笑いした。
「いや、自分の手でこんな料理をつくれるなんて今まで考えもしなかった。それですっかり感じ入ってしまってね。
だけどこうやって食卓を囲んでいて気がついたのは……」
みちおばあさんはテーブルに座る面々と、その前に並ぶほとんど食べ終えた皿を見回しながら、
「あたしは多分、こんな風に誰かのために料理をつくりたかったんだろうな」
と語った。
「誰かって、別に誰でもいいわけじゃない。あたしのことをただで料理をつくって当然みたいに考えている人間のためじゃなくて。家族でも友達でも、あたしのことを思いやってくれる人、大切にしてくれる人のために、こんな風に料理をつくって一緒に食べたかったんだ」
そういう人に出会うことができなかった。母や弟もそうではなかった。
気づいてしまうと悲しい。でも気づくことで、これからをどう生きようかと考えることができる。
それは確かに一つの希望だ。
気づくことにすら時間がかかった。まさにかめの歩み。それでもそれが彼女の人生だ。
「ちゃんと気づけて良かった……これは、あたし自身の望みだ」
みちおばあさんはそう言って、柔らかく微笑んだ。
彼女はその後、残りのオムライスをきっちり平らげると、席を立った。
「今晩はありがとう。あんた達はとてもよくしてくれた。それに報いるくらいには、あたしの料理は美味しかったかい?」
いたずらっぽく「喫茶ほむ」の三人に尋ねる。
「はい、すごく美味しかったです」
「ああ。合格点だ」
「そもそもお客さんに料理をさせている時点で店としては言語道断なんですがね」
三者三様の回答にみちおばあさんは嬉しそうだった。
「ありがとう……それじゃあ私はもう行くよ」
扉の向こうは夕方だった。時間帯は明け方のはずなのだが、さかみち商店街の太陽は本当に気まぐれだ。
みちおばあさん……いや、みちさんは今はきっと二十歳くらいだろう。夕日に照らされた彼女はワンピースの裾を軽やかに翻す。
「今度は誰に何と言われようと、誰に押さえつけられようと、自分の好きなことをするよ。今日みたいにね!」
そう言って、坂道の向こうへと歩いていったのだった。
もう一度、店の扉に<CLOSED>の札を掛ける。
汚れた食器はそのまま。エプロンをその辺に放り出し、電気を落とす。
店内は再び静かになった。一人残された老紳士が時折新聞をめくる音の他は、何も聞こえない。
「今……何時だろ?」
「多分、もう六時台……」
「二時間だ……せめて、二時間は、寝るぞ……」
ぎしぎしと音を立てて、三人が階段を上っていく。
今晩のお客さまには無事、満足して帰っていただけたようだ。ただし彼らの睡眠時間を犠牲にして。
全員、顔が土気色でふらふらと足下もおぼつかない。まるでゾンビのようだ。
「三階まで上がるの面倒だな……」
今にも階段の手すりにもたれかかって寝てしまいそうな睦実。
「だからってさすがに店の中で寝るのはまずいよ……ほらあと少し、頑張って」
と、たしなめながらも、スリッパの片方を階段のどこかに落っことしてきたらしく片足が裸足の穂高。
「あー、私こっちだから……」
兄弟につっこむ余裕もなく、彼らを追い越してさっさと自分の部屋へ行こうとする夕良。 彼女の背中を見て睦実が、
「……そっちの方が近いな」
とぼそりと呟いた。最後の気力を振り絞るように再び階段を上り始める。
「睦実……ほんの十歩程度の差だよ」
穂高は呆れながらもその背中を追う。
「無理、本当に無理……お前だってそうだろ……?」
「そりゃそうだけど……」
夕良は二人のやりとりを聞いているのか聞いていないのか、
「もういいよ。寝よう。本当に寝よう。おやすみー」
自室の扉を開けて自分だけ大きなベッドの真ん中に潜り込む。
扉は開いたまま。
彼女の両側にはそれぞれ大人一人が横になっても十分なスペースが残されている。
穂高と睦実は顔を見合わせた。
お互いの表情から読み取れるのは、ただただ眠い。それだけだった。
「おう、おやすみ……」
睦実は夕良の右側に。
「……ま、いっか。お休み、二人とも」
穂高は夕良の左側に。
程なく三人分の寝息が短い夜を揺らし始めた。
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