第4話 深夜の来客とうさぎとかめ(3)

 そう独りごちるとげほげほ、と咳き込む。そしてぐったりと椅子の背にもたれかかった。

 その様子を見て夕良はふと気がついた。

 老婆の体は数十分前に比べ、さらに小さくなっている。髪も白と黒が半々に入り交じっていたのが、明らかに白髪の比率が増えている。どうやらおばあさんはこの短い時間で数年ほど年老いてしまっているようなのだ。

 おそらくこれはさかみち商店街の影響だ。物理的な時間経過と関係なく、おばあさんの年齢は揺らいでいる。

「お、お口に合いましたか」

「……」

 様子を窺うように夕良が声を掛けると、おばあさんは面倒くさそうにこちらを見た。だがなかなか返事がない。

「お客様?」

 重ねて呼びかける夕良に対し、

「注文した料理はまだかい?」

ぼんやりとした声でおばあさんは言った。

「え?」

「さっき注文しただろう?もう随分と待っているよ」

 夕良は思わず口に手を当てた。

 先程の推論は確かなようだ。おばあさんは今もどんどん年齢を重ね、つい先程のことさえわからぬくらいになろうとしている。

「駄目だ。もうホットサンドを食べたことも忘れてる」

「もしかしたらこのおばあさんが本当に食べたいものを出さないと、永遠に食べ続けるんじゃないかな?」

「本当に食べたいものか……」

 おばあさんは空っぽの目で何もない空間を眺めている。夕良と穂高は幾分声を落としてはいるものの彼女のすぐ側で話し合っているのだが、一向に気にする様子がない。外の世界に対する注意力が完全に落ちているのだ。

「確かさっき温かいものに喜んでいたよね。手作りの温かいもの……今度は軽食じゃなくてちゃんとした食事を出してみる?洋食とか?」

「どんどん重たいものになるな。まあ仕方ない」

 もうささいなことにこだわらず、とにかくメニューに載っている料理をいろいろ試してみるしかない。二人はそう結論づけた。

 穂高が再び笑顔をつくって、

「すみません。手違いで注文が通っておりませんでした。もう一度教えてくださいませんか?」

と言って、洋食のページを開いたメニューを差し出す。

「そうだねぇ」

 おばあさんは戸惑った様子で洋食の一覧を眺めた。

「字が小さくて読めない」

 視力もますます悪くなっているらしい。穂高はうろたえず、「では読み上げますね」と言う。

「ミートソーススパゲッティ、カルボナーラ、ナポリタン……」

そこでおばあさんがぴくり、と反応した。

「ナポリタンでございますか?」

 すかさず彼が確認する。

「ああ。それを頼むよ」

 返事にも張りがない。食事をしたいという意思とは裏腹に、おばあさんは疲れ切っている。

「睦実!」

「おう!」

 穂高は名前を呼ぶだけだったが、睦実は包丁でピーマンを切りながら顔も上げず応えた。話は聞いていたということだ。鍋には既にたっぷりの湯が沸かされていた。


 

「ナポリタンでございます」

 湯気を立てるスパゲッティをおばあさんのテーブルに置く。先程のホットサンドでチーズを気に入ったようだったので、粉チーズも忘れず添えた。

「へぇ、ナポリタンってこういうのなんだ」

 料理を待っている間、置物のようになっていたおばあさんが身を乗り出す。フォークに巻き取ったスパゲッティを不思議そうにためつすがめつしてから、口にした。

「ナポリタンも初めてですか?」

「ああ、名前だけは聞いたことがあっていつか食べてみたいと思っていた。赤いんだね。酸っぱい……けど美味しい」

「ケチャップで味付けしているんです」

「ああ、ケチャップ。お洒落だよねぇ」

 おばあさんは一口一口を積極的に、だけど興味深げに味わいながら食べていく。その姿に夕良は気づくところがあった。

「もしかしてあまり外食はされたことないですか?」

 そうだね、とおばあさんが頷く。

「好きに遊びに行けなかったからね。若い頃は生活を支えるために仕事ばかり。無駄遣いなんかできなかった。弟が就職して少し楽になったかと思ったら、今度は母親が倒れて。働きながら看病していたから、自分の時間なんかとれなかった」

 夕良は気がついた。注文すらおっくうそうにしていたおばあさんが、自分のことを話すときだけ饒舌だ。

 もしかしたらこの人は今まで自分のことを話す機会があまりなかったのかもしれない。そして本当はずっと話したかったのかもしれない。

「弟は『家庭のことは女の仕事』だかなんとか言って、母のことはあたしに任せきり。自分はとっとと結婚して家を出ていった。以来、お金の援助すらしない。

 それでも母は長男だから良いんだってさ。弟が結婚して孫ができてそれに大喜びして。で、毎日面倒見ているあたしに対しては『結婚すらできないなんて女として駄目だ』って」

 おばあさんが投げやりに笑う。

「母が亡くなってやっと自分の好きなようにできると思ったら、今度はあたし自身が体を壊した。

 皆がいなくなった、たった一人の家で、寝込んでいると考えてしまう。あたしはお金がなくて、人の言葉で傷ついて、人の面倒を見ることを強いられる内に、動けないくらい年老いてしまった。

 あたしの人生は何だったんだろう。でもだからといってあたしは人生で何をやりたかったんだろう。もうそれも思い出せないんだ」

 フォークを途中で置いてしまう。ナポリタンは半分以上残っていた。

「他にご注文は……」

 おばあさんは応えない。

 すっかりうなだれて皺はいよいよ深く刻まれ、腰は曲がりすぎて海老のようだ。これはもう、問題は何を食べるかではなくなっているのだろう。

 このおばあさんはかめなのだ。ゆっくりゆっくり進んでゴールにたどり着けなかったかめ。今はもはや何のために進んでいるかすらわからなくなっている。

 人生は長い。だけど障害物に足を取られていればあっという間だ。ましてやどこがゴールなのか明確でなければ、迷っている内にタイムリミットは来る。

 おばあさんはどこがゴールかわからなくなっているのだ。

 夕良は見ている内にだんだん不安になってきた。

 このおばあさんの姿は、あるかもしれない自分の姿だ。

 どう頑張っても速くならない足を必死に動かして進んできたのに、どんどんうさぎに追い抜かれていく。休まず進もうと、石ころに足を取られ転び、時間だけが過ぎていく。そうしていつしか疲れ、動く力も失い、目標すら見失い、途上で地面に倒れ伏す。

 想像して、背筋がざわりとした。どうしようもなく頼りない気持ちになって、知らず両肩を抱いた。

 だからこそ目の前の彼女にはどうにか元気になってもらいたかった。この不安を拭い去ってくれるように。


「おばあさん……、何かつくってみませんか?」


 夕良の言葉におばあさんはあっけにとられたような顔をした。隣の穂高も、厨房の睦実も不思議そうに夕良を見る。

「ほら迷ったときはとりあえず手を動かせって言うじゃないですか。とりあえず厨房に立ってみて、何か初めてみてはどうですか」

 きっとこのままつくった料理をテーブルに出すだけでは、おばあさんは自分が何を食べたいかなんて永遠にわからないだろう。それならやり方を変えなければならない。

 おばあさんはひどく戸惑った顔をしていた。これは今日、来店してから見たことのない表情だ。

「何かって言っても、あたしは料理はそれほどうまくなくて……最近は台所に立つのもつらくてスーパーのお惣菜ばかりで」

 視線を彷徨わせる。だが明らかにその目には光が生まれ始めていた。

 二人もそのことに気がついたのだろう。

「俺が教える。ちょっとやってみろよ」

と睦実が厨房から顔を出す。

 穂高もおばあさんの肩をそっと叩き、

「エプロン貸しますよ」

と微笑んだ。


 

「で、何をつくる?」

 一度綺麗に片付けられた調理台の前に、「喫茶ほむ」・料理担当の睦実と借りたエプロンを端折って身につけたおばあさんが立つ。二人も入ればいっぱいの厨房なので、夕良と穂高はカフェ窓から覗き込んでいる格好だ。

「……」

 おばあさんは固まっている。緊張しているらしい。店のドアを力いっぱい叩いていたときとは大違いだ。

「睦実、材料は何があるんだい?」

 穂高が話を進めるべく声を掛ける。こういうときの「喫茶ほむ」・接客担当である。つっけんどんな睦実と一対一ではおばあさんをいよいよ緊張させてしまうので、穂高がいちいち彼の物言いをマイルドに変換して伝えたり、適切で朗らかな合いの手を入れるのが肝要なのだ。

「ご飯がまだジャーに少し残ってる。卵が仕入れたばかりだから結構あるな。あと鶏肉とタマネギと……」

 冷蔵庫を開けながら睦実が答える。穂高はふむふむ、と顎をさすり今度はおばあさんの方に水を向ける。

「それではお客さま……いや、もうお客さまじゃないですね。名前を教えてもらえますか?」

「名前……私のかい?」

「そう、あなたのです」

 大仰に肩を震わせるおばあさんに、安心させるように穂高が微笑みかける。

「みち、だけど」

「みちさんですね。みちさん、何をつくりたいですか?」

 みちおばあさんはしばし視線を中空に彷徨わせ、何度か口を開いたり閉じたりしたあと、

「オムライス……」

と蚊の鳴くような声で言った。

「オムライス?」

 三人して聞き返す。

 一気に視線が集まり、みちおばあさんはなぜか恥ずかしいらしく逆に怒ったような「ああ、オムライスだよ!」と怒鳴った。

「子供っぽいと思うだろうけどね。初めて見たときはこんな料理があるなんて信じられなかった。

 まずご飯が赤いっていうのに驚いたし、その上に皺一つない卵が薄く被さっていて、完璧な半月の上に掛かったこれまた赤いソースが鮮やかで……見ているだけでドキドキする。いつも不思議だったんだ。どうして食べ物であんな綺麗な形をつくれるんだろうって。

 だから、ああいうものが自分の手でつくれたらって思って……」

 最後は再び声が小さくなっていく。だから夕良は、きっとこれはみちおばあさんの今まで心に仕舞っていた宝物のような思いなのだろうと気がついた。

「ああ、すごいですよね。私、オムライスってうまくつくれたこと無いです」

 いつも卵が破れたり焦げたりするんですよねーと同意を示すと、みちおばあさんは心なしかほっとしたような顔を見せた。

「夕良もこれから特訓が必要だね。うちは喫茶店なんだから」

 苦笑する穂高に、

「お前も人のことは言えないからなー……でも、まあこれで決まりだな」

と冷静に睦実が突っ込む。その手はボウルやフライパンなど必要な道具を取り出し始めている。

 こうして深夜のオムライス教室が始まった。


 

「はい、じゃこれ」

 睦実が差し出したのは包丁とタマネギだった。

「じゃあこれって」

「みじん切りしろ。やり方くらいわかるだろ」

 教えるというよりほぼ命令である。

 みちおばあさんは視線をうろうろと彷徨わせながら、

「あたしは正直タマネギのみじん切りはほとんどやらないんだ。切っていると目が痛くって……あれがどうしても我慢できないから、なるべく避けてきたんだ」

と白状した。どうやらやりたくないらしい。

「おい、手順の一番から逃げようとするんじゃない」

「うう」

 うめき声を上げるものの調理台の前に立ち、包丁を手に取る。半分に切ったタマネギの根元を少し残して幾重にも切り込みを入れていく。そこから細かい断片を切り出し始めたところで、

「うう……やっぱり痛い」

目を押さえた。

「仕方ないな。夕良、半分手伝ってやってくれ」

「はーい」

 夕良も手を洗い、みちおばあさんの隣にまな板を並べる。

 程なく彼女も両目を襲う刺激に音を上げた。睦実は狭いので一度厨房から出てキッチン窓の外から腕を組んで監督していたのだが、そちらに向かってぴっと挙手する。

「せんせい、涙が出ない方法って無いですか?」

「あっても知らん。どうせ大人になったらそうそう泣いている暇も無いんだから、この機会にしっかり泣いとけ。涙の数だけ強くなれるんだろ」

 睦実先生は根性論である。穂高も、

「強くなるの意味がちょっと違うんじゃないかな」

と言いながら見守るばかりなのであった。

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