第3話 深夜の来客とうさぎとかめ(2)
「もしもし」
「もし、もーし」
「もしもしもしもし、もしも――――――――――――――しっ!!」
かめよ、かめさんよ?
非常ベルのような大声に、夕良は反射的に身を起こした。
有名な童謡の続きが口をついて出るが、おそらくそういう「もしもし」ではない。それくらいは半覚醒状態の頭でもわかる。
「もしもーし!誰かいませんかーぁ!?」
声から察するに女性だ。それもおそらく年齢が高め。
呼び声と共に、どんどんという音がしてくる。一階の喫茶店のドアを叩いているのだろう。間違いなく「CLOSED」の札を掛けていたはずだが。
あまりの騒がしさにうめき声が漏れる。先程まで見ていたうさぎとかめの夢が唐突な鶏の鬨の声で中断されたのは、間違いなくこの呼び声のせいだ。
何にせよこのままにしておくわけにもいかない。ふらふらと温かなベッドを出て、部屋のドアを開ける。すると穂高と睦実も同じように自室のドアを開けたところだった。
三人、揃いも揃って寝ぼけ眼のパジャマ姿である。
「おはよ……」
「おはようじゃない。まだ二時だ」
とりあえず挨拶をしてみたが、睦実が不機嫌な声で応える。
「えーと、昼間ではなく?」
「深夜二時だね」
穂高が欠伸をしながら言う。
ちなみに窓の外は気持ちが良いくらいの青空だ。時計を見なければ今が昼なのか夜なのかもわからないのが、さかみち商店街の通常運行である。
「……」
思わず押し黙った夕良をよそに、階下からは相変わらず、
「もしもーし、開けてくださーいっ」
という声が響いている。
「……あれはお客さん?」
「だろうね、残念ながら」
「うちは九時開店、二十時閉店なんだがな」
三人は重たい足取りで階段を降りていく。全員、寝起きで非常に機嫌が悪い。
「どうするの?」
という夕良の問いに、
「とりあえずは丁寧に説明してお引き取り願うしかないかな」
と、温和な穂高でさえきっぱりお断りの方向だ。ちなみに語尾の方は欠伸へと変わっていき、ほとんど音になっていなかった。とにかく眠いらしい。
「無視したいところだが、このまま放っておいたら近所迷惑だ」
と睦実がむすっとした顔で答える。こちらも眼がほとんど開いていない。目つきがすごいことになっている。
「そうですね……」
聞いておいて、夕良の返事もおざなりだった。彼女もまた、さっさとトラブルを解決して温かいベッドに戻ることだけを考えていたのだった。
「もうっ、どうして開いてないの」
ドアを開けた途端転がり込んできたのは、小柄な老婆だった。
パーマをあてた灰色の髪に、なんだかうるさい柄をしたゆるいワンピース。杖をつき九十度近く腰を曲げているので、さらに小さく見える。どこにでもいそうなおばあさんだ。
「大変申し訳ないのですが、営業時間外だからですよ」
「今は昼間じゃない」
「それが今は真夜中なんです」
「はあ?よくわかんないことを言うわねぇ。これだから若者は」
よくわからないのは、まあ確かだ。夕良は内心同意した。だがここで押し負けるわけにもいかない。
「本当に夜なんですよ」
その証拠にほら、と店に掛かっているアナログの時計ではなく、わざわざ居間からデジタルの置き時計を持ってきて示す。
「ううん?よく見えないわねぇ。読み上げてちょうだい」
ちゃんと見ようとしたのはわずか〇.五秒だった。おばあちゃん……と心の中で呻きながら、夕良は渋々答える。
「……二時、十五分です」
「ううん?よく聞こえないわねぇ。とりあえず座らせてちょうだい。あんなに声を出して喉が渇いたわ。お冷やは?」
おばあちゃん……本当におばあちゃん……!夕良は折れた。
「……それでは席に案内します」
夕良がそう言う前に、老婆はさっさとテーブルに目星を付けて店内を歩き始めていた。近くにいた穂高が慌ててテーブルに上げていた椅子を下ろす。彼女はそこに当然のように座ったのだった。
三人は一旦厨房に引っ込んだ。
「結局入店させちゃったけど……」
キッチン窓から件のテーブルを窺う。老婆はふかふかのソファに身を預け、水の入ったグラスをごくごくと飲んでいる。羨ましいほどの寛ぎっぷりだ。
ちなみに窓際の席ではこの時間にも関わらず、ロマンスグレーの髪の紳士がコーヒーを啜っていた。昨日、店を閉める前に見たのと全く同じ光景だ。
彼は店が開いていようが閉まっていようが、ずっと同じ席に同じ姿勢で、新聞をめくりコーヒーを飲んでいる。彼のことを穂高も睦実も気にする様子はない。夕良も初めこそ戸惑ったが、今ではそういうものと受け容れている。
「これはもう何かお腹に入れないと納得しない流れだね」
と穂高。一応のけじめとしてカフェエプロンを腰に巻いているが、パジャマの上なので締まらない。
「もうコーヒーでもパンケーキでも好きなもの飲み食いして、とっとと帰ってもらおうぜ」
睦実もとりあえずドリッパーの用意をし始める。
とにかくこの深夜のお客に満足して帰ってもらうほかない。そして一刻も早く寝室に戻るのだ。でなければ睡眠不足で今日一日の営業が回らなくなってしまう。
三人はそう結論し、動き出した。
「ご注文はお決まりになりましたか」
夕良が眠くて表情筋が動かない顔にどうにか笑みを浮かべて、おばあさんに話しかける。
「うーん……」
おばあさんが口をもごもごさせる。
「ブレンドコーヒーはお薦めですよ。「喫茶ほむ」のオリジナルブレンドなんです」
「うむむむ」
穂高も重ねて話しかけるが、腕を組んで唸るばかりだ。
「それともお食事にされますか」
「そうそう。何か食べたいと思ってお店に入ったんだよ」
そこでようやく意味のある言葉が出てくる。これはと思い、メニューのページをめくって見せる。
「食事のメニューはこちらのページにありますが、何にいたしましょうか」
だが、
「それが何を食べたいかわからないんだよねぇ」
ときた。
何か食べたいと思っていたことは覚えているんだけど、と首をかしげるものだから、夕良と穂高はもちろん厨房で聞き耳を立てていた睦実も倒れそうになった。
おばあちゃん。いよいよおばあちゃんである。
(これは長引きそうだ!!)
全員の心の声が一致した。
「そ、それならとりあえずコーヒーを一杯飲んで落ち着いて考えてみましょうか。何かお腹に入れたいと言うなら、甘い物……ケーキはいかがですか」
「そうだねぇ。ケーキは何があるんだい」
悪くない感触だ。夕良がメニューのケーキのページを開いて説明する。
「ショートケーキ、チーズケーキ、ティラミス、それとアップルパイがございます」
「その中だったらショートケーキが良いね」
「承知しました。睦実、ブレンドコーヒーとショートケーキよろしく」
穂高の呼びかけに、キッチンの睦実が沸騰するポットを取り上げながら「わかった!」と勢いよく応えた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーとショートケーキです」
夕良が注文の品をテーブルに並べると、おばあさんは目を輝かせた。フォークを手に取り、ショートケーキの先っぽを切り取って一口。
「うん、おいしい」
心から出たと思われる言葉に、夕良は内心ガッツポーズを取る。
「ありがとうございます。私もここのケーキの中ではショートケーキが一番好きです」
これで満足して帰ってもらえるかもしれない。そう思って幾分饒舌になった夕良だったが、
「あんたはその歳でいろいろ食べてるんだね」
と、突如おばあさんの声は冷ややかなものになった。
「今の子は皆贅沢なもんだ。あたしが若い頃はこんなもの食べられなかった。父が戦争で死んで、貧乏でねぇ。母が女手一つで育ててくれたが、あたし達きょうだいはいっつもお腹を空かせてた」
心なしかおばあさんの顔に皺がさらに増えたように見える。夕良はその態度の変化に戸惑い、「く、苦労されたんですね」という月並みな反応をするしかなかった。
「本当にそうさ。苦労しかなかった。ところでこれはこの店の手作りなのかい?」
「いいえ。向かいにある菓子店から仕入れています」
急な話題転換に応じたのは穂高だ。「喫茶ほむ」では軽食は厨房でつくっているが、ケーキ等スイーツの類いはその道の専門店から仕入れている。
「なんだ。手作りじゃないのかい」
「すいません。で、でもあそこの菓子店はどれも美味しいんですよ」
「そうかい……ごちそうさま」
おばあさんはコーヒーとケーキを綺麗に食べ終えると、その場で無言のまま動かなくなった。
何やら彼女の気に障ることがあったらしい。それが具体的に何かわからず、人当たりの良い穂高が対応に困っている。
「……」
「……あの」
うつむいてしばらく沈黙しているおばあさんに、夕良が声をかける。おばあさんは顔を上げて夕良を見ていたが、その目はぼんやりしていた。
そして、
「ううん……何を食べようと思っていたんだっけ」
「……ケーキはお召し上がりになられましたよね?」
夕良の目が点になった。
「あれ、そうだっけ?……そうか。うーん、でもそうじゃないんだ。何か違うんだ。あたしは何を食べたいんだっけ」
おばあさんは真剣に首を捻っている。夕良と穂高は顔を見合わせた。
(どうしようか。ケーキは駄目だったみたいだ)
(さっき手作りにこだわっていたよね。何かうちで料理したものを出した方が良いのかも)
ふたりはそうひそひそと話し合うと、
「それでは軽食などいかがですか?トーストやサンドイッチなどならすぐにご用意できますが」
と、軽食のページを開いて見せた。
深夜であり先にケーキを一個食べているから、なるべく食事の中でも軽めのものを勧めてみる。決して手軽に用意してさっさと帰ってもらおうという魂胆ではない。
「……ふむ。それならベーコンチーズホットサンドってのを食べてみようかな」
「承知しました……睦実!」
「了解!」
睦実が応じる。既に食パンを袋から取り出し始めていた。
「お待たせしました。ベーコンチーズホットサンドです」
斜めに切られた、ほかほかのサンドイッチが載ったプレートを前にして、おばあさんは目を瞬かせた。
「へぇ、こういうのなんだ」
「ホットサンドは初めてですか?」
「ああ。普通のサンドイッチしか食べたことない」
そう言いながら、慎重に両手でパンを取り上げかぶりつく。
「温かいものはやっぱり良いね。チーズがとろとろで美味しいよ」
今度こそ良い感じではないか。おばあさんはぱくぱくと勢いよくプレートの上のサンドイッチを全てたいらげた。
「そもそも喫茶店で食事なんて一回しかしたことない。
二十歳の時のデートの時だっけ。あの頃勤めていた会社の隣の部署の……そう、確か名前は田中さんだった。キリッとした男前でね。誘われたときは嬉しかったな。サンドイッチを片手にたくさんお喋りして。本当、馬鹿みたいに楽しかった」
サンドイッチはどうやらおばあさんの古い記憶をよみがえらせたらしい。彼女の目はここではないどこか遠くを見ているようだった。
「……でもそれっきり。『君の話は暗いことばかり。一緒にいて気分が滅入ってくる』って。
仕方がないじゃないか。父さんが死んで、お金がなくて、お母さんも若い頃の苦労がたたって病気がちになって、弟も私や母さんが必死で働いて大学に入れてやっているのに、悪い友達とつるんでろくに勉強もしていない。これが暗くならずにいられるかっていうんだ。
楽しく話していたと思ったら、後からそんなことを言うわけさ。おかげでそれ以降は男と付き合うのが随分恐ろしくなったよ。笑っていながら、腹の中ではあたしのこと嘲笑ってんだろって」
おばあさんは深いため息をついた。
「あたしだって好きで暗くなったわけじゃないんだ……」
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