第84話 理想の主人

 五年前。


 縄張り争いがいかに熾烈しれつであるかを学ぶため、親愛なる姉に連れられる形で、紅蘭こうらんはとある山間部さんかんぶを訪れた。供には禁軍きんぐんと呼ばれる龍皇直轄ちょっかつの精鋭部隊が付き、十分に安全が確保された物見遊山ものみゆさん的な旅路だったと思う。


 深い谷間で起こった血みどろの殺し合いは、まだ十歳である紅蘭こうらんには刺激的であった。しばらく夢にうなされるほどに凄惨せいさん鮮烈せんれつだったと記憶している。


 黒煙を上げる生々しい殺し合いの続く戦場。大盾を構えた前衛が横一列にズラリと並び、盾と盾の隙間から掌を銃口のように突き出すのは、ペアを組む吐息ブレス部隊である。攻守兼用の陣形をいて、双方の陣営は派手に吐息ブレスをぶっ放す。

 戦場を交差する大質量の属性エネルギー。それはさながら大砲の打ち合いだ。


 まだ戦いは始まったばかり。姉から教えられた定石じょうせきによれば、ここから魔術による陣形崩しが入り、その隙を突いて抜剣ばっけん部隊が相手の懐へ斬りこむ手筈てはずとなっている。


 そんな光景を崖上から見下ろし、姉が言った。


「これから数日以内に決着はつくだろう。この意味がわかるか?」


 幼い紅蘭こうらんはふるふると首を横へ振った。


「勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失う。敗北した群れは、これから悲惨な末路を辿ることになるだろう」

「敗者に人権はない……んですよね」

「そうだ。隷属れいぞく化され、酷使こくしされることになる。優秀な人材は姫位きいに昇格できるが、そうでない者は一生奴隷として過ごすのだ」


 母と共にはぐれとして各地を転々と渡り歩いた経験のある紅蘭こうらんは、複雑な心境で頷いた。隷属化を免れたとしても、待っているのは変わらぬ地獄。どちらにせよ、群れが崩壊した時点であの者たちに未来はない。


 眼下に広がる戦火を遠目に眺め、よわい十にして浮世離れした美貌を持つ姉が言う。


「私は思うのだ。これは戦争だから命を落とすのは致し方あるまい。責任ある立場である主人や六妃が処刑されるのも、やむを得ないのだろう。だが、そうでない者たちまで一律で隷属化するというのは、いささか乱暴すぎはしないだろうか」

「しかし、お姉様。拾って貰った身のあたしが言うのも何ですが、それが龍人社会なのではないでしょうか」


 そこで黒陽は、物憂ものうげな視線を紅蘭こうらんへ向けた。


「力ある龍人の義務を覚えているか?」

「はい、お姉様。優秀な男は多くの女を養い守らなければならない。そして優秀な女は率先して先陣に立ち、皆を導かなければならない――と、教わりました」

「そうだ。だが、この養う対象、守る対象には奴隷は含まれていない。なぜだ?」

「それは……敵対した憎き仇という認識があるからではないでしょうか」

「うむ。無論それもあるだろう。だが本質は、自分たちの労働力を確保できるという利害によるところが大きい。責任を取らせるだけならば、首謀者を処刑すれば事は足りるはずなのだ。特に、何の罪もない子供まで隷属化する大義などあるはずもない」


 龍皇陛下の群れに奴隷はほとんど存在しない。なぜなら、忠誠ちゅうせいを誓うのであれば能力の高低に関わらず、必ず姫位を与えられるからだ。そして姫位となった者は、龍皇の手厚い保護対象となる。はぐれに対する措置も同様だ。その来る者拒まずの姿勢が、十万という桁外れの規模にまで群れを発展せしめた。


 帝王学を叩き込まれた黒陽は、その先進的な思想を色濃く継承けいしょうしていた。


「私の考える力ある龍人の義務はな、紅蘭こうらん。弱き者に温情を与え、その者をいつくしみ守ってやることが本質なのだ。相手の身分に関係なく、困っている者がいたら手を差し伸べ助けてやる。そんな父上のような度量を持つ男に、いつか出会ってみたいものだな」




 ◇◇◇◇◇


「あんたの辿り着いたその結論こそが、お姉様のいう『力ある龍人の義務』そのものなのよ」


 回想を終えて、紅蘭こうらんは結論を述べた。


「あんたは強い。だからお姉様は惚れた。ずっとそう思っていたわ」

「実際、そうだろ? あいつは俺の《剣気》に一目惚れしたって言ってたぞ」


 紅蘭こうらんは慎重に目の前の男を吟味ぎんみする。

 龍人族の例に漏れず、容姿はそこそこ良い。けれど、取り立てて良いというほどではなく、誰にもなびかなかった黒陽公主が惚れる理由にはなり得ない。すると必然、強い男に惹かれるという龍人女子の特性が関わってくる訳だが。


「それは一つの側面に過ぎないのよ。きっかけは確かに、一目惚れにあったのかもしれない。でも、あんたに心底惚れこむ理由は別にもあったんじゃないかしら」


 凡庸ぼんような少年が困ったように眉を寄せている。

 紅蘭こうらんは持論を述べた。


「お姉様は、力ある龍人の義務に強いこだわりを持っているわ。でもあんたの前でそれを口にしているところを、あたしは一度も見たことがない。学園長お母様の前で群れを作らないと宣言した時もそうよ。群れを作らないなんて腑抜ふぬけたことを言うあんたに、お姉様は不服な顔をしただけだった。今までのお姉様だったら、もっと激しく意見をぶつけにいってもおかしくはない状況だったのにね」


 実際、弱き者(奴隷)を虐げようとする蒼雪そうせつなどには、物凄い剣幕けんまくで詰め寄っていた。いくら惚れたからと言って、姉はおのが信念を曲げるような人だったろうか。それが紅蘭こうらんの違和感だ。


 記憶を探るようにして麒翔きしょうが口を開く。


「ああ、言われてみれば覚えがある。あいつが下院へ見学に来た時だった。昇降口で力ある龍人の義務について力説されたよ」

「でしょうね。それが本来のお姉様の姿なのよ」

「だけど、決闘で勝利してからは一切文句をつけられてないぞ。もし口うるさく言われていたら、俺はきっとうんざりしていたと思う」


 一瞬、惚れた弱みという言葉が紅蘭こうらんの脳裏を過った。

 しかし、すぐにその愚かな考えを打ち消すようにかぶりを振り、


「主人の意向に従うのが妻の美徳びとくだわ。でも、間違っていると判断したなら、お姉様はきっととなえたはず。これはさっき、あんたの言っていた通りなのよ。だから自分の信念に反するあんたの軟弱なんじゃくな姿勢をとがめないのは、やっぱり不自然だわ」


 ではなぜ、信念に反する行為を黙認したのか?


「これはあたしの直感だけど、あんたがこの決断を下すことをお姉様はわかっていたんじゃないかしら。だから口を挟まなかった」

「わかっていたってどうやって。確かにあいつは賢い自慢の嫁だけど、エスパーじゃないんだぞ。俺の心変わりをどうやって予見よけんしたって言うんだ」

「それはあたしにはわからない。だからよく思い出してみて。お姉様が変わるきっかけがいつだったのかを。そしてその時、何があったのかを」

「いつってそりゃ、決闘の夜だろうな。何があったかは明白で俺が勝利した」

「他には?」


 問われ、麒翔きしょうは記憶を掘り起こすように額へ指をあてた。

 そうしてしばらく熟考したのち、ハッとしたように顔を上げ、


「ああ、そうか。俺はとんでもないことを言ったのかもしれないな」

「何を言ったのよ」

「駆け落ちを提案した。人間の街で暮らそうって」

「はぁ!?」


 龍人は、自分たちの縄張りを持つことを誇りとしている。人間の領土で暮らすとはすなわち、その誇りを放棄するということ。文字通りすべてを捨てる決断である。それを姉に強いたことに紅蘭こうらんは強い反発を覚えた。


 全身からにじみ出た怒りの殺気に、麒翔きしょうが椅子の背もたれを起点にバク転して距離を取った。そして彼は言った。「あいつは政略結婚に悩んでいた」と。


「思い悩むあいつに、俺は言ったんだ。公主という地位を捨てる覚悟があるなら、そして人間として生きて行く決意を持てるというのなら、俺が一緒に付いて行ってもいい。人間の街で暮らすのが不安なら、俺が一緒に暮らしてやるって」


 紅蘭こうらんの全身から怒気が四散して消えてゆく。消え入るような声で紅蘭こうらんは呟いた。


「……政略結婚が嫌だなんて、お姉様は一度も口にしたことがないわ」

「立場的に、おまえには言えなかったんじゃないのか」

「だからって駆け落ちを提案するなんて。あんたって本当に非常識ね」

「ああ、俺は無知だからな。でも、あいつは笑ってたぜ。腹を抱えてな」


 感情の起伏きふくの少ない姉は滅多なことでは笑わない。

 十年連れ添った紅蘭こうらんでさえ、お腹を抱えて笑っている姿など一度も見たことがなかった。


「嘘よ。お姉様がお腹を抱えて笑っているところなんて、今まで一度も見たことがないわ」

「嘘じゃねえよ。あんなに笑っている姿は、俺だってあれ以来見ていない。だけどあの夜、確かにあいつは笑っていたんだ。心底楽しそうにな」


 この十年間。姉に心を開いて貰おうと、紅蘭こうらんも色々と手を尽くしてはみた。

 しかし、一生懸命興味を引こうとしても、暖簾のれんに腕押し。姉の顔は常に一定で、まるで無機物のように感情が欠落しているように見えた。そしてそれは誰に対しても同じで、紅蘭こうらんが特別嫌われているとかそういう悲しい理由ではなかった。


 その固く閉ざされたからを、誰も開くことのできなかった心の岩戸いわとを、この男が開いてみせたとでもいうのだろうか。


 にわかには信じ難いが、そう考えれば全ての辻褄つじつまは合う。

 胸の内でくすぶる嫉妬の炎を、紅蘭こうらんは深呼吸を挟むことで打ち消した。


「そういうことね。ようやく理解できたわ。政略結婚に悩むお姉様に対して、あんたは手を差し伸べていたのね。それも損得勘定そんとくかんじょう抜きで、全てを捨てる覚悟で寄り添ってみせた。本当に底なしのお人好しすぎて笑っちゃうけど……でもね、お姉様はあんたの優しさに自分の理想を見たんだと思うわ」


 姉の理想とする「力ある龍人の義務」は、身分の高低に関わらず弱き者を救済することにその真髄しんずいがある。ならば、決闘の勝者である彼が、敗者である姉に手を差し伸べる構図は、まさに彼女の理想そのものではなかろうか。しかも平民であるはずの彼が、公主である姉に対してである。まさに身分の高低を問わない、力ある龍人の義務――その真髄を満たしている。

 だからこそ姉は、より一層心酔しんすいしたのだ。


「一目惚れした相手が、自分の理想を叶えてくれる男だったとしたら。お姉様は楽しくて仕方がなかったんじゃないかしら。運命を感じたりしたかもね」


 だから姉は、麒翔きしょうの持つ群れに対する軟弱なんじゃくな認識を正そうとしなかった。


「確信していたのよ。お人好しのあんたなら、龍人社会の厳しい現実を目の当たりにして、見て見ぬ振りはできないってね。そしてその時は、必ず立ち上がると信じていた。せるまでもなく、遅かれ早かれこの決断をすると予見していたからこそ、何も言わなかったのよ」


 その信頼の厚さに紅蘭こうらんは嫉妬を覚えずにはいられない。

 けれど、同時に祝福の気持ちが湧きあがってきたのも確かだ。


 心酔しんすいできるほどの主人に出会えることはまれである。ましてや自分よりも強い男を探すだけでも苦労した姉のこと。二つの条件を同時に満たせる男など、他にどこを探したって見つかりはしないだろう。


 奥歯をギリッと噛み締め、紅蘭こうらんは白旗を上げた。


「あんたこそが、お姉様の理想の主人なんだと思うわ」

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