第84話 理想の主人
五年前。
縄張り争いがいかに
深い谷間で起こった血みどろの殺し合いは、まだ十歳である
黒煙を上げる生々しい殺し合いの続く戦場。大盾を構えた前衛が横一列にズラリと並び、盾と盾の隙間から掌を銃口のように突き出すのは、ペアを組む
戦場を交差する大質量の属性エネルギー。それはさながら大砲の打ち合いだ。
まだ戦いは始まったばかり。姉から教えられた
そんな光景を崖上から見下ろし、姉が言った。
「これから数日以内に決着はつくだろう。この意味がわかるか?」
幼い
「勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失う。敗北した群れは、これから悲惨な末路を辿ることになるだろう」
「敗者に人権はない……んですよね」
「そうだ。
母と共にはぐれとして各地を転々と渡り歩いた経験のある
眼下に広がる戦火を遠目に眺め、
「私は思うのだ。これは戦争だから命を落とすのは致し方あるまい。責任ある立場である主人や六妃が処刑されるのも、やむを得ないのだろう。だが、そうでない者たちまで一律で隷属化するというのは、
「しかし、お姉様。拾って貰った身のあたしが言うのも何ですが、それが龍人社会なのではないでしょうか」
そこで黒陽は、
「力ある龍人の義務を覚えているか?」
「はい、お姉様。優秀な男は多くの女を養い守らなければならない。そして優秀な女は率先して先陣に立ち、皆を導かなければならない――と、教わりました」
「そうだ。だが、この養う対象、守る対象には奴隷は含まれていない。なぜだ?」
「それは……敵対した憎き仇という認識があるからではないでしょうか」
「うむ。無論それもあるだろう。だが本質は、自分たちの労働力を確保できるという利害によるところが大きい。責任を取らせるだけならば、首謀者を処刑すれば事は足りるはずなのだ。特に、何の罪もない子供まで隷属化する大義などあるはずもない」
龍皇陛下の群れに奴隷はほとんど存在しない。なぜなら、
帝王学を叩き込まれた黒陽は、その先進的な思想を色濃く
「私の考える力ある龍人の義務はな、
◇◇◇◇◇
「あんたの辿り着いたその結論こそが、お姉様のいう『力ある龍人の義務』そのものなのよ」
回想を終えて、
「あんたは強い。だからお姉様は惚れた。ずっとそう思っていたわ」
「実際、そうだろ? あいつは俺の《剣気》に一目惚れしたって言ってたぞ」
龍人族の例に漏れず、容姿はそこそこ良い。けれど、取り立てて良いというほどではなく、誰にも
「それは一つの側面に過ぎないのよ。きっかけは確かに、一目惚れにあったのかもしれない。でも、あんたに心底惚れこむ理由は別にもあったんじゃないかしら」
「お姉様は、力ある龍人の義務に強いこだわりを持っているわ。でもあんたの前でそれを口にしているところを、あたしは一度も見たことがない。
実際、弱き者(奴隷)を虐げようとする
記憶を探るようにして
「ああ、言われてみれば覚えがある。あいつが下院へ見学に来た時だった。昇降口で力ある龍人の義務について力説されたよ」
「でしょうね。それが本来のお姉様の姿なのよ」
「だけど、決闘で勝利してからは一切文句をつけられてないぞ。もし口うるさく言われていたら、俺はきっとうんざりしていたと思う」
一瞬、惚れた弱みという言葉が
しかし、すぐにその愚かな考えを打ち消すようにかぶりを振り、
「主人の意向に従うのが妻の
ではなぜ、信念に反する行為を黙認したのか?
「これはあたしの直感だけど、あんたがこの決断を下すことをお姉様はわかっていたんじゃないかしら。だから口を挟まなかった」
「わかっていたってどうやって。確かにあいつは賢い自慢の嫁だけど、エスパーじゃないんだぞ。俺の心変わりをどうやって
「それはあたしにはわからない。だからよく思い出してみて。お姉様が変わるきっかけがいつだったのかを。そしてその時、何があったのかを」
「いつってそりゃ、決闘の夜だろうな。何があったかは明白で俺が勝利した」
「他には?」
問われ、
そうしてしばらく熟考したのち、ハッとしたように顔を上げ、
「ああ、そうか。俺はとんでもないことを言ったのかもしれないな」
「何を言ったのよ」
「駆け落ちを提案した。人間の街で暮らそうって」
「はぁ!?」
龍人は、自分たちの縄張りを持つことを誇りとしている。人間の領土で暮らすとはすなわち、その誇りを放棄するということ。文字通りすべてを捨てる決断である。それを姉に強いたことに
全身から
「思い悩むあいつに、俺は言ったんだ。公主という地位を捨てる覚悟があるなら、そして人間として生きて行く決意を持てるというのなら、俺が一緒に付いて行ってもいい。人間の街で暮らすのが不安なら、俺が一緒に暮らしてやるって」
「……政略結婚が嫌だなんて、お姉様は一度も口にしたことがないわ」
「立場的に、おまえには言えなかったんじゃないのか」
「だからって駆け落ちを提案するなんて。あんたって本当に非常識ね」
「ああ、俺は無知だからな。でも、あいつは笑ってたぜ。腹を抱えてな」
感情の
十年連れ添った
「嘘よ。お姉様がお腹を抱えて笑っているところなんて、今まで一度も見たことがないわ」
「嘘じゃねえよ。あんなに笑っている姿は、俺だってあれ以来見ていない。だけどあの夜、確かにあいつは笑っていたんだ。心底楽しそうにな」
この十年間。姉に心を開いて貰おうと、
しかし、一生懸命興味を引こうとしても、
その固く閉ざされた
にわかには信じ難いが、そう考えれば全ての
胸の内で
「そういうことね。ようやく理解できたわ。政略結婚に悩むお姉様に対して、あんたは手を差し伸べていたのね。それも
姉の理想とする「力ある龍人の義務」は、身分の高低に関わらず弱き者を救済することにその
だからこそ姉は、より一層
「一目惚れした相手が、自分の理想を叶えてくれる男だったとしたら。お姉様は楽しくて仕方がなかったんじゃないかしら。運命を感じたりしたかもね」
だから姉は、
「確信していたのよ。お人好しのあんたなら、龍人社会の厳しい現実を目の当たりにして、見て見ぬ振りはできないってね。そしてその時は、必ず立ち上がると信じていた。
その信頼の厚さに
けれど、同時に祝福の気持ちが湧きあがってきたのも確かだ。
奥歯をギリッと噛み締め、
「あんたこそが、お姉様の理想の主人なんだと思うわ」
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