第85話 因縁の再会

 早朝のダイニングでは、月乃つきの暖炉だんろまきをくべている。

 彼女の用意してくれたベーコンエッグとレタスをパンに挟んで、麒翔きしょうは大口を開けてかぶりついた。

 早朝のこの時刻、室内の温度はすっかり冷え切ってしまっていて、肌を刺すように冷たい。窓の外を見れば、小雨がぽつぽつと降り始めていた。


「すみませんです。月乃つきのとしたことが段取りが悪かったです」


 早朝の一番冷える時刻。冷気耐性の低い麒翔きしょうがブルブルと震えていたところ、月乃つきのが気を利かせて火を入れてくれたのだ。どうやら純血の龍人は、初冬の寒冷ぐらいでは暖炉に火は入れないものらしい。


「いやいや、そんな事気にしないでいいよ。寒かったら自分でやるからさ」

「そうはいきません。月乃つきのはお役に立ちたいんです」


 やる気満々にそう宣言する月乃つきの。ガッツポーズに握られた両拳の後ろでは、たわわな果実が大いに自己主張している。慌てて視線を上へ向けると、肩口で切り揃えた髪の毛が視界に入った。気まずげに視線を更に上げて、麒翔きしょうは軽い調子で言う。


「前髪も少し切った方がいいんじゃないかな。半分目に掛かってしまっているよ」

「ご主人様は短い方が好きですか?」

「いや、そういうんじゃなくてさ。目に悪いかと思って」

「でも、前髪を切ったら見たくないものまで見えちゃうです」


 自分に向けられる蔑むような視線。麒翔きしょうは下院での日々を思い出した。


「ごめん。迂闊うかつな一言だったな」

「いいえ、そんな事ないです。ただこうして視界を覆っておくと、嫌なものが見えにくくなるです。だから月乃つきのは――」


 おいで、と手招きして、おずおずと近づいてきた彼女の頭を撫でてやった。


「どうして月乃つきのは褒められたです?」

「今まで一人でよく頑張ったな。大丈夫。これからは俺も一緒だ」


 月乃つきのを引き取ることに不安がなかったわけではない。

 けれど、公主様と気持ちが繋がっているとわかった今、もはや不安は感じなかった。優秀な嫁と協力して事にあたれば、きっと月乃つきのを幸せにしてやれる。そう麒翔きしょうに確信させるだけの信頼と実績が、公主様にはある。


「だけど、無理に見ようとする必要はないからな。月乃つきのが安心して周りを見られるような環境が整ったら、その時はその可愛らしい目を見せてくれ」

「可愛いなんて言われたら……恥ずかしくてご主人様の顔が見れません」


 うつむき加減となった月乃つきのの前髪は、すべてを覆い隠して遮断する鉄壁てっぺきのカーテンだ。そんな全力ガードを敢行かんこうした月乃つきのの頭をポンポンと軽く叩いて、


「群れのルールは主人が決めていいらしい。だからこうしよう」


 人差し指を一本立てて、麒翔きしょうがニッと笑った。


「食事は群れのみんなで一緒に取ること」




 ◇◇◇◇◇


 二日目の今日。麒翔きしょうに言い渡された授業スケジュールは剣術の授業のみで、座学の授業は含まれていない。ゆえに朝食を済ませて以降は、時間的なゆとりが大いにあった。バチバチと暖炉でぜる薪を眺めながら、麒翔きしょうは食後の紅茶を楽しみ、月乃つきのと色々な話をした。


 話題はもっぱら、公主様と出会ってからの体験談が主だった。そうして話し込み時間が過ぎてゆき、そろそろ時間だということになったので、しっかり戸締りをして特別宿舎を出た。


 早朝から降り始めた小雨が街路を薄っすら濡らしている。

 吐き出す息は白く、宿舎の屋根まで昇っていく。

 本校舎への道すがら、月乃つきのが学園の説明をしてくれた。


「上院の必修科目は、全学年合同で行われるです。週に全部で三回あってその内のどれかに出席する形になります」

「それで昨日、吐息ブレスの授業で蒼雪そうせつを見なかったのか。同じ一年生なのにおかしいと思ったんだ」

「はい。ですから、ご主人様の噂はもう上院中に知れ渡っているかもしれません」

「それは好都合だな」


 口角を吊り上げた麒翔きしょうの顔は、えらく好戦的だ。

 来たる第二ラウンドへ備えて高ぶる戦意は、彼が紛れもなく龍人である証だった。守るべきものを背にした時に発揮される龍人の底力を、彼はまだ知らない。




 ◇◇◇◇◇


 昇降口。指定の下駄箱で内履うちばき用の草履ぞうりを引っ掛けた麒翔きしょうは、月乃つきのと連れ立って剣術の授業が行われる室内闘技場へ向かっていた。

 途中、小さな売店を見つけ、値段が良心的だったこともあり麒翔きしょうは購入を検討していた。そんな中、後ろで控える月乃つきのが「きゃっ」と短い悲鳴を発した。次いで「奴隷風情がぼさっと突っ立ってるんじゃないわよ」と怒声が響き、月乃つきのが「ごめんなさいです」と謝罪する声が聞こえた。手に取った温茶を商品棚へと戻し、


「うちの月乃つきのに何か文句あんのか、てめえ――」


 群れの仲間を守ろうとする龍人の本能。声を荒げて振り向き放ったその言葉は、予期せぬ衝撃によって途中でき消えた。二の句がげず、頬がひくりと引きるのがわかった。そして、信じられないものを見た――という顔をしているのは、先方も同じだった。


「な、なんであなたがここにいるのよ」


 震える声でツインテールの美少女が言った。かつては明るく生気に満ちていた顔は嫌悪に歪み、亡霊を見たかのように蒼白だ。快活かいかつに笑っていた彼女はもういない。


「お、俺は上院への仮入学が決まって……」


 胸が苦しく、頭がクラクラした。動悸どうきが激しくなり、まるで地面が波打っているかのような錯覚さっかくを受ける。平衡へいこう感覚が失われ、立っているのもやっとな状態。ふわふわとまるで夢を見ているかのようだ。

 それでも、麒翔きしょうは歯を食いしばって声を絞り出した。


四葉よつばの方こそ……どうして上院にいるんだよ」


 かつて愛を誓い合った少女は、苦虫にがむしを嚙み潰したような顔をした。婚約破棄を言い渡されたあの時と同じ顔。学園から姿を消したはずの元婚約者が今、目の前にいる。


「あなたとの関係を完全に絶つために、パパに頼んで推薦状を書いてもらったのよ。あのまま下院にいたら、どんな噂が立つかわかりませんからね」


 麒翔きしょうに深いトラウマを植え付けた少女は、腰に手を当てて傲然ごうぜんと言い放った。動揺の大きさでいえば両者五分だったが、立ち直りの速さは彼女の方が上だった。


「どうして……四葉おまえの成績はそこまで良くなかったはずだろ……」

「私のパパは偉い人なの。強めの抗議文を添えてふみを送れば、龍皇陛下でさえ無視できないほどにね」

「そこまでして……俺と距離を置きたかったのか」


 周囲に人影がないことを確認して、四葉よつばが声を潜めた。


「当然でしょ。私の汚点になるって言いましたよね」


 キッパリと断言する四葉よつば

 時間が解決してくれる――という言葉があるが、半年以上経った今でも四葉よつばの意見は変わらないようだった。

 麒翔きしょうとて、よりを戻したいとは思っていない。が、それでも和解したいという気持ちはあったのだ。その可能性が完全に絶たれていることを知り、力なくうなれた。


 そんな意気消沈いきしょうちんした姿を前にしても、四葉よつばはちっとも悪びれもせず、詰問きつもん口調でただしてくる。


「それより、あなたの方こそ何なのよ。上院への仮入学って……あなた剣術以外は、のうが無かったはずじゃない」


 胡散うさんくさげな蔑むような目を向けられる。下院では馴染なじみのその懐かしい感触に、麒翔きしょうは残念そうに首を振る。


「その剣術が認められて仮入学が決まったのさ」

「嘘つき。やっぱりあなた詐欺師ね。剣一本で上院に上がれるはずないじゃない」

四葉よつばだって、推薦状一枚で上がったんだろ?」

「はぁ? 嫌味のつもり? だいたい気安く呼び捨てにしてんじゃないわよ」


 二人の間に入った亀裂はかくも大きいものなのか。その修復不能な断裂の深さに、麒翔きしょうは大きく溜息をついた。


「入学当初は楽しかったよ。いい夢を見られたと思う」

「私にとっては思い出したくもない悪夢だけどね」

「ああ、俺にとってもそうさ。ずっと悪夢を見ているようだった。でもだからこそ、あいつと出会うことができたんだ。今では振って貰えて良かったとさえ思ってる。あのまま無理して一緒にいたら、俺たちは二人して不幸になっていただろうしな」

「ふんっ。捨てないでくれって泣きべそかいていた男が偉そうに! 一体どこの白馬のお姫様が迎えに来てくれたというのかしら」


 険悪になりつつある空気を感じ取った月乃つきのが、あわあわと両者を見比べる。

 白馬のお姫様という表現が可笑しくて、麒翔きしょうはくっくと笑った。皮肉を失笑で返された四葉よつばの顔が怒りで紅潮する。

 と、そこで月乃つきのが助けを求めるように大声を出した。


「あ、紅蘭こうらんさんです!」


 遠目からでもわかる長身と鋭い眼光。上院の絢爛けんらんな龍衣に身を包み、後ろで一つにまとめた黒髪を揺らす少女は、間違いなく紅蘭こうらんだ。広い廊下の中央を我が物顔で歩いてきた彼女は、麒翔きしょうの目の前で足を止めた。


「何やってるのよ。授業始まるわよ」

「ん、そうだな。月乃つきの、行こうか」

「はいです!」


 過去との決別を決意した麒翔きしょうは、紅蘭こうらん月乃つきのと連れ立ってその場をあとにしようとした。


「ちょっと待ちなさいよ!」


 背後からヒステリックな叫び声が追いかけてくる。


「まさか……まさか、あんたの新しい彼女って紅蘭こうらんさんじゃないわよね」

「そうよ」

「いや、ちげえよ!?」


 コンマ一秒も置かずに紅蘭こうらんが即答したので、すかさず麒翔きしょうはツッコんだ。


「そ、そうよね。紅蘭こうらんさんがこんな底辺を相手にするわけないものね」


 四葉よつばが何か呟いているが、麒翔きしょうの耳には入っていない。


「おい! 既成事実作戦はまだ続いていたのかよ」

「当たり前じゃない。お姉様を娶ったら、セットであたしもいてくるのよ。いい加減、諦めなさい」

「いやいや、あくどい抱き合わせ商法みたいな真似してんじゃねえよ!? てか、ついてくるの字違うからな、それ。完全に悪霊のノリじゃねえか」


 そこで紅蘭こうらんはなぜか得意げに「ふふん」と頷き、


「男は嫌いだけど、お姉様が愛するというのなら仕方がないわ。お姉様とキスできないのなら、あんたを介して間接的にキスすればいいのよ。ね? 名案でしょ?」

「全然、名案じゃねえよ!? しばらくぶりだなその狂人ムーブ」


 そこで紅蘭こうらんは両腕を抱くようにして全身を震わせた。


「あんたの唇を介して、今ここでお姉様と一つになりたい!」

「一つにならなくていいよ!? てか、仮に俺とキスしても黒陽とは一つになれねえだろ。それは気のせいってもんだ」

「いいのよ。気分の問題だから」

「よくねえよ!? 主に俺が!」


 ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てながら、一行が去ってゆく。

 その後ろ姿を呆然と眺めながら、四葉よつばはぺたんとその場に座り込んだ。


「嘘でしょ……紅蘭こうらんさんだけでなく、黒陽様までもがあの男を慕っているというの? 嘘よ。ありえない……ありえないわ。だってあの男は適性属性なしの半龍人なのよ。千年に一人の才女とまでうたわれたあの方が……上院の圧倒的カリスマが、あんな男を好きになるはずがない……あってはならない事態だわ」


 四葉よつばの呟きは、冷たい廊下に寒々と響いた。

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