第83話 夜更けの決意
夜風が肌を刺すように冷たい。吐き出した白い息が、夜の学園に馴染むように広がり消える。
居住地区には、学生寮、教師宿舎、特別宿舎、職員用宿舎が並んでいて、約八百人近い龍人が暮らしている。それぞれの宿舎は貴族の屋敷を思わせる外観をしており、学生寮からして大きさが下院とは桁違いである。
それは集合住宅というより、小さな街のようでもあった。
毎日欠かすことなく行われる夜の修練。
上院に転入したからといって、サボって良い道理はない。
修練に適した
とはいえ、敷地面積は下院の四倍。一通り見て回るだけでも一苦労だ。
消灯時間は過ぎている。上院に転入した初日から校則違反でしょっ引かれるわけにはいかない。人の気配を慎重に探りながら、
途中、消灯された無人の工場がいくつか確認できた。敷地には入らず、遠目に観察したところによると、おそらく織物工場だろうと思われる。学園内で制服を生産しているという話を、公主様から聞いたことがあった。
ぶらぶらと当てもなく
ショッピングモールへと繋がる道から、誰かが歩いてくる。街灯は等間隔にしっかり配されているので、視界は良好だ。
(もしかすると、ショッピングモールの一部店舗はまだ営業中なのか?)
ここまでの道中にも、居酒屋は数件あり、まだ明かりを灯して営業していた。とすれば、ショッピングモールも同様だと考えるのが自然。学園職員の暮らす上院は、夜半過ぎというこの時刻にあっても
(消灯後は誰も出歩かない下院とはえらい違いだな)
街路樹を背にした
長身の女性のようだった。街灯に照らされたのは赤と黒の龍衣。学生だと認識した瞬間、その人物の視覚情報が明瞭に入ってきた。背筋をピンと正し、規則正しい歩幅。背中で揺れる一本の黒髪。勝ち気なその顔を確認して、
「なんだよ。驚かすなよ」
木陰から身を
「こんなところで何やってんのよ」
「そりゃお互い様だろ」
「あたしはお母様に許可をもらっているわ」
「ぐっ、まじか」
同じ校則違反を犯した
「丁度いいわ。ちょっと付き合いなさいよ」
「言っとくけど、キスは駄目だぞ」
その軽口にいつもの漫才が返ってくるかと思いきや、
「大事な話があるの」
とだけ言った。
柵を飛び越え、無人のテラスへ降り立った彼女は、大胆にもテーブルの上へ腰かけた。一本足の丸テーブルはしっかり造られており、ぐらりとも揺れない。満天の星を見上げるようにして、彼女は言う。
「あたしの忠告を聞かなかったわね」
「ああ、悪かったな」
手近にあった椅子を引き寄せ、どかっと腰を下ろす。冬場の外気に晒された背もたれはひやりと冷たい。白い息を吐き、
「黒陽も反対すると思うか?」
「お姉様が、あんたの決定に異を唱えると思う?」
「いやさすがに、群れの不利益になるようなら異を唱えるんじゃないか」
初冬の冷たい風に身を震わせることもなく、
「一学期の間はね、
「――ん?
「では、ここで問題よ。一学期の間には上院にあって、二学期からはなくなったものってなーんだ?」
「なんだナゾナゾか?」
真紅の
真面目な問いなのだとわかり、
(一学期には上院に何かがあった。しかし、二学期にその何かは失われた。いや、違うか。この謎かけが奴隷への待遇の件と繋がっているのだとすれば、ターニングポイントは夏――夏季特別実習辺りになるはずだ。その頃に上院から失われた物)
あっ、と大きな声が出た。
夜闇に眠る木々たちが迷惑そうにざわめく。
「まさか黒陽か。俺を追って下院に転属してきた」
「正解よ。お姉様が上院にいる間は、圧倒的な実力とカリスマで奴隷を虐げることを許さなかった。弱き者を虐げるとは、それでも貴族の令息なのかってね。
公主様と出会った当初、似たような叱責を受けたことがある。
『平民出のおまえにはわからないかもしれないが、貴族階級の男たちは、何百何千という女たちを己の庇護下に置いている。なぜだかわかるか。それが優秀な男の義務であり、使命だからだ。ならばおまえにも同じ義務が生じる』
その剣幕はかなりのもので、
忘れていた感覚が蘇り、
「なるほどな。黒陽の存在がストッパーとなっていたわけか。俺を追って下院に来たからその
その責任の一旦がある、とまでは思わないが、全くの無関係だとも思わない。
「まだわからないの? お姉様とあんたの考え方、その方向性は同じなのよ。弱き者を助けたい。だから配下に入れて守ってあげようってね。その頃のお姉様はまだ
だから公主様が反対するはずはないと、彼女は断言する。
知られざる公主様の一面が垣間見えた気がした。相談するまでもなく、二人の心は繋がっていたのだ。その事実が、
「俺はどこか龍人社会を舐めていたんだと思う。いくら厳しいと言っても、いざとなれば人間社会に逃げ込める。そんな風に考えていたんだ」
奴隷という龍人社会の暗部を目の当たりにしたことによって、
「敗北はすなわち死へと繋がる。これは別にいい。男に生れたからには、戦場で命を落とすこともあるだろう。でもさ、俺が敗北して死んでしまったら、あとに残された
「ええ、そうね。主人の敗北は群れの崩壊を意味するわ。そして敗北した群れは、
視線を落としたまま、
「俺は実力を証明しなければならないと思っていた。けど、その認識は正確ではなかったんだな。もし相応の実力がないのなら、そもそも黒陽を娶っちゃ駄目なんだ。あいつを不幸にする可能性が1%でもあるのなら、俺にその資格はないのさ」
「それは気負いすぎね。100%勝利し続けるなんて不可能よ。どんなに強い龍人でも絶対いつかは負ける時がくるわ。それは格上相手かもしれないし、新進気鋭の若者に追い抜かれてのことかもしれない。あるいはその全てに勝利したとしても、老化による弱体化には抗えないものよ」
「ああ、わかってる。けど、これは心構えの問題だ。絶対に負けない。100%勝利する。それぐらいの覚悟で挑まなければならない問題だっつーことだよ」
息を吐くと、霧の
「俺、思ったんだ。卒業したあと桜華はどうするんだろうって。俺とあいつの関係は親友だ。間違っても、絶対に恋人なんかじゃない。だから卒業後はそれぞれ別の道を行くことになるだろう。でもそうすると、想像しちゃうよな。桜華の群れが敗北して、あいつが虐げられている姿をさ。俺に関係ないと言われればそれまでだけど、どうにも胸がざわついて落ち着かないんだ」
桜華が困っていたら何を差し置いてでも助けると、
奴隷に落とされ、過酷な労働を強いられる。もしも桜華のそんな姿を目にした時、果たして自分は正気を保っていられるだろうか。
だからこそ、ずっと考えていた。特別宿舎を出てから上院の敷地を巡っている間中、そのことだけを考えていた。どうすれば良いのか必死に頭を悩ませた。
そんな時、不意に公主様の言葉が脳裏にフラッシュバックしたのだ。
――それだけの力を持ちながら、救えるはずの命を見捨てる気か。
当時は暴論に思えたその言葉が、今は不思議と頭に
「桜華が、俺なんかと一緒にいたいかどうかはわからない。だけど、選択肢として用意しておいてやるべきだと思うんだ。
だから、と
「俺は群れを作ろうと思う。だけどそれはハーレムとしての群れじゃない。行き場のない人たちを受け入れるための、困っている人たちを助けるための、保護シェルターの役割を果たす群れだ。もちろん桜華だけでなく、身寄りのなくなったアリスさんや、奴隷として辛い境遇を強いられた
あるいはそれは、思いつきで口にしただけの薄っぺらい夢物語だったのかもしれない。けれど、その決意を
「お姉様があんたに惚れた理由がわかった気がするわ」
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