第82話 月乃

 龍をかたどった石のオブジェ。口からはブレスではなく、お湯がドボドボと流れでている。落ちる先は広い湯舟だ。一面には湯けむりが立ち込めている。


「同盟、中立、敵対を使い分けなければならない……か」


 ちゃぷん、と湯の中で仰け反り返り、麒翔きしょうは一人紅蘭こうらんの忠告を思い出していた。


「うーむ。上院生は将来の貴族候補だから、仲良くしておいた方がいいって理屈はわかるんだよな。龍皇陛下でさえ外交努力をしてるんだから、全方位に喧嘩を売るような真似は得策じゃない。当然の理だ。でもなぁ――」


 湯けむり越しに高い天井を見上げる。

 麒翔きしょうが上院へ来た目的は、実力の証明。公主様を娶るに足るのだと、証明するためにやって来た。そのためには、最低でも首席クラスに勝利する必要がある。

 しかも、ただ勝つだけでは不十分だ。剣一本というハンデを覆すほどの、圧倒的な実力差を見せつけない限り、教師たちからは難癖をつけられ続けるだろう。


「そうすると、各学年の首席を順番に叩きのめすってプランになるわけだが。うーん、流石にこれはまじぃか?」


 各学年の首席ともなると、それは云わば将来の貴族候補筆頭なわけで。その全てに敵対するというのは、いささか――というか、かなり無茶な気がする。

 が、その勝利なくして実力を証明できないのもまた事実。


 あちらを立てればこちらが立たず。

 龍の口の下でドバドバと湯を浴びながら、麒翔きしょう瞑想めいそうする。気分はさながら修行僧のそれである。


 本日の体験入学を終えて氷理ひょうり教諭は言った。


「明日には剣術の授業がある。是非とも君の実力を見せてくれたまえよ」


 麒翔きしょうが望もうと望むまいと、どちらにせよ実力者との手合わせを強いられるだろう。そしてその全てに勝利し続けなければならない。なにせ、


「君が我々の期待に応え続けている間は、上院生として扱おう。けれど、もし不適格と判断したら、その時は容赦ようしゃなく追放する。いいね?」


 氷理ひょうり教諭にもそのように釘を刺された。

 現にこうして、貸し切り状態で湯舟に浸かっていられるのも、上院生としての特権だ。寮ではなく、客人用の特別宿舎に隔離かくりされている点については、若干悪意を感じなくもないが、貴族の屋敷を丸々貸し切ったと考えれば、そう悪い気はしない。


 とはいえ、それもこれも氷理ひょうり教諭たちを納得させることができれば、という条件付きである。失敗すれば、つゆと消えるはかない待遇。


「要するに挑戦者である俺には、外交ごっこをする余裕なんてないんだよな」


 瞑想によって導かれた結論は、初志しょしと同じものであった。一周回ってスタート地点に戻ってきたと言えば進歩はないが、諸々の事情を理解した上で、それでも同じ結論に達したと解釈すれば、それは成長の証とも言えそうである。


 思考も幾分クリアとなり、そろそろ出るかと湯舟から立ち上がったところで、麒翔きしょうは盛大にフリーズした。なにせその視線の先には――


「お背中をお流しさせていただきます。ご主人様」


 目の前で、バスタオルに包まれた大きな果実がぷるんと揺れた。

 スレンダー巨乳の少女が湯けむりの中に立っている。胸元の膨らみは圧倒的な存在感を放ち、露なのか汗なのかよくわからない水滴すいてきが、柔肌をつーっと伝わって深い谷間へ吸い込まれていく。


 その魅惑的な光景に一瞬だけ視線が釘付けとなるも、時はすぐに動き出し、麒翔きしょうはとっさに後ろを向いた。


「――――は? なんで君がここにいるんだよ!?」

月乃つきのは奴隷ですので、ご主人様のお世話をしに参りましたです」

「お世話なんてしなくていいよ!?」

「でも、お背中を……」

「背中なんて流さなくていいから出て行ってくれ!」

「かしこまりました」


 いくら意中の人がいたとしても思春期の男子心からすれば、半裸の女の子を前にドキドキしないでいる方が、どだい無理な話なのである。

 公主様も大きい方だが、月乃つきののそれは暴力的なまでに育っていた。巨大惑星の持つ強大な引力に引かれるように、麒翔きしょうの視線も強制的に胸部へ吸い込まれてしまうほどに。だからこそ後ろを向いて視界を遮断したわけなのだが――


 ちゃぷん。

 湯に足を踏み入れる音が背後から聞こえて、麒翔きしょうの背筋が緊張でピンと伸び、同時に脳内にけたたましい警報が鳴り響いた。


「ちょっと!? 月乃つきのさん? なんだか近づいて来ている気配がするんだけど?」

「はい。月乃つきのはご主人様のお背中をお流しします」

「全然、かしこまってないじゃん!?」


 かしこまるとは、理解するや引き受けるの意ではなかったのか。

 混乱する麒翔きしょうはその場から動けない。

 足元から立ち昇る湯気が、火照ほてった体をなででるように昇っていく。

 頭が朦朧もうろうとするのは、長湯したせいなのかそれとも――


 ピタリ、と背中に柔らかいものが触れた。

 そのまま腰に腕を回されて、抱き着かれたのだと悟る。直立不動のまま、麒翔きしょうは完全に活動を停止した。一緒に呼吸も停止しそうになった。ぎゅっと背中に押し付けられる胸の感触が強くなる。


月乃つきのは嬉しかったです。厄介者である月乃つきのを受け入れてくれた、その優しさが嬉しかったです」

「でも、俺には好きな人がいるんだ。だからこういうのは」

「ご主人様に恋愛感情がないのはわかってるです。優しいご主人様のご温情なのだということも存じております。でも、少しでも恩返しがしたいです。駄目ですか」

「だ、駄目っていうかさ。俺も男だからさ、くっつかれると理性が……」

「し、失礼しました! 月乃つきのとしたことがはしたなかったです」


 ぱしゃぱしゃ、という音がして柔らかい感触が離れていく。


いやしい奴隷の身でありながら、出すぎた真似をしましたです。お許しください」


 羞恥しゅうちに沈む消え入りそうな声。自分を卑下ひげする言葉に麒翔きしょうの胸はズキリと痛んだ。反射的に、月乃つきのの方を振り返っていた。バスタオルに身を包んだ彼女は、胸元に置いた細い腕を震わせて、泣きそうな顔をしていた。


いやしい身なんて言うなよ」

「でも、月乃つきのは奴隷ですから」

「奴隷だから何だっていうんだ。君はこんなにも魅力的な女の子じゃないか」

「奴隷は卑しいものです。一度堕ちたらずっとそのままなんです」


 圧倒的な自己肯定感の低さに、麒翔きしょう既視感きしかんを覚えた。

 ああ、そうか。と思う。彼女はかつての自分なのだ。

 何か熱いものが込み上げてきて、それを零さないようにとっさに天井を見上げ、


「なぁ、知ってるか。俺ってさ、つい半年前までは下院で最下位の底辺オブ底辺だったんだぜ」

「ご主人様がですか?」


 疑問形に混じる疑わしげな響き。

 まぁ信じられないよな、と麒翔きしょうは苦笑するしかない。


「ああ、誰もがさげすむ対象だった。適性属性なしの半龍人だってな」

「でも、ご主人様は蒼雪そうせつ様に勝ちました。そのような扱いを受ける身分とは思えません」

「そうだ。俺には力がある。だけど、その真価に誰も気付かなかった。生徒も、教師も、学園長も……そしてこの俺自身でさえもな。だから学園の下した無能というレッテルを疑問に思わなかったんだ。今の君と同じだよ」


 月乃つきのがはっと息を呑んだ。


「だけど、俺の埋もれた才能にいち早く気付いてくれた奴がいた。そいつが見つけてくれたから、今の俺があるんだ。そいつはこう言うんだ。『あなたは龍王の器だ』ってな。笑っちまうだろ。だけど、それは世迷言よまいごとなんかじゃなくて、地に足のついた実現可能な夢なんだと、今は自信を持って断言できる。そいつが言ったことは今まで全部当たっていて、間違ったことなんて一度もないからな」

「あの……その方というのはまさか……」


 目をつぶり、愛する恋人の顔を麒翔きしょうは思い浮かべた。絶世の美少女の顔を。想像の中にあるその顔は、いつもの無表情ではなく柔らかく微笑んでいた。


「大丈夫、俺が保証するよ。あいつならきっと、月乃つきのの埋もれた才能を見つけることができる。奴隷なんかじゃなくて、一龍人としての月乃つきのの良さをだ」


 見上げていた視線を戻す。なぜかバスタオルを纏った月乃つきのの姿が歪んで見えた。


「そして俺も、君の良さを見つけられるように努力する。だからさ、卑しい奴隷の身なんて悲しいことは、もう言わないでくれよ。君は立派な一人の龍人で、こんなにも素敵な女の子なんだからさ」


 奴隷として過ごした過酷な日々を麒翔きしょうは想像することしかできない。彼女の過去をあわれむことはできても、共感することはできないのだ。けれど、これから先の未来を一緒に歩んで行くことはできる。だから、と手を差し出して、


「これからよろしくな」


 そこで麒翔きしょうの視界は暗転した。

 ばしゃん! と大量の湯を揺らして、頭から湯面へダイブ。

 ご主人様、という声が遠方で聞こえた気がした。


 長湯でのぼせてしまったらしいとわかったのは、湯あたりした麒翔きしょうを介抱しようとする月乃つきのの膝の上での事だった。




 ◇◇◇◇◇


 貴族の邸宅を思わせる広い屋敷。

 特別宿舎に男女が二人――などと知られては、桜華に何を言われるかわからない。ここはひとつ、絶対に黙っておこうと麒翔きしょうは心に決めた。


「そもそも、何も後ろ暗いことなんてしてないし……なっ!」


 湯あたりして倒れた全裸の自分。ころもを着せて、介抱してくれたのは誰だったのか。恥ずかしい記憶が一瞬だけ蘇ったが、麒翔きしょうは気合で記憶を改竄かいざんした。


 ダイニングにあたるのだろうか。冗談みたいに長いテーブルの隅っこで、麒翔きしょうは夕食を済ませた。食材は宿舎に常備されており、料理は月乃つきのが作ってくれた。ここの食材で朝昼晩を済ませるようにすれば、食費問題は解決しそうである。

 麒翔きしょうとしては、親交も兼ねて一緒に食卓を囲みたかったのだが、月乃つきのには頑なに拒まれてしまった。曰く、


月乃つきのは、まだ正式に奴隷の身分を脱していないのです。だから今は、まだ肩を並べて食事を取ることは許されませんです」


 奴隷としての考え方を捨てられないでいるのは悲しかったが、「今は」「まだ」という言葉が、彼女の心境の変化を表しているように感じられた。


「ま、無理にとは言わないよ。これから少しずつ変わっていこうな」

「はい!」


 夕餉ゆうげを食す間、月乃つきのはずっと背後に立ち、給仕きゅうじをしてくれた。それはさながら本物の貴族になったかのような感覚を麒翔きしょうに抱かせた。

 そして給仕の合間に、彼女は自分の生い立ちを話してくれた。


 月乃つきのが五歳の頃だったそうだ。

 縄張りを巡る争いで龍王・蒼絶そうぜつとの戦争に発展し、月乃つきのの両親は揃って戦死――敗北した群れの生き残りは捕らえられ、奴隷とされた。


 悲しそうに月乃つきのは語る。


月乃つきのの父は、龍聖りゅうせいの貴族でした。でも、蒼絶そうぜつ様との戦力差は余りにも大きかったみたいです」


 縄張り争いとは建前で、適当に難癖なんくせつけて戦争を吹っ掛け、落とした群れの人員を労働力として確保する帝国主義的な発想は、貴族社会では一般的なのだという。


「弱い者は淘汰とうたされる、を地でいくんだろうが……あまりにも酷いな」

「でもだからこそ、外交は大事です。同盟を結んでいる限り攻撃はされないです」


 そして捕らえられた当時五歳だった月乃つきのは、同い年だった蒼雪そうせつ付きの奴隷とされたそうだ。そこから人を人とも思わぬ扱いを受け、地獄の日々が始まった。


「でも、蒼雪そうせつ様は月乃つきのに興味がなかったです。だから体は清いままでいられました」

「乱暴はされなかったのか。こう言ってはなんだけど、ほっとしたよ」

月乃つきのは運が良かったです。他の王子付きの子は、純血を散らされることもあったようですから……」


 麒翔きしょうは力いっぱいに眉をひそめた。


「なぁ、龍人族ってのは最初に契りを結んだ相手を正妃として娶るんだろ。だったら、性的な一線を超えたら、その子を娶るのが道理なんじゃないのか」

「はい、その通りです。でも実際には握り潰されてしまうです」

「どこまでも理不尽だな、反吐へどが出る。というかそもそも納得がいかない。契りを結んでおいて正妃として娶らないのは、掟とやらには反しないのか」

「はい。掟に反します。だから騒ぎ立てるような真似をすれば――」


 月乃つきのが手首をくいっと動かして首を切る真似をした。


「帰ってこなかった子もいるです……」

「バレなければセーフ理論が成り立つからこその口封じか」


 奴隷は、群れの『』ではないのだと月乃つきのは言う。だからこそ、守る義務はなく、非人道的な真似がまかり通ってしまう。そして彼らにとっては当たり前だからこそ、それをとがめる者はいない。都合が悪ければすぐに切り捨てられる――それが奴隷という存在なのだ。


「でもこの学園に来て、最初の内は蒼雪そうせつ様も優しかったです。だから月乃つきのもほっとしていたのですが、夏に入ろうかという頃から、また当たりがきつくなったです」

「途中で何か心境の変化でもあったのか?」

「それはわかりません。でも、月乃つきのは良かったと思ってるです。こうしてご主人様と出会うことができましたから」


 月乃つきのの頭を撫でてやると、彼女は赤面してうつむいた。

 そうして至近距離で月乃つきのの顔を見て、ふと気付く。


「髪の毛、切ったのか?」

「はい。不揃いでしたので、肩口からバッサリとです」


 どこか晴れ晴れとした表情の月乃つきのは、もう未練などないとばかりに快活かいかつに笑った。

 彼女もまた、前向きな一歩を踏み出せたのかもしれない。




 ◇◇◇◇◇


 スースーという寝息に合わせて掛け布団が上下している。

 疲労をにじませて麒翔きしょうは溜息をついた。そっと掛け布団を直してやり、を出る。

 麒翔きしょう専属の奴隷なので、同じ部屋で寝起きすると聞いた時は眩暈めまいがしたものだった。しかも、本人は床で寝るのだという。もちろん、そんな事はさせられない。押し問答の末、ベッドに寝かしつけることに成功した麒翔きしょうの疲労は色濃い。


「朝起きた時に俺がいなかったら、きっと傷つくよなぁ」


 かと言って、同じベッドで寝るわけにもいかない。


 では月乃つきのは今まではどうしていたのかというと、蒼雪そうせつの部屋で寝起きしていたのだそうだ。男子寮で? と麒翔きしょうは疑問に思ったが、学園から正式な許可を得ているから可能らしい。要するに女子寮に彼女の部屋はないので、麒翔きしょうと同じ部屋を使うしかないのだ。つくづく人間扱いされていないな、と麒翔きしょうは嫌な気分になる。


「ま、俺の方はソファーで寝りゃいいか」


 気楽に考え、麒翔きしょうは特別宿舎の階段を下りる。

 正面玄関の扉を開けると、冷たい外気が入ってきた。白い息を吐き、身をぶるると震わせながらも、麒翔きしょうは扉を全開にする。


「さてと。上院探索・夜の部でも始めますか」


 月乃つきのを引き取ると決めた以上、色々と考えなければならない。群れというものに対して、本気で向き合うべき時がきたのだ。

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