第81話 紅蘭に学ぶ学園の仕組みと貴族社会
「どうか私を見捨てないでください。ご主人様」
大理石の床に
その背中には、不揃いに切られた黒髪が痛々しく流れている。
少女の境遇に胸を痛めた
「駄目だよ、こんな事しちゃ。俺は君の主人じゃないし、それに学園生活を自由に
「しかし、
「仕えろじゃなくて、面倒を見てもらえだろ」
「同じことです」
「いや、同じじゃないよ!?」
なぜこのような事態となったのか?
彼女は
「私は
「いやいやいや、卑しいとかそういう事は一切っ! 思ってないんだよ。だけど俺はさ、一途に一人だけを愛したいんだ」
「ですから、奴隷としてお傍に置いて頂ければ結構です」
「その奴隷って発想をまず止めようぜ? な?」
立たせようとしたところ、逆に
どうしてここまで彼女は必死なのか、
「この男はね、龍人社会の事情に
その八方塞がりの
彼女はテーブル席を指し示し、二人に座るよう
「ひとまず、認識の擦り合わせを行いましょう。このままだと
「まず、奴隷についてどこまで知ってるの?」
問われ、
アルガントに奴隷制度はない。あくまで旅人に聞いた異国の話だ。
「奴隷には人権がなくて、法律上は物として扱われるそうだ。商品として他国へ奴隷を輸出する奴隷産業なんてものまであるらしい。奴隷たちは
「
言い
「そうね……龍人族の奴隷と比べても、概念的には近いわね。ただやっぱり、あんたの話を聞く限りだと、一つだけ大きく異なる部分があるわ」
「異なる部分?」
「まず、大前提から話すわね。龍人族の国には、全龍人が守らなければならない
龍人族の――とりわけ貴族の群れは、群れ単位で都市国家並みの独立性を保持している。それは言い換えれば、国家レベルで秩序が保たれているとも言えそうである。ならば、群れの規則は法律に相当するというのも、直感的に理解できる話だった。
「じゃあ、
「なるほどな。その掟っていうのは、破るとどうなるんだ?」
「一概には言えないけど、重たい罰則が科せられるわ。例えば、爵位を剥奪され、無印へ格下げされるとかね」
「無印って妻を一人しか娶れないんだろ」
「そうよ。だから無印に降格した時点で群れは崩壊するの」
「もし拒んだら?」
「全龍人を敵に回すことになるわね」
群れの規則は、配下の者にしか適用されないが、掟は全龍人に作用する。要するに群れの規則を国の法律とするなら、掟は各国間における外交的な合意によって決められた国際規則のようなもの――と、解釈できる。
実際、掟を破ったことが
「いい? ここからが大事だからよく聞いて。掟の一つに、『満十八歳を迎えた者は、自由に群れを作って独立することができる』って文言があるのよ」
「満十八歳というと、学園卒業とほぼ同時期だな。群れの旗揚げも学園卒業後に行われるんだろ。もしかして学園のスケジュールは掟に合わせてあるのか」
「そうよ。裏を返せば、この掟があるから学園規則では『学生の間に旗揚げはできない』と解釈されてるわけ」
そこで
「そしてこの掟は、奴隷身分の者にも等しく適用される」
うつむいたまま語らずにいた
「するとあれか? 奴隷身分であっても、群れの旗揚げはできると?」
「そうよ。男子なら群れの旗揚げ。女子なら他の群れへの編入が可能となる。要するに十八歳未満の者に限り、自らの意思で奴隷身分から抜け出せるのよ」
奴隷身分からの脱却。それを自力でできてしまうというのは、確かに
「つまり、
その朗報に
「それがそう簡単にもいかないのよ」とは、続く
「龍人は名節を重んじる種族だっていうのは知ってるわよね」
「ああ。主人に捧げる名節は、その忠誠心の現れだって聞いたな」
「だったら、奴隷にその名節が期待できないとしたらどうなるかしら」
「――――――なっ」
息が止まりそうになった。
さきほど、
――娼婦として働かされることもあるのよね。
燃えるような
「そんな、そんなことって……」
「無論、
つまり、彼女が奴隷から解放されることは未来永劫ないのだ。
「だから俺に……あそこまでして助けを求めて来たのか……そんなことも知らずに俺は……くそっ」
少女のSOSを正しく認識できなかった自分の
「その子を引き取るつもりなら、止めておいたほうがいいわよ」
「おまえも名節を気にしてるのか?」
その問いに、
「名節を気にするのはあくまで男子側の都合よ。あたしは別にどっちでもいいわ。問題なのは、外交的な理由ね」
「外交? いきなり話が
「さっきも話そうとしたんだけど、話の腰が折れちゃったからね。いい機会だから学びなさい。学園の仕組みと貴族社会のなんたるかを」
◇◇◇◇◇
「学園を運営する利点は大きく分けて二つあるわ」
二本の指を突き出して、
「一つは、優秀な卒業生を群れにスカウトするためなんだけど、今回の件とは関係ないから割愛するわよ」
「さっき
ビクッと
「そう。そしてそれは上院――ひいては、貴族の常識でもある。あんたも上院に足を踏み入れるつもりなら、今までのように好き勝手はできないわよって言おうとしたんだけど、遅かったみたいね。あれじゃ、
「悪かったな。だけど、俺は後悔してないぜ」
不当に
「二つ目の理由は、学園運営がそのまま外交の役割を果たすからよ」
「学園運営が外交? なんだそりゃ」
説明が少しややこしいのよね、と言いながら
「知ってるかしら。龍人は好戦的な民族だけど、親の群れとは争わないのよ」
「ん、そういや
「そこまでわかっているのなら話が早いわ。親の群れっていうのは、自分が生まれ育った群れのことよね」
「ああ、自分が生まれ育った群れには愛着が湧く。だから、心理的に争いたくないんだろ」
「そうよ。言い換えるなら、自分が所属していた群れに愛着が湧くとも言えそうよね。ここまで言えば、ピンと来るんじゃないかしら」
桜華の話を思い出した。
――学生は全員、一時的に龍皇の群れに所属するという体裁を取っている。
「もしかしてこれも政略結婚と本質的には同じなのか」
「ご名答。例え三年という短い期間でも、一時的に所属したなら龍人の本能は敵対することを嫌がるの。つまり、将来的な敵対リスクが下がるってわけ」
「龍人族最強の群れでも、敵を作らないように努力するもんなんだな」
「そう。まさに本題はそこよ」
チラリ、と
「龍皇陛下でさえ極力敵対しないように立ち回るのが貴族社会なの。これはいい?」
「ああ、これだけ莫大な費用をかけて学園を運営してるんだ。納得したよ」
「そこで質問なんだけど、もし自分の支配下にある奴隷を解放しようと立ち回る者がいたとしたら、主人はどう思うかしら」
「面白くないだろうな」
「ええ。
「どうなるって……奴隷の独立は掟で保障されてるんだろ」
「そうね。だから独立自体を阻むことはできないわ。でもね、独立した先の群れに難癖をつけて攻撃することはできるのよ」
「まてまて、
「その滅茶苦茶がまかり通るのが、龍人社会なのよ」
力こそ正義。
勝者はすべてを手に入れ、敗者はすべてを失う。
理不尽だと
「だから名節の問題に目をつぶるとしても、その子を群れに入れようなんて
「仮にその子を俺の群れに入れたら……黒陽も危険に晒されるってわけか」
「そうよ。だから、あたしは反対したの」
そこでずっと伏せていた顔を
「だ、駄目、ですか。ご主人、様、の、群れに入れて、は、もらえません、か」
奴隷という境遇がどれだけ
そこはまさに地獄。生き地獄そのものではなかろうか。
「も、もう、嫌なんです。毎日、が、生きる、のが、辛くて。どうし、て、生まれてきたんだろう、って、お父さん、と、お母さん、を恨んでしまう、自分が許せ、なくて。もう、死んでしまいたい、って。でも、今日、ご主人様に助けてもらって、すご、く、すごく嬉しくて。誰も、助けてくれ、なかったから。ずっと、一人、ぼっちだった、から。だから、この人、ならって、思った、です」
涙をポロポロと流しながら語られる胸中。
自力では脱出できない地獄の底で、彼女はずっと一人で泣いていた。
手を差し伸べようとする者は誰もいない。なぜなら彼女は奴隷だから。
そんな中、垂らされた一本の糸。救いの希望となる存在が
(そりゃ、必死に手を伸ばすよな。掴み取ろうとするに決まってる)
公主様に相談するべき案件なのは間違いない。だからここは一時保留とし、後日返事をするのが最善の選択だろう。
(それはわかる。だけど――)
バシンと背中を叩いて元気づけてくれる。そんな映像が脳裏を過ったから。
「
「可能よ。群れ内部の階級は正妃を除いて、すべてがローカル。主人と正妃の判断で、いかようにも変えられるわ」
「だったら――」
そして
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