第81話 紅蘭に学ぶ学園の仕組みと貴族社会

「どうか私を見捨てないでください。ご主人様」


 大理石の床にひたいこすり付けんばかりに平伏へいふくする少女。

 その背中には、不揃いに切られた黒髪が痛々しく流れている。

 少女の境遇に胸を痛めた麒翔きしょうは、慌てた素振りで自らも地面へひざをついた。小柄な両肩に手を添えて、立たせにかかる。


「駄目だよ、こんな事しちゃ。俺は君の主人じゃないし、それに学園生活を自由に謳歌おうかしていいって蒼雪そうせつだって言ってたろ?」

「しかし、蒼雪そうせつ様はあなた様にお仕えしろと仰っていたです」

「仕えろじゃなくて、面倒を見てもらえだろ」

「同じことです」

「いや、同じじゃないよ!?」


 かたくなに立つことを拒否する奴隷少女・月乃つきの

 なぜこのような事態となったのか?


 彼女は蒼雪そうせつの言葉「面倒はその男に見てもらえ」を受けて、麒翔きしょうを主と定めたらしい。だからこそのご主人様呼びなのだが、そもそも麒翔きしょうは群れを作るつもりがない。だからやんわりと拒否しようとした所、このような事態へと発展してしまった。


「私はいやしい奴隷の身。妃にしてほしいとは申しませんです。しかしどうか、お優しいあなた様のおそばに置いてくださいませ」

「いやいやいや、卑しいとかそういう事は一切っ! 思ってないんだよ。だけど俺はさ、一途に一人だけを愛したいんだ」

「ですから、奴隷としてお傍に置いて頂ければ結構です」

「その奴隷って発想をまず止めようぜ? な?」


 立たせようとしたところ、逆にすがるように龍衣のすそを掴まれた。ぎゅっと力強く握られて、お願いしますと何度も頭を下げられる。


 どうしてここまで彼女は必死なのか、麒翔きしょうにはわからなかった。が、わからないなりにも彼女の抱える心の闇を肌で感じてしまい、上手く言葉が出てこない。おぼれる者はわらをも掴む――というが。もし、彼女にとってのわら麒翔きしょうなのだとすれば、その希望を手放せと強いるのは余りにも酷なのではないか。結果、拒絶することも許容することもできないという中途半端なまま、麒翔きしょうはその場に立ち尽くす。


「この男はね、龍人社会の事情にうといのよ。だから月乃あんたの抱えている問題も正しく理解できていないわけ。ま、要するにただのお人好しなのよね」


 その八方塞がりの均衡きんこうを破るように、口を差し挟んできたのは紅蘭こうらんだ。

 彼女はテーブル席を指し示し、二人に座るようあごをしゃくる。


「ひとまず、認識の擦り合わせを行いましょう。このままだとらちが明かないわ」


 麒翔きしょうとしても地べたに平伏されていては、落ち着いて話もできない。その提案に一二もなく同意し、月乃つきのを促して席へとついた。

 麒翔きしょうの正面に紅蘭こうらん、その右隣りが月乃つきのという席順。


「まず、奴隷についてどこまで知ってるの?」


 問われ、麒翔きしょうは少考。自分の持つ人づてに聞いた知識を思案する。

 アルガントに奴隷制度はない。あくまで旅人に聞いた異国の話だ。


「奴隷には人権がなくて、法律上は物として扱われるそうだ。商品として他国へ奴隷を輸出する奴隷産業なんてものまであるらしい。奴隷たちは手枷てかせ足枷あしかせめられ、死ぬまで一生その身分から抜け出すことはできない。重労働を課せられ、過酷な環境の中、死ぬまで働かされるんだって話だ。あるいは……その……」

娼婦しょうふとして働かされることもあるのよね」


 言いよどんだその先を紅蘭こうらんに引き取られ、麒翔きしょうは気まずげに頷いた。


「そうね……龍人族の奴隷と比べても、概念的には近いわね。ただやっぱり、あんたの話を聞く限りだと、一つだけ大きく異なる部分があるわ」

「異なる部分?」

「まず、大前提から話すわね。龍人族の国には、全龍人が守らなければならないおきてと、それとは別に群れの規則があるの。基本的に細かい規則――例えば、殺人は禁止とか、泥棒は禁止っていうのは群れの規則にあたるのよ。つまり、人間社会でいうところの法律が、群れの規則とイコールなわけ」


 龍人族の――とりわけ貴族の群れは、群れ単位で都市国家並みの独立性を保持している。それは言い換えれば、国家レベルで秩序が保たれているとも言えそうである。ならば、群れの規則は法律に相当するというのも、直感的に理解できる話だった。


「じゃあ、おきてとはなんだって話になるわよね。掟っていうのは、古来から伝わる絶対に曲げてはならない一族に課せられたいましめだと思ってくれればいいわ。例えば、無印は妻を一人しか娶れないとか、最初に契りを結んだ者のみ正妃に据えることができる、とかがそうね。これは龍皇陛下でさえも曲げることができないの」


「なるほどな。その掟っていうのは、破るとどうなるんだ?」

「一概には言えないけど、重たい罰則が科せられるわ。例えば、爵位を剥奪され、無印へ格下げされるとかね」

「無印って妻を一人しか娶れないんだろ」

「そうよ。だから無印に降格した時点で群れは崩壊するの」

「もし拒んだら?」

「全龍人を敵に回すことになるわね」


 群れの規則は、配下の者にしか適用されないが、掟は全龍人に作用する。要するに群れの規則を国の法律とするなら、掟は各国間における外交的な合意によって決められた国際規則のようなもの――と、解釈できる。

 実際、掟を破ったことがおおやけになった場合、中立都市と呼ばれる場所で裁判が開かれるのだと紅蘭こうらんは言った。そして彼女は続けて念を押すように、


「いい? ここからが大事だからよく聞いて。掟の一つに、『満十八歳を迎えた者は、自由に群れを作って独立することができる』って文言があるのよ」

「満十八歳というと、学園卒業とほぼ同時期だな。群れの旗揚げも学園卒業後に行われるんだろ。もしかして学園のスケジュールは掟に合わせてあるのか」

「そうよ。裏を返せば、この掟があるから学園規則では『学生の間に旗揚げはできない』と解釈されてるわけ」


 そこで紅蘭こうらんは、隣に座る月乃つきのをチラリと見た。


「そしてこの掟は、奴隷身分の者にも等しく適用される」


 うつむいたまま語らずにいた月乃つきのが、身を強張らせてぎゅっと膝上の龍衣を握り締めた。ここからが本題なのだと麒翔きしょうは内心で覚悟を決める。


「するとあれか? 奴隷身分であっても、群れの旗揚げはできると?」

「そうよ。男子なら群れの旗揚げ。女子なら他の群れへの編入が可能となる。要するに十八歳未満の者に限り、自らの意思で奴隷身分から抜け出せるのよ」


 奴隷身分からの脱却。それを自力でできてしまうというのは、確かに麒翔きしょうの知る奴隷制度とは根本的に仕組みが異なるようだ。


「つまり、月乃つきのさんは学園卒業と同時に奴隷身分から解放されるんだな」


 その朗報に麒翔きしょうはパッと顔を輝かせたが、女子二人の顔色は晴れない。


「それがそう簡単にもいかないのよ」とは、続く紅蘭こうらんの言葉である。彼女は「いい?」と前置きしてから言った。


「龍人は名節を重んじる種族だっていうのは知ってるわよね」

「ああ。主人に捧げる名節は、その忠誠心の現れだって聞いたな」

「だったら、奴隷にその名節が期待できないとしたらどうなるかしら」

「――――――なっ」


 息が止まりそうになった。

 さきほど、麒翔きしょうが言えずに飲み込んだ言葉。

 紅蘭こうらんが引き取ったその言葉を思い出せば答えは明白だ。


 ――娼婦として働かされることもあるのよね。


 燃えるような焦燥しょうそうにも似た痛みが、麒翔きしょうの胸を締め付けるように焦がした。おそるおそる斜め前方へ視線を向ければ、声も出さずにポロポロと涙をこぼす月乃つきのが視界に入った。


「そんな、そんなことって……」


 あえぐように絞り出した言葉に対して、紅蘭こうらんが残念そうに首を振る。


「無論、月乃つきのがどうかは知らないわ。だけど、他の男子たちはそうは見てくれない。奴隷身分だった者を娶ろうなんて普通は誰も思わないのよ」


 つまり、彼女が奴隷から解放されることは未来永劫ないのだ。


「だから俺に……あそこまでして助けを求めて来たのか……そんなことも知らずに俺は……くそっ」


 少女のSOSを正しく認識できなかった自分の不甲斐ふがいなさに、麒翔きしょうは苛立ち拳をテーブルに叩きつけた。しかし、そんな彼を責めるでもなく、紅蘭こうらんはあくまで淡々としていた。


「その子を引き取るつもりなら、止めておいたほうがいいわよ」

「おまえも名節を気にしてるのか?」


 その問いに、紅蘭こうらんはゆるゆると首を横へ振り、


「名節を気にするのはあくまで男子側の都合よ。あたしは別にどっちでもいいわ。問題なのは、外交的な理由ね」

「外交? いきなり話が飛躍ひやくしたな」

「さっきも話そうとしたんだけど、話の腰が折れちゃったからね。いい機会だから学びなさい。学園の仕組みと貴族社会のなんたるかを」




 ◇◇◇◇◇


「学園を運営する利点は大きく分けて二つあるわ」


 二本の指を突き出して、紅蘭こうらんがそう宣言した。


「一つは、優秀な卒業生を群れにスカウトするためなんだけど、今回の件とは関係ないから割愛するわよ」

「さっき紅蘭おまえは、ここでの売り上げはあくまでおまけだって言ってたよな。つまりショッピングモールの売り上げを含め、金儲けは学園運営の主目的じゃないわけだ。すると残りの一つこそが、月乃つきのが群れに入れない理由になるわけだな」


 ビクッと月乃つきのの肩が震えた。泣き腫らした顔を見せないようにか、彼女は顔を伏せている。長い前髪がその表情を完全に覆い隠していた。しかし避けては通れない道だと覚悟を決めて、麒翔きしょうは前を向く。


「そう。そしてそれは上院――ひいては、貴族の常識でもある。あんたも上院に足を踏み入れるつもりなら、今までのように好き勝手はできないわよって言おうとしたんだけど、遅かったみたいね。あれじゃ、蒼雪そうせつのプライドはズタズタよ」

「悪かったな。だけど、俺は後悔してないぜ」


 不当にしいたげられる女の子を前にして、尻込みするほど麒翔きしょう軟弱なんじゃくではない。それは知識の有無以前の問題だ。そんな強気の姿勢に、紅蘭こうらんがクスリと微笑んだ。


「二つ目の理由は、学園運営がそのまま外交の役割を果たすからよ」

「学園運営が外交? なんだそりゃ」


 説明が少しややこしいのよね、と言いながら紅蘭こうらんがやや思案顔になる。


「知ってるかしら。龍人は好戦的な民族だけど、親の群れとは争わないのよ」

「ん、そういや魅恩みおん先生もそんなこと言ってたな。親の群れを攻撃しない習性があるから、娘を強い男に嫁がせるんだって」

「そこまでわかっているのなら話が早いわ。親の群れっていうのは、自分が生まれ育った群れのことよね」

「ああ、自分が生まれ育った群れには愛着が湧く。だから、心理的に争いたくないんだろ」

「そうよ。言い換えるなら、自分が所属していた群れに愛着が湧くとも言えそうよね。ここまで言えば、ピンと来るんじゃないかしら」


 桜華の話を思い出した。

 ――学生は全員、一時的に龍皇の群れに所属するという体裁を取っている。


「もしかしてこれも政略結婚と本質的には同じなのか」

「ご名答。例え三年という短い期間でも、一時的に所属したなら龍人の本能は敵対することを嫌がるの。つまり、将来的な敵対リスクが下がるってわけ」

「龍人族最強の群れでも、敵を作らないように努力するもんなんだな」

「そう。まさに本題はそこよ」


 チラリ、と月乃つきのの顔を覗き見る。相変わらず顔を伏せたままだが、泣き止んではいるようだ。紅蘭こうらんは一瞬だけ躊躇ちゅうちょしたが、すぐに続きを話し始めた。


「龍皇陛下でさえ極力敵対しないように立ち回るのが貴族社会なの。これはいい?」

「ああ、これだけ莫大な費用をかけて学園を運営してるんだ。納得したよ」

「そこで質問なんだけど、もし自分の支配下にある奴隷を解放しようと立ち回る者がいたとしたら、主人はどう思うかしら」

「面白くないだろうな」

「ええ。月乃つきのの主人は龍王・蒼絶そうぜつ。爵位でいうと上から二番目で、龍皇陛下に匹敵する実力の持ち主よ。そんな人物ににらまれたらどうなると思う?」

「どうなるって……奴隷の独立は掟で保障されてるんだろ」

「そうね。だから独立自体を阻むことはできないわ。でもね、独立した先の群れに難癖をつけて攻撃することはできるのよ」

「まてまて、滅茶苦茶めちゃくちゃじゃねえか」

「その滅茶苦茶がまかり通るのが、龍人社会なのよ」


 力こそ正義。

 勝者はすべてを手に入れ、敗者はすべてを失う。


 理不尽だとなげいても、掟でその行為が禁止されていないのなら、実力行使は可能となる。弱者は泣き寝入りするしかない。


「だから名節の問題に目をつぶるとしても、その子を群れに入れようなんて気概きがいのある男子はいないってわけ」


 麒翔きしょうは奥歯を噛み締めた。


「仮にその子を俺の群れに入れたら……黒陽も危険に晒されるってわけか」

「そうよ。だから、あたしは反対したの」


 そこでずっと伏せていた顔を月乃つきのが上げた。ぐちゃぐちゃに泣きらした顔が、麒翔きしょうの心をえぐる。テーブルの上に投げ出してあった右手を取られ、月乃つきの懇願こんがんするようにすがり付いてくる。


「だ、駄目、ですか。ご主人、様、の、群れに入れて、は、もらえません、か」


 奴隷という境遇がどれだけ苛烈かれつな環境にあるのか、麒翔きしょう現実リアルを伴うことができない。けれど、ひざまずかされて椅子にされる――などという人としての尊厳を踏みにじられる行為が、日常的に繰り返されていたのだとすれば、察して余りあるほどに辛い状況にあった事は明白である。


 そこはまさに地獄。生き地獄そのものではなかろうか。


「も、もう、嫌なんです。毎日、が、生きる、のが、辛くて。どうし、て、生まれてきたんだろう、って、お父さん、と、お母さん、を恨んでしまう、自分が許せ、なくて。もう、死んでしまいたい、って。でも、今日、ご主人様に助けてもらって、すご、く、すごく嬉しくて。誰も、助けてくれ、なかったから。ずっと、一人、ぼっちだった、から。だから、この人、ならって、思った、です」


 涙をポロポロと流しながら語られる胸中。嗚咽おえつが混じり、一言一句は不明瞭だが、その全文は麒翔きしょうの胸に刻まれるようにして明瞭に入ってきた。


 自力では脱出できない地獄の底で、彼女はずっと一人で泣いていた。

 手を差し伸べようとする者は誰もいない。なぜなら彼女は奴隷だから。

 そんな中、垂らされた一本の糸。救いの希望となる存在が麒翔きしょうなのだとしたら。


(そりゃ、必死に手を伸ばすよな。掴み取ろうとするに決まってる)


 公主様に相談するべき案件なのは間違いない。だからここは一時保留とし、後日返事をするのが最善の選択だろう。


(それはわかる。だけど――)


 麒翔きしょうは彼女の手を振り払うことができなかった。保留という中途半端な決断で、彼女が落胆する姿を見たくなかった。誰も彼女を助けてあげられないのなら、自分が手を差し伸べるしかないと思った。ひとりぼっちの彼女にかつての自分を重ね見て――


 バシンと背中を叩いて元気づけてくれる。そんな映像が脳裏を過ったから。


紅蘭こうらん、あと一つだけ教えてくれ。妃が一人だけの群れを作ることは可能なのか?」

「可能よ。群れ内部の階級は正妃を除いて、すべてがローカル。主人と正妃の判断で、いかようにも変えられるわ」

「だったら――」


 そして麒翔きしょうは、今後の人生を大きく変える決断を下した。

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