第97話 決着。そして……

 太陽光が円形闘技場の舞台へ燦燦さんさんと降りそそぐ。

 青空の下で、観客席の群衆ぐんしゅうたちが大きくどよめいていた。


 コロシアムの壁に穿うがたれた大きな半球状の穴。

 その周囲には、濛々もうもうと土煙やら粉塵ふんじんやらの煙が立ち込めている。

 観客席から数人の教師と生徒が飛び降りた。


 少年の関係者たちだろうか。複数の人影が、少年の名を口々に叫びながら、慌ただしく駆けていく。その姿は、粉塵ふんじんの中へ溶け込むように消えていった。


 まるで他人事のように、そんな光景を呆然ぼうぜんと眺める禁軍きんぐん統領とうりょう雲嵐うんらん


 残像を引きながら放った横薙よこなぎの斬撃。誰もが目視できるほどの《剣気》を少年の脇腹へ全力で叩き込んでしまった。

 例え模擬刀の一撃だったとしても、その威力は必殺を有している。もしまともに直撃したなら、龍皇陛下でさえも仕留めることが可能だ。そもそも龍人の耐久力の枠外の話なのだ。誰も耐えることなどできはしない。


 必ず殺すと書いて、必殺。それはまさに必殺と呼ぶに相応ふさわしい一撃だった。


 ゆえに、少年の生存は絶望的だった。

 否、万に一つもその可能性はない。


 雲嵐うんらん沈痛ちんつう面差おもざしで奥歯を噛み締めた。

 学生の身分であれほどの《剣気》を扱える者など、そうはいない。百年に一人。いや千年に一人という稀有けうなる逸材いつざいに違いない。


 もし彼があのまま成長していけば、確実に龍王の席に手が届いただろう。あるいはその先も。まず間違いなく、一角ひとかどの人物に成長したはずである。

 しかし、その可能性のを自分がんでしまった。それも幼少の頃より見守ってきた、黒陽公主の婚約者を手にけてしまったのだ。それだけに己が犯した罪が許されざるものに思えてならない。


 一体、彼女にどのような申し開きをすれば良いというのか。


 目をつぶり、少年の冥福めいふくいのる。

 ビュウと寒風が通り過ぎる。戦いの余熱の残った体は何も感じなかった。


 夢心地にたたず雲嵐うんらんの眼前へ、ざわざわとどよめく群衆を背景に、母親譲りの美貌びぼうが歩んでくるのが見えた。

 りんと背筋を伸ばしたゆっくりとした歩み。

 遠目からでもはっきりわかる圧倒的な美をたずさえて、その少女は雲嵐うんらんの前へ仁王におうちになった。

 雲嵐うんらんは片膝をつき、こうべれる。


「黒陽公主」


 ふいに剣身を抜く金属音が、周囲に鳴り響いた。

 ひざまずき、頭を垂れる首筋に銀の刃がすっと置かれる。


「なぜ、水龍すいりゅういを使った?」


 どこまでも冷たく底冷そこびえするような声。感情の起伏が乏しいことで有名な黒陽公主の声には今、静かな怒りがにじんでいた。


「申し開きのしようもございません」

「なぜ使ったかと聞いている」

「未熟者ゆえに、でございます」


 少年の放った最後のひと振りは、受けも回避も効かぬ渾身こんしんの一撃だった。

 それは模擬刀とはいえ、かすっただけで絶命をまぬがれない威力。雲嵐うんらんに絶対の死を覚悟させるほどの別次元の《剣気》を秘めていた。


 ゆえの緊急回避。

 生存本能による無意識による行動。


 学生相手には絶対に使うまいと決めていた奥の手を、少年の鬼気きき迫る猛攻に気圧けおされて、つい使ってしまったのだ。


 ――未熟。

 それ以外に評す言葉を雲嵐うんらんは知らぬ。


「そうか。麒翔きしょうは強すぎたのだな。ゆえに――」


 神に愛された造形美ぞうけいびが、沈鬱ちんうつゆがむ。

 言葉は途切れ、黒陽公主は押し黙った。


 少年に駆け寄ることなく、真っすぐここへやって来たということは、彼女も悟っているのだ。生存はまずあり得ないと。


「言い残すことはあるか」


 婚約者を失った黒陽公主の怒りが、静かに響いた。

 龍皇直属の部隊である禁軍。しかもそれを束ねる統領を勝手に断罪すれば、いくら黒陽公主といえど、ただでは済まない。が、それを百も承知で彼女は剣を向けている。そして己の未熟を恥じる雲嵐うんらんもまた、抵抗する意志はなかった。


「ありません」


 首筋に置かれた剣先がすっと離れる。

 固く目をつぶり、雲嵐うんらんは静かにその時を待った。


「…………」


 しかし、いくら待っても一向に振り下ろされる気配がない。

 雲嵐うんらんの首はまだ胴体と繋がっている。いぶかしみ顔を上げると、そこには――


「――――っ」


 黒陽公主は、自らの細い首筋に長い刃を当てていた。

 その自刃じじんの構えに、雲嵐うんらんははっと息を呑む。

 闘技場の群衆も大きくどよめいた。


「幼少の頃から何かと世話になった。貴様を手に掛けることなどできん。だが――」


 銀の刃がぐっと白肌に食い込み、首筋から赤い血がしたたり落ちる。

 シミひとつない肌に躊躇ちゅうちょなく刃を突き立てにいけるのは、その覚悟の表れだ。


 雲嵐うんらんは一歩も動けなかった。動けば、即座に首がねられるであろう予感があったから。自身に刃を突き付けられた時よりも深く、彼の身は緊張にこわばった。


「お待ちください! 早まってはなりません」

「主人と命を共にするが妃の宿命」


 太陽に白刃はくじんがギラリと光る。

 薄桃色の唇が、その意志を象徴しょうちょうするかのように固く結ばれている。


「あなた様はまだ正式に嫁いでおりません!」

「いいや、私の主人は後にも先にも麒翔きしょうただ一人」


 そこで黒陽公主は遠方の空を見やった。


「元よりこの勝負、麒翔きしょうじゅんじるつもりでいた。あの人が命を賭けるというのなら、私もこの命を賭けると――そう決めていた。一人でかせはしない」


 もはやその漆黒の瞳に雲嵐うんらんの姿は映し出されていない。うつろなその眼には、制止の声も届いていないようだった。


 彼女の意識は、遥か天空の彼方かなたへ飛んでいる。


「あの人と共に歩めぬ世界に未練みれんなどない。また来世らいせで会いたいものだな、麒翔きしょう


 幽鬼ゆうきかげる美しき顔が、最後に愛する者の名を呼んだ。

 端正なまなじりから、一筋の涙が流れ落ちる。

 つかを握る両手に一層の力が入り、黒陽公主は決意に唇を引き結んだ。


「さらばだ」

「――っ、お待ちを!」


 頬を伝った涙が白タイルの床へ落ちる。

 黒陽公主は、首筋に当てた長剣を一気に引いた。


 ――ように雲嵐うんらんには見えた。

 が、その刃はブルブルと震えるばかりでその場から動いていなかった。

 黒陽公主が躊躇ちゅうちょしたのではない。彼女が長剣を引く力よりも強い力で、白刃はくじんを押さえつける者がいたのだ。黒陽公主の背後に立ち、大胆にもその剣身をわしみにする人物は言った。


「おいおい。黒陽おまえらしくもない早とちりだな」

麒翔きしょう……?」


 カランと無機質な金属音を立てて、長剣がタイルの床へ転がる。

 黒陽公主が振り向くと同時に、少年がその華奢きゃしゃな体を抱きしめていた。




 ◇◇◇◇◇


 背骨を砕かれるんじゃないかってぐらい強く強く抱きしめられて、その愛の深さに麒翔きしょうは意識を失いかけた。

 魂が抜けかけた口を閉じて、代わりに軽口を叩く。


「みんな心配して来てくれたのに、黒陽おまえだけがいなくて寂しかったんだぜ」

「わ、私は……もう駄目かと。死んだものとばかり……」


 腕の中で公主様が震えている。

 その公主様らしからぬ弱々しい姿は、彼女の見た絶望の深さそのものを象徴しているようだった。あるいは、取り返しのつかない大事には至っていなかった――そんな安堵の表れか。


 捨てられた子犬のように震え続ける公主様。

 胸板に額を擦り付けるようにして、小さな子供がするみたいにイヤイヤと首を振る。それは十五の少女にありがちな、等身大の姿だった。


「らしくないな。常に冷静れいせい沈着ちんちゃく黒陽おまえがこんなに取り乱すなんて」

「あ、あなたが――あなたを失ったら私は生きていけない。だから――」


 公主様が顔を上げた。その美しい顔は涙にれていた。

 ボロボロとそのまなじりからは涙がこぼれ落ちる。

 感情の乏しい彼女がこれほど取り乱していることに、その愛の深さを実感した麒翔きしょうは胸が熱くなるのを感じた。

 鼻頭をポリポリときながら、照れ臭そうに言う。


「それだけ愛されてるって思えば悪い気はしないけどな」


 涙に濡れた顔を指先でぬぐってやる。そして流麗りゅうれいに流れる黒髪を手でくようにして持ち上げると、首筋には痛々しい赤いあとが現れた。


「無茶しやがって。傷跡きずあとが残ったらどうするつもりだ」

傷物きずものになった女は嫌いか?」

「んなわけないだろ。例え顔に火傷やけどを負ったとしても、俺は黒陽おまえを愛す自信がある」

「ならば何も問題はない」


 公主様は無言のまま、体を預けるように麒翔きしょうの胸元へ顔を埋めてくる。


 と、そこへ。

 抱き合う二人の元へ歩み寄る影があった。漆黒しっこくの龍衣をなびかせる長身の美男子。禁軍統領の雲嵐うんらんが、遠慮気味に切り出す。


「取り込み中のところすまない。こう言っては何だが……その、大丈夫なのか?」


 その顔には、「とても信じられない」という困惑がありありと浮かんでいる。

 麒翔きしょうは苦笑するしかなかった。


「ええ。全く問題ありません。流石に、無傷とまではいかなかったけど」


 公主様に「ちょっとごめんな」と断って、麒翔きしょうは左のそでを持ち上げた。

 全身の龍衣はボロボロで、特に左脇腹の布地はビリビリに破れてしまっている。そしてきたえ抜かれた腹筋が覗く左脇腹には、痛々しい内出血のあと棒状ぼうじょうに走っていた。

 その傷跡きずあとを覗き込むようにして見た雲嵐うんらんが、驚きの声をあげた。


「本当にあの一太刀ひとたちを浴びてダメージを受けていないというのか!?」

「ちゃんとダメージは受けてますよ。ほら内出血してるでしょ」

「その程度の傷がダメージの内に入るものか!」


 黒衣のイケメンが取り乱したおかげか、公主様の方は逆に冷静になれたようで、しげしげとその傷跡を眺めている。彼女は前屈みになった姿勢のまま、その細く長い指先で内出血の跡をなぞった。


「あの《剣気》をまともに受けて、この程度のダメージで済むはずがない。とすると、何かしらの方法を使って軽減したとしか考えられないわけだが」


 チラリ、と上目うわめづかいに見てくる。そのあどけない仕草にドキッとしながらも、麒翔きしょうは頷きを返した。


「ああ。もし軽減できていなかったら、俺の体は真っ二つになっていただろう。そうしたら、そもそもコロシアムの壁まで吹き飛ばされることもなかったろうな」


 そこで公主様が上体を起こし、考える仕草を取った。


「すると《闘気》か。あの秘術だけは私にも目視することができない」

「ピンポーン! 正解。さすが、黒陽だな」

「しかし、《闘気》は《剣気》に劣るとされる失われた秘術だろう? あのような大出力の《剣気》を防げるものなのか?」

「武術が剣術に劣るのは事実だ。けど、《闘気》が《剣気》に劣るわけではない。思い出してみてくれ、斬撃の威力は何によって決まるのか」


 そこで公主様は少考し、すぐに答えを返してきた。


「斬撃の威力は[《気》の練度×武器の品質]で決まる」

「そう、その通りだ。そしてこれは《闘気》でも全く同じ理屈が通用するんだ」


 公主様が神妙に頷いた。


「……なるほど。《闘気》は肉体に宿した《気》を昇華させたもの。ならば差し詰め、打撃の威力は[《気》の練度×肉体の強度]で決まるとも言えそうだな」


 一を聞いて十を知る。さとい公主様の理解は早い。

 麒翔きしょうはズキリと痛む脇腹をさすって補足する。


「龍人の肉体は強靭きょうじんだ。名刀相手では流石に勝てないが、模擬刀相手なら負けることはまずない。つまり品質で言えば、模擬刀よりも肉体の方が上なんだ。だから、模擬刀の《剣気》と龍人の《闘気》がぶつかった場合、後者の方が有利だって話になる」

「あの刹那の間に《闘気》を高めて防御したわけだな」

「おう。流石に《気》をる時間が足りなかったから、完全には防げなかったけどな」


 見慣れぬステップにより雲嵐うんらんの姿が残像を残して消えた瞬間、全身が総毛そうけ立つほどの嫌な予感を麒翔きしょうは覚えた。目標をロストした時点で、次に来るのは不意打ちの一撃と相場は決まっている。それを考えるよりも早く直感し、行動に移した。


「全身の《気》の総量は決まってるだろ。だから瞬時に《剣気》を解除し、全身に《闘気》をまとわせて防御したんだ」


 特に《気》の気配が濃厚だった左脇腹付近は入念に。


 この瞬時の切り替えは、呼吸をするぐらい自然に《気》を操れるようになっていればこそ。毎晩欠かすことなく行っていた夜練が役に立った形だ。


 とはいえ――


「ところで、これはやっぱり……俺の負けってことになるのか?」


 一撃を貰ってしまった以上、これが模擬戦なら一本といったところだ。

 しかし、これが決闘であるのならば、勝負はまだ決していない。五体満足の麒翔きしょうはまだ戦うことができるからだ。


 この戦いは模擬刀を使ってはいるが、審判のいない決闘形式である。

 ならば、決着の線引きはどうなっているのか。そんな麒翔きしょうの疑問に答えたのは、禁軍統領の雲嵐うんらんだった。


「心配することはない。私の負けだ」

「負け? 少なくとも俺はまだ勝っていませんよ」

「この勝負、私は純粋な剣術だけで戦うと決めていた。だが現実には、君の気迫に押され、自らに課した誓約せいやくを破ってしまった。ゆえに勝ち名乗りを上げる資格はない」


 学生に負けたとなれば、禁軍統領の名に傷がつく。それを百も承知で自らの負けと断ずるそのいさぎよい姿勢に、けれど麒翔きしょうは納得がいかなかった。


「この学園の生徒は、『荒野では』とよく口にします。これは学園ではなく、龍人社会に巣立すだっていたらと言う意味で使われるんです」


 学園において。闘争は容認されているが、死亡者が出ないように十分な配慮がされている。吐息ブレスの使用禁止、魔術の使用禁止、武器の持ち込み禁止がそれにあたる。

 死というボーダーラインを超えないように、学生の間はしっかり保護されているのだ。しかしそれは、現実社会とは大きく乖離かいりした箱庭世界のルールに過ぎない。


 その状況を『ぬるい』と感じているからこそ、学生たちは『荒野では』とよく口にするのだろう。ならば、彼らに習うとすれば、


「これが荒野だったら俺は死んでいました。真剣を使った攻撃だったら、おそらくは防げなかったと思うんです。だから勝ちとするには、少し抵抗がありますね」


 謙遜けんそんではない。事実を言ったまでだ。

 が、雲嵐うんらんにくたらしいほどさわやかな笑みを浮かべて、無言のままきびすを返した。

 そしてそのまま足早に去っていく。


「――おい、ちょっと」


 追いかけようとした袖を公主様に引かれた。


「どこへ行く。私はまだ甘え足りないぞ」


 泣きらした顔はもうすっかり元通りで、いつもの無表情がそう言うのだから困ったものである。

 三百六十度、大観衆の注目が集まる舞台上での出来事だ。これ以上、この場でイチャイチャするのは避けたいところ。羞恥しゅうちプレイにも程がある。


「それに甘えたいのは私だけではないぞ。見ろ」


 公主様の指差す先には見慣れた面々が、少し距離を置いて並んでいた。

 桜華おうか紅蘭こうらん、アリス、月乃つきの……そして魅恩みおん明火めいび風曄ふうか氷理ひょうり李樹りじゅ綾奈あやな


 麒翔きしょうの視線に気が付くと、彼女たちは口々に何かを叫びながら両手を振りだした。


 公主様に手を引かれる。


「さぁ。皆のところへ戻ろう。あるじ凱旋がいせんだ」

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