第94話 円形闘技場

 禁軍きんぐん統領とうりょう雲嵐うんらんとの対決の実現は、上院の敷地にある円形闘技場えんけいとうぎじょうで行われる運びとなった。

 事前に、上院・下院の生徒たちには通達がなされ、全校生徒に招待状が送付されている。普段は行き来が禁止されている上院の敷地は、この日に限り下院生にも開放されて自由な出入りが可能となった。


 円形闘技場・一階にある選手控室。

 そこは石造りの殺風景な空間だった。部屋の片隅かたすみには机や椅子が積まれているが、ほこりをかぶってしまっている。机上きじょうを指でつーっとなぞると、綺麗きれいな木目が現れた。灰色に変色した指にふっと息を吹きかけ、麒翔きしょうは改めて室内を見回した。


「おいおい。控室として使わせるなら掃除ぐらいしとけよな」


 長いこと使われていないのか、壁に掛けられているタペストリーはあざやかさを失いくすんでしまっている。机に手を置いて体重をかけてみると、ギシシときしんだ。


 麒翔きしょうが動くたびに部屋中のほこりが舞う。

 石壁を背にした紅蘭こうらんが、わずらわしそうに空中に流動するほこりを払う。


「お母様がこの学園に赴任ふにんした時には、もうすでに使われていなかったらしいわ」


 二人して流動するほこりにうんざりしていると、控室の扉が勢いよく開かれた。

 姿を現したのは、掃除用具一式をフル装備した月乃つきのだ。


「お任せください、ご主人様。月乃つきのがお掃除しますです!」


 やる気をみなぎらせて、そう宣言する月乃つきの


 いや、と断ろうとした麒翔きしょうよりも早く、スタートダッシュを決めた月乃つきの雑巾ぞうきんがけを始めてしまった。雑巾にバケツ、それからほうきやはたき棒まで持参している。


「昨日の事なんだけどね、月乃つきのと話す機会があったのよ。控室はしばらく使われていないはずだって言ったら、掃除するんだって張り切っちゃって。ま、やらせてあげなさいよ。あんたの役に立ちたいのよ。あの子」


 タペストリーの汚れははたき棒で落とし、床に落ちたほこりほうきき取る。机と椅子には入念な雑巾ぞうきんがけが行われ、バケツの水は黒くにごった。頭からほこりをかぶり、全身が黒ずむのも気にせずに、ゴシゴシと一生懸命な月乃つきの


「手伝おうか?」

「大丈夫です! ここは月乃つきのにお任せください」


 テキパキと流れるような作業。それはまさしくプロの手際である。

 素人が下手に手を出すものではないと、部屋のすみに退散する。


「こんなにいい子が奴隷だったなんて信じられないよな」

「優れた人格者が上に立てる社会じゃないのよ」

「黒陽はどうなんだ」

「お姉様の場合は、実力が伴っているから発言力があるのよ。人格が優れているから上に立てているわけではないわ」


 二人して月乃つきの奮闘ふんとうを見つめる。れするほどに手際がよく、薄汚れた控室があっという間に生まれ変わっていく。


「まだ黒陽にもきちんと話せてないんだ」

月乃つきののこと?」

「ああ。同盟締結時に簡単には伝えたんだけどな。なぜか黒陽あいつ、下院に早く戻りたがっててさ。ゆっくり話せなかったんだよ」

「そ。じゃあ、試合が終わったあとゆっくり話せばいいわ」


 それもそうだ、と麒翔きしょうは笑う。


「桜華やアリスさんにも、月乃つきののことを説明しなければならない。ずっと群れを作らないと豪語ごうごしてきた俺の心変わりだ。幻滅げんめつされちまうかもしれないけどな」

「幻滅したいのなら勝手にさせておけばいいのよ。あんたの決断に従えないのなら、その程度のえんだったってことね」

「いや、そうは言ってもな。桜華には散々群れは作らないって言っちゃったし、アリスさんは人間だからなぁ。そんな簡単な話じゃないんだよな」


 ほこりをはたくポンポンポンという音が、室内に響いている。

 月乃つきのの作業を見つめたまま、紅蘭こうらんが言った。


「命懸けの試合だと思うんだけど。あんたはいつも通りなのね」


 麒翔きしょうは困ったように鼻頭をポリポリとく。


「実を言えば少し高揚こうようしてる。これに勝利すれば、黒陽との仲を認めてもらえるだろうしな。それに今の俺が全力を出せる相手は、もう学園にはいないから」

「そう。気力は充実しているのね」


 そこで紅蘭こうらんは腕組みを解いて、こちらへ向き直った。


「お姉様からの伝言よ。『あなたの勝利を信じている。試合が終わったら会おう』ですって。信用されているのね。不安だったら顔を見にきているはずだもの」

「おう。じゃあ俺からも黒陽に伝言を頼むわ。必ず勝っておまえを迎えに行く。だから期待して待っとけってさ」

「この戦いが終わったらってやつ?」

「おい、その言い方はやめろ。それは有名な死亡フラグだ」


 肩を震わせてクスクスと紅蘭こうらんが笑った。


「わかったわ。きちんとお姉様に伝えておくわね」




 ◇◇◇◇◇


 上院の敷地には闘技場が二つある。

 一つは、授業で使われる室内闘技場。これは上院本校舎の別館にある。

 そしてもう一つは、屋外おくがいに用意された円形闘技場コロシアムだ。


 室内闘技場の収容人数は最大で千人程度だが、円形闘技場の収容人数は最大で五万人と破格はかくのサイズを誇っている。これは学園で武術大会が開かれていた頃の名残りであり、昔は多くの招待客を呼んで、生徒同士が競い合う祭典として使われていた。


「それもこれも、今は昔。色々と問題があったみたいだね」


 円形闘技場最上部にある特別観覧席とくべつかんらんせきから、眼下に広がる一般観客席の様子を見下ろし、蒼月そうげつが言った。一般観客席にはまばらに生徒の姿がある。


 その後ろへ控えていた翠蓮すいれん公主が、静かに答える。


「他の群れの主人を賓客ひんきゃくとするのは、なかなか勇気のいる決断だったと思いますわ。けれど、それがわざわいして賓客同士でトラブルに発展してしまったようですね。平和の祭典が戦争の引き金となってしまっては、本末転倒ほんまつてんとうというもの」


「さすが翠蓮すいれんだね。博識はくしきだ」

「そんな。もったいないお言葉ですわ」

「で、だ」


 豪奢ごうしゃな椅子の上で足を組み、蒼月そうげつが本題を切り出す。その視線は、遥か下方かほうにある無人の円形舞台えんけいぶたいそそがれている。


「どうして使われなくなった円形闘技場こんなところへ全校生徒を集めたんだろうね」

「見せしめにしたいのでしょうね」

麒翔きしょうくんをかい?」

「ええ。雲嵐うんらんに敗北するところを全校生徒に見せつけることで、彼の信用を落とそうという腹積はらづもりなのでしょう」

「それは困ったね。派閥にも影響があるのではないかい」

「はい。残念ながら」


 ふむ、と蒼月そうげつは頷き、首をひねった。


麒翔きしょうくんが勝てる見込みはあると思うかい」

「万に一つもありませんわ。あれは学生の勝てる相手ではございません」

「それはますます困ったね。そもそも禁軍統領と対峙たいじして、生きて帰って来れるかどうかも怪しいところだ」

「困りましたか? それにしては楽しそうな顔をしていらっしゃいますよ、蒼月そうげつ様」


 背後に立つ翠蓮すいれん公主からは、蒼月そうげつの顔は見えていないはずである。しかし、確かに彼の口元はほころんでいた。


「私の勘はよく当たるんだがね。麒翔きしょうくんは簡単には負けないと思うよ」




 ◇◇◇◇◇


 円形闘技場の入口をくぐって、階段を上ると観客席へとつながっている。

 一方、階段を上らずに真っ直ぐ進めば選手入場口へ、途中で横道に逸れれば選手控室へと繋がっている。


 閉塞感へいそくかんすら覚える狭い石壁いしかべの通路。冷気漂う薄暗い空間に、黒衣の剣士が一人立っている。えらく顔立ちの整った長髪の美男子だ。

 名を雲嵐うんらん禁軍きんぐん統領とうりょうを務める男である。


 壁を背に佇む雲嵐うんらんの目端に、すっと影が立った。


「控室は利用しないのか」


 暗がりから音もなく現われたその人物へ、雲嵐うんらん拱手こうしゅして礼を尽くした。


「黒陽公主」


 母親譲りの絶世ぜっせい美貌びぼうを持つ少女。十五とは思えない大人の色香を放つ彼女とは、浅からぬえんがある。


「お久しぶりです。ご息災そくさいでしたでしょうか」

「本当に久しいな。昔はよく、物見遊山ものみゆさんに連れて行ってもらったものだ」


 黒陽公主の見聞けんぶんを広げるための遠征で、よく護衛のにんおおせつかったのが雲嵐うんらんだった。龍皇陛下は特に黒陽公主を溺愛できあいしており、その護衛に万全をすために雲嵐うんらんを配置したのだ。


 護衛の任についたのも、一度や二度の話ではない。よく幼い黒陽公主を連れて各地を渡り歩いたものだった。不愛想ぶあいそう雲嵐うんらんではあるが、黒陽公主も相応に不愛想だったためか、不思議と馬は合った。

 今でも、顔を合わせれば世間話をするぐらいの関係ではある。


「今日の対戦相手は、黒陽公主の婚約者だそうですね」


 黒陽公主が浅くあごを引いたのを見て、雲嵐うんらんは再び拱手こうしゅした。


「命じられた以上、真剣勝負となります。ご了承ください」

「良い。貴様の性分しょうぶんからして、手は抜けないだろうからな」

龍公りゅうこうクラスの剣術の腕とうかがっております」

「そうだな。模擬刀を使った模擬戦形式とはいえ、龍公クラスとなれば真剣とそう大差ない。幼少の頃からの付き合いとはいえ、手加減しろとは言えぬよ」


 両者の間に沈黙ちんもくが降りた。

 天井にめ込まれた光石がぼんやりと通路を照らしている。

 雲嵐うんらんわきに差した模擬刀を握りしめる。


「ですが、水龍すいりゅういは使いませんのでご安心を。あれは龍公をほふった秘技。流石に、学生相手には使えませぬ」

「ほう。だが、使わねば負けるとしたら?」


 黒陽公主の漆黒の瞳が、すべてを見透みすかすように雲嵐うんらんを覗き込む。

 人をきつけて離さない母親と同じ魔性の瞳だ。魅入みいられてはならない。雲嵐うんらんは視線を外した。


「もし仮に劣勢れっせいに置かれたとしても、絶対に使わぬとちかいましょう」


 肩に掛かった黒髪を後ろへいて、黒陽公主が薄っすら笑んだ。


「それを聞いて安心したぞ。貴様は有言実行の男だからな」

「婚約者――と言っても、私は話に聞いただけですが。彼のことを本当に信頼しているのですね。純粋な剣術勝負なら負けないと、貴方は本気でそう思っている」


 無表情だった黒陽公主の顔に、ふっと笑みが浮かんだ。


愚問ぐもんだな。私のすべてをあずけるにあたいする男だぞ」


 そう言ってきびすを返し、殺風景な通路の先へ消えてゆく。

 戦闘開始の刻限こくげんが迫りつつあった。




 ◇◇◇◇◇


 円形闘技場の観客席。五万人を収容可能な大容量の客席に、全校生徒九百名は少なすぎた。学園職員の姿もチラホラ見かけるが、それでも総員は千名に満たないだろう。要するに、五十席につき一人が収まる計算だから、人口密度がとてつもなくなのだ。その影響もあってか、全体的に試合を観戦しやすい前列の席へ多くの生徒が集まっている。


 麒翔きしょうの関係者各位。

 アリスと風曄ふうかもまた最前列の席に陣取っていた。


 風曄ふうかに連れられる形でやって来た円形闘技場。初めて見るその特大施設に、アリスはただただ感嘆かんたんするばかりで言葉が出ない。

 その全盛期には全席が埋まり、熱狂ねっきょうしたであろう光景が目に浮かぶ。その熱量は一体どれほどのものだったのか。


「あれ? 陽ちゃん、どこ行ったんだろう?」


 ひたすら広い観客席をキョロキョロと見回しながら、ポップコーンを両手に桜華が首を傾げている。その横顔は少し寂しそうだった。


「すぐに戻るとおっしゃっていましたよ」


 黒陽公主が席を外したのは、つい今しがたのことである。

 入れ違いとなった桜華が、ぶーとふくれっつらをした。


「もー、待っててって言ったのにー」


 アリスの隣では、短い足をブラブラさせながら風曄ふうかがポップコーンを頬張ほおばっている。ちなみにアリスの保護者役の彼女は、大人のレディを自称しているが、家事は一切できないずぼらな性格で、すべてをまかなうアリスに依存しつつある。


「おやおや。呑気にポップコーンなんか食べて。お祭り気分ですの?」


 明火めいび魅恩みおんが連れ立ってやってきて、風曄ふうかの隣に腰掛けた。

 三角眼鏡を持ち上げて、魅恩みおんが言う。


「さて。麒翔きしょう快進撃かいしんげきが順調すぎたせいで、面倒なことになっているわけだが」

「あのクソガキも終わりですわね。雲嵐うんらんが相手では流石に……」

「おやぁ? 明火めいび先生、心配そうな顔をしていますねぇ」

「何を言いますの! あんなクソガキどうなろうと知ったことではありませんわ」


 教師たちの不穏な会話にアリスがそわそわしだす。

 アリスは風曄ふうかから、麒翔きしょうが晴れ舞台で試合をするらしい、としか聞いていないのだ。のっぴきならぬ雰囲気に不安を感じた彼女は、ポップコーンをぱくぱくと食べだした桜華へ耳打ちした。


「あの、桜華さん」

「なぁに、アリスちゃん?」

麒翔きしょうくんは大丈夫なのでしょうか」


 そこで桜華は一瞬だけ思案顔しあんがおとなり、そしてすぐに元の能天気な顔に戻った。


「ダイジョーブ、ダイジョーブ! 翔くんはああ見えて、やる時はやる男の子なのです」


 ぐっと親指を立てて、ウインクする桜華。

 と、そこで黒陽公主が席に戻ってきた。その手にはなぜか長剣が握られており、見知らぬ男子生徒も一緒だ。三白眼さんぱくがんにライオンのたてがみを思わせるヘアスタイル。大柄の彼にアリスが会釈えしゃくすると、先方からも同じく会釈が返ってきた。見た目は怖いけれど、きちんとした人のようだ。


「もー、陽ちゃんどこ行ってたのー」

「すまん。旧友と会っていた」

「その人は?」

「この男は獅子天ししてん強面こわもてだがなかなか気骨きこつのある男だ」


 獅子天ししてんと呼ばれた男の子が、顔を赤らめてうつむいた。アリスはすぐにピンと来た。強面だけれど、思春期の男の子なのだ。


 次から次へと最前列の客席に人が集まってくる。

 がやがやとにぎやかになってきた。


氷理ひょうりさん、氷理ひょうりさん。お祭りみたいですね」

「そうだねえ。この施設を使うのは何十年ぶりかなぁ」

「ふん。貴様の頭の中は年中お祭り騒ぎだろうが」


 見慣れぬ三人の女教師の姿まである。

 と、そこに紅蘭こうらんが見知らぬ女子生徒を連れて合流した。おどおどとしているけれど、可愛い女の子だ。おっぱいがかなり大きい。


 もしかしてこれは、新しいハーレム要員なのか――と、アリスは内心でドキドキしながら妄想をふくらませた。実際そうなので、だいたい合っている。


「お姉様。あいつのコンディションは良好のようです」

「はいです。ご主人様はやる気満々でした!」

「そうか。ならば何の心配もいらないな」


 紅蘭こうらんと見知らぬ女子生徒からの報告を受け、黒陽公主が満足げに頷いた。


 と、その時だ。

 最前列に陣取っていた多くの女子生徒たちから歓声が上がった。


 選手入場である。

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