第92話 将妃・烙陽の思惑

 首都・黒帝城こくていじょうにある龍皇りゅうこうの住まう宮――中央宮殿。

 謁見えっけんの間から繋がる回廊かいろうの先には、鳳凰閣ほうおうかくと呼ばれる龍皇の居所きょしょがある。


 龍皇の暮らす鳳凰閣へ出入りできるのは、専属の侍女を除いては、六妃だけである。六妃の中でも特に往来おうらい頻繁ひんぱんなのは、最大権力を握る将妃・烙陽らくようだった。黒陽公主の母であり、魔性ましょう美貌びぼうを持つ彼女は、十万の群れを率いる立場というのもあり、鳳凰閣をよく訪れる。


 その日も、烙陽らくようは小事を済ませるべく、鳳凰閣へおもむいていた。お付きの侍女は引き連れていない。単独での来訪だ。

 龍皇付きの侍女から申し入れられた取次をやんわり断り、我が物顔で敷居をまたぐ。


 鳳凰閣には多くの部屋が用意されているが、日中であれば大概は、夫は書斎にびたっている。ゆえに烙陽らくようは、寄り道抜きに書斎へ向かう。本日の来訪理由を考えれば、二人だけでゆっくり話せる書斎は都合が良い。


 しかし、書斎の扉を開けてすぐに烙陽らくようはげんなりした。

 脱ぎ捨てられた龍衣が床に散乱していたためだ。全体に龍が刺繍ししゅうされた豪華ごうか絢爛けんらんな龍衣は、龍皇だけに許された特別なもの。権威けんい象徴しょうちょうである。


 それらを拾い集めながら、烙陽らくよう吐息といきを挟む。

 視線の先には、薄い内衣ないえ一枚になった男が読書をお楽しみ中だった。


「あなた。いくら居所とは言え、侍女の目もあるんですから、きちんとした格好をしてくださいよ。これでは龍皇としての威厳いげんが失われてしまいます」


 小言を言いつつも、拾い集めた龍衣をまとめて脇へ置く。その際、最奥の壁に掛けられた肖像しょうぞうが目に入る。写真と見紛みまがうほど精巧せいこうに描かれた肖像画だ。柔和に微笑む女性が描かれている。


 烙陽らくようは小さく舌打ちした。

 書物から顔を上げ、黒煉こくれんが困ったような顔をする。


「固いこと言うなよ。金糸きんし銀糸ぎんしをふんだんに使って刺繍するのはいいが、あれじゃ肩がって仕方がないぞ」

「いつまで子供みたいなことを言ってるんですか。まったく、あなたは昔から何も変わりませんね。まぁ、そこが良いのですが」


 夫の隣に座り、頬を赤く染めた烙陽らくようがしなだれかかる。

 群れを旗揚げして数百年。黒煉こくれんとは学生時代からの付き合いで、苦楽を共にしてきた仲だ。自然、二人の心理的な距離は近い。


「それで? 今日は何の用だ。辺境における蛮行ばんこうに関してなら、すでに禁軍きんぐんを送ってある。おまえは対応しなくていいぞ」


 禁軍きんぐんとは龍皇直轄ちょっかつの精鋭部隊のことである。

 龍皇の群れでは三つの派閥からなる戦力が存在する。一つは、将妃・烙陽らくようひきいる領土なわばりを守護する軍事部隊。一つは、忠妃ちゅうひ率いる都の治安維持部隊。そして最後に、龍皇率いる精鋭部隊が禁軍きんぐんだ。


 烙陽らくよう率いる軍事部隊は九千人。忠妃ちゅうひ率いる治安維持部隊は千人。そして禁軍きんぐんはたったの二百人である。


 では、禁軍きんぐんとはいかなる部隊なのか。


 通常、一つの群れに龍人男子は一人、もしくは二人までが定員の上限である。しかし、龍皇の群れでは龍人男子を積極的に迎え入れる政策を取っている。これは他に類を見ない画期的かっきてきな試みであり、基本的に奴隷を持たないという方針も含めて、龍人社会では初。革命的なシステムだった。


 そして迎え入れた龍人男子たちを集めて発足ほっそくさせたのが、龍皇直轄の精鋭部隊・禁軍きんぐんなのである。


 男は女より強くて当たり前。それが龍人族の常識であるから、禁軍きんぐんの戦力は、忠妃ちゅうひ率いる治安維持部隊千人よりも高いと推定されている。


「その禁軍きんぐんの件で、あなたに相談があるのよ」


 繰り返すが、禁軍きんぐんは龍皇直轄の精鋭部隊である。

 その運営に口を出すのは、軍務の最高司令官たる将妃しょうひと言えどもご法度。黒煉こくれんの顔が曇った。

 慌てて烙陽らくようが言い添える。


禁軍きんぐん本体を動かしてほしいって話ではないのよ。ただ一人。そうただ一人だけ、しばらくの間、私たちに貸してほしいの。駄目かしら?」

「私たち?」


 書物を机へ置き、手持無沙汰となった黒煉こくれんが首をひねった。


「そうよ。私と青蘭せいらんに貸してほしいの」

「とすると、黒陽絡みの案件か」


 よわい二百も半ば。外見年齢は二十代後半。精強せいきょうな顔つきの黒煉こくれんは、上向きに天井を眺めながら顎髭あごひげいじる。


「なぁ、烙陽らくよう。別にいいじゃねぇか。好きな男に嫁がせてやれよ」

「そうもいかないでしょう! 剣術だけが取り柄の男なんかに、あの子を任せられるものですか」


 そこで黒煉こくれんは体を斜めにし、部屋の最奥へ視線を投げた。


「黒陽が選んだ男だぞ。ただの剣術馬鹿とも思えんがな」

「ただの剣術馬鹿だから困っているの!」

「本当にそれは客観的に見てのことか? おまえは常々、子供たちに言い聞かせているだろう。物事は、一歩引いて全体を見ろってな。何か変な主観が入っていて、それがおまえの目を曇らせている――その可能性はないか?」


 問われ、烙陽らくようは押し黙った。

 黒煉こくれんの視線の先を追い、それを視界に収めて溜息をつく。


「だからこそ、ここで証明するべきだと思うのだけれど」

「ふうむ」


 唸る黒煉こくれんは思案顔だ。その迷いを察知し、烙陽らくようが畳みかける。


「あの子の話では、婚約者は龍公クラスの剣術の使い手という話なのよ」

「龍公クラス? 相手は学生なのだろう?」

「そうよ。だから私も信じていないわ。けれど、もし本当だったとしたら?」

「そりゃ凄いが……にわかには信じがたいな」

「だからこそ、その確認のために禁軍きんぐん統領とうりょうを貸してほしいのよ」


 禁軍きんぐんを束ねる統領とうりょうを貸してくれというのは、随分と踏み込んだ要望である。

 統領が不在の間、禁軍きんぐんを動かすことはできないだろうから、実質的に龍皇の手足をぐようなもの。穿うがった見方をすれば、謀反むほんとも受け取られかねない。


 もしこれが人間の国であれば、疑り深い皇帝の怒りを買いかねない危険な言動だ。下手をすれば命を落とすことだってありえる。

 しかし、龍人の感覚はまるで違う。修羅場を共に潜り抜けてきた妃は、妻であり、戦友であり、大切なパートナーなのだ。裏切ることなど絶対にありえない。その信頼関係があるからこそ可能な強気の提案だった。


 とはいえ、それは越権えっけん行為に違いないので黒煉こくれんの顔は渋い。


「俺は別に、政略結婚なんて望んでないんだけどな。娘が幸せになってくれるなら、なんでもいい」

「あなたがそうやって甘やかすから、あの子がつけ上がるのよ」

「だいたい剣術馬鹿の何がいけないんだ。そういう例外があることは、おまえだって知っているだろう」


 厚い胸板に寄せていた身を離し、べにの引かれた唇へ細指を持っていく。そのまま烙陽らくようは、すっと目を細めて愛する夫を見つめた。


「ねえ。あなたこそ、変な主観が入っていないかしら?」


 黒煉こくれんの目が一瞬だけ泳いだ。その変化を長年連れ添った妻が見逃すはずもない。烙陽らくようは大きな溜息をついた。


「やっぱり、まだ忘れられないのね」


 気まずげにそっぽを向く黒煉こくれん。本当に学生の時のまま、この人は何も変わっていない。何もかも、甘いところまで含めてすべてが。


「そんなあなたのことを好きになってしまったのだから、仕方ないわね。私は未だに一番になれないのかしら」


 悩ましげに吐き出される吐息といきげな様子が琴線きんせんにでも触れたのか、黒煉こくれんが「仕方ねえな」と言って首を振った。


「三日間だ。禁軍きんぐんが現在の任務を終えて帰還したら、三日間だけ貸してやる。それでいいか?」


 烙陽らくようは倒れ掛かるようにしてたくましい体に抱き着いた。そしてそのまま押し倒し、割れ目の入った腹筋の上へ馬乗りとなる。


「あなた。愛してるわ」

「おい、ちょっと待て。まだ昼間だぞ」

「別にいいじゃない。侍女に見られたから何だというの」

「龍皇の威厳はどこいった」

「たまには子作りとは関係のない純粋なスキンシップも必要だと思うの」


 たくましい夫のそれを感じながら、烙陽らくよう恍惚こうこつに笑んだ。

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