第89話 上院最大派閥の誕生

 黒板にびっしり書き込まれた白チョークの文字。

 目をらさなければ判別すら難しいその文字列を、せっせと月乃つきのがノートに書き写している。


 氷理ひょうり教諭の板書ばんしょは神経質なほどに細かく、しかもその文量がえげつないほど多いので、生徒たちにはたいへん不評だ。麒翔きしょうに至ってはそのすべてをノートに取ることは諦めており、要点だけを書き写すようにしている。それは他の生徒も同じなのだが、月乃つきのだけは違った。彼女は一言一句たがえないよう丁寧に書き写している。


 授業終了を告げる鐘はとっくに鳴っており、生徒で賑わっていた教室はがらんと静まり返っている。麒翔きしょうたち以外に人影はない。


 静謐せいひつなる学びに、月乃つきのの走らせる羽ペンの音だけがカリカリと響く。

 真剣な眼差しでかじりつくように机へ向かう月乃つきの。黒板とノートの間を熱心な視線が何度も往復し、流麗りゅうれいなペンさばきで次から次へと文字が書き込まれていく。


 勤勉な少女の頭を撫でてやりたくもなるが、流石に邪魔になるかと思い、麒翔きしょうは自重した。前方の黒板へ視線を投げ、ぼんやりと考える。


 蒼月そうげつとの同盟締結から二週間が過ぎた。

 この二週間で上院には大きな変化があった。同盟を機に、上院最大派閥が誕生したのである。


 元々貴族社会では、力ある龍人に対しては敬意を払い、友好的に立ち回るのが常道らしい。強者との対立は、利よりも害の方が大きくなるためだ。好戦的な性分を持つ龍人だが、貴族たちは己の闘争心を抑える術を知っている。


 上院生が早い段階で麒翔きしょうを認め、友好的な態度を取り始めたのは、このような事情が絡んでいたためでもある。


 そして貴族の令息・令嬢が集まる上院においては、強者と友好関係を築き上げて派閥を作っていくのが習わしで、通常は各学年の首席を中心に人が集まり、大きな三つの派閥が出来上がる。しかし、蒼月そうげつとの同盟はこの枠を飛び越え、一年二年合同の巨大派閥を作り上げるまでに至った。


「当然さ。黒陽公主は上院の首席だったからね。獅子天ししてんくんに勝利した君と合わせれば、首席が二人いるようなもの。そこに私と翠蓮すいれんが加われば、今までなびかなかった生徒でさえも取り込めるようになる」


 とは、最大派閥の誕生に気を良くした蒼月そうげつの言葉である。


月乃つきのをダシに脅した件については謝罪しよう。だが、汚い手を使ってでも君との同盟を締結させる必要があった。信じられないかもしれないが、それだけ君を高く買っているという言葉に嘘はないのだよ」


 上院での外交は、遊びではないのだと蒼月そうげつは語った。


「派閥内での親交は卒業後も続き、荒野でのライフラインとして機能する。派閥の規模がそのまま生存率に直結する関係上、それだけでも麒翔きしょうくんとの同盟は値千金の価値があったのだ」


 派閥といっても誰がリーダーとは明確に定められていない。これは群れの独立性を担保するための慣習かんしゅうで、派閥内で上下の格付けは行わないのが通例だ。派閥はあくまで、群れ同士を繋げるコミュニティという位置付けなのだ。


 とはいえ、麒翔きしょう蒼月そうげつの同盟が求心力となって出来上がった派閥であるから、彼らの発言は派閥全体に大きな影響を与える。

 奴隷への待遇改善を呼びかければ、麒翔きしょうたちとの関係悪化を望まぬ者たちは、渋々ながらも応じるしかないのだ。その効果は、公主様が一人で「力ある龍人の義務」を呼びかけていた頃よりも遥かに絶大だ。


「力さえあれば、龍人社会はいかようにも変わりますわ」


 これは数日で上院が様変わりした際に、翠蓮すいれん公主が残した言葉だ。

 成龍おとなとなり大きな群れを運営するようになっても、それは変わらないのだと彼女は言う。貴族間の繋がりは密接で、敵対したくない場合は相手の意向いこうんでやらねばならない。意見が対立した時、戦争は起こる。

 あるいはそれは、人間社会も同じなのかもしれない。が、龍人社会における戦争の引き金は、少し触れただけで引かれてしまうほどに軽い。


 だからこそ同盟を結び、全方位を敵に回さないように努力するのだそうだ。

 そして力のある龍人は、外交で常に有利に立ち回ることができる。学園での外交ごっこは、龍人社会の縮図しゅくずそのものなのだ。


「もうあんたを馬鹿にできる奴なんていないわ。この調子なら、卒業後も順風満帆じゅんぷうまんぱんにいくんじゃないかしら。さすがお姉様の……ううん、なんでもないわ」


 これは紅蘭こうらんの言葉。少し照れ臭そうに言っていたのを付け加えておく。


 上院最大派閥の中心人物。

 もはや、麒翔きしょうのことを平民だと嘲弄ちょうろうする者はいない。

 半龍人だと蔑む者もいなければ、適性属性がないことを笑う者もいない。

 下院では未だに麒翔きしょうのことを馬鹿にする者も多くいるが、上院においては真逆な結果となった。貴族の令息・令嬢たちは、麒翔きしょうとの友好路線へとかじを切ったのだ。


 ふと、月乃つきのが顔を上げた。

 チラリとノートを覗き見たところ、まだ全部は書き写せていないようだ。

 息抜きも必要だろうと考え、麒翔きしょうは話を振った。


「下院の男子は馴れ合わないんだよ。上院はまさに別世界って感じだな」

「ご主人様。下院に外交はないです?」

「ああ、自分以外の男は全部敵って考え方が主流だ」

「それでは長生きできないです」

「教養の違いなのかもな。貴族たちは生まれてからずっと英才教育を受けてきた。だから龍人の本能が戦えとささやいても、それを退しりぞけるだけの理性と知性を備えている。むしろその考え方は人間寄りだ」


 人間社会でも教養の差は如実にょじつに表れる。

 それは読み書きであったり、豊富な知識であったり、立ち振る舞いであったりと内容は様々だが、生きて行く上で有利に働くのは間違いない。


「だが一方で、平民にはその教養がない。するとどうなるのかと言えば、龍人の本能のまま殺し合うわけだ。必然、生存率が低くなる。そう考えると紅蘭こうらんの懸念も、もっともだったわけだな。俺ももう少し、自分をぎょせるようにならないと」


 貴族社会のイロハを学び、自分を変えようとする前向きな発言である。麒翔きしょうとしては自身の行いをかえりみたつもりだったわけだが、その殊勝しゅしょうな姿勢に珍しく月乃つきのが異をとなえた。


「いいえ、ご主人様。月乃つきのが救われたのは、ご主人様が貴族の常識にとらわれていなかったからです。月乃つきのは、自由な発想のできるご主人様のままで居てほしいです」


 ぐっと両手を握って、そう力説する月乃つきの

 もう一度、麒翔きしょうはぼんやりと黒板へ視線を向ける。


「そういや、黒陽も似たようなことを言ってたっけ」


 同盟締結ていけつ署名しょめい捺印なついんのため、麒翔きしょう、公主様、蒼月そうげつ翠蓮すいれん公主が一堂に会した時の出来事。

 独断で同盟締結を決めてしまったことに、麒翔きしょうは負い目を感じていた。そんな彼に、公主様は鼓動こどうを確かめるように胸に手を当ててこう言った。


「あなたが正しいと思うことをすればいい。私はあなたがいかなる決断を下そうとも、全力で補佐していくつもりだ」


 蠱惑こわくに開かれた薄桃色の唇が、いじらしくそんな事を言う。久しぶりに見る恋人は相変わらず美しくて、意志の強そうな漆黒の瞳は麒翔きしょうの前では無防備にほうけている。

 気が付けば、人前であることも忘れて、その細やかな肢体したいを全力で抱きしめていた。久しぶりに感じた彼女の体温と、ほのかにかおる甘い匂い。胸板にひたいこすりつけるようにしてうつむく公主様の顔は、薄っすら赤らんでいた。


「人間社会で生まれ育ったあなたにしか、出来ない決断がある。月乃つきのの件もそうだ。これからの時代をあなたと共に歩んでいけることを、私は誇りに思っているぞ」


 貴族の常識を学び、知識を増やすことで生存率は高くなる。

 しかしそれは同時に、貴族社会のルールに染まるということを意味する。例えば、奴隷を当たり前の存在だと認識してしまえば、助けようという発想そのものが浮かんでこなくなる。長らく月乃つきのが我慢をいられてきたのは、これが原因だ。


 そしてその如何いかんともしがた閉塞へいそくを打ち破れるのは、常識に疑問を持てる異端児いたんじのみ。異なる価値観を持つ麒翔きしょうだからこそ、革命は叶うのだと公主様は言った。


「黒陽様は、お優しい方でした」


 月乃つきのの声に、麒翔きしょうは回想から顔を上げた。


「黒陽が受け入れてくれて良かったよ」

「はいです。共に我らがあるじを支えていこう、一緒に群れを盛り立てていこうと言っていただけたです。です」


 興奮気味に話す彼女の目元には、大粒の涙が溜まっていた。


「だから月乃つきのは、一生懸命勉強してお役に立てるように頑張るです!」

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