第79話 奴隷制度

 坊ちゃん刈りの品の良さそうな少年に見えた。

 龍人族の例に漏れず、整った顔立ちをしている。育ちの良い坊ちゃん貴族。その男から受ける印象はまさしくそれだった。

 黒地くろじ青地あおじの布を組み合わせて織られた絢爛けんらん龍衣りゅういを着こなし、優美に談笑する様は貴公子そのもの。ただし、その尻にく少女を除けばの話ではあるが。


「おい、やめろ。女の子を足蹴あしげにするっつーのは、どういう了見りょうけんだ」


 横合いから入ったその制止に反応したのは取り巻きの女子生徒たちだけで、前髪を横一文字に切り揃えたその少年は、麒翔きしょうを無視して談話を続けた。目を丸くする女子生徒たちを無視して、笑顔でしゃべり続けるというどこまでも人を舐め切った態度に、麒翔きしょうは苛立ちその肩をつかみにかかる。


「おい、無視してんじゃ――」


 肩に揺れようかという瞬間だった。

 嫌な予感がして手を引っ込めると、その指先を掠めるようにして真空のかまいたちが断頭台のように落ちてきた。ぎょっとして、麒翔きしょう固唾かたずを呑む。


「汚い手で触れないでもらえるかな」


 振り返りもせずに坊ちゃん刈りの少年が静かに言った。

 それを開戦の合図と解釈した麒翔きしょうが、バキバキと指を鳴らす。


「上院では魔術の使用も解禁されてんのか?」


 そこでようやく少年が振り返った。琥珀こはくの瞳がつまらなそうに開閉する。


「無論、魔術の使用は禁止さ。けれど、魔術の使用が禁じられているのは貴族に対してであって、平民やあるいは――」


 四つんいになった少女の背でふんぞり返りながら、少年は左手で彼女の首筋をそっと撫でた。少女がビクッと身を震わせた瞬間、不意に彼の掌から発生したのは微弱な風の吐息ブレス突如とつじょ中空に発生した風の刃が、バシュッと髪の毛の一部を切断。流麗りゅうれいに流れる黒髪がバサリと大理石の床へ落ちて広がる。


「特に、奴隷風情には適用されない。というのが僕の見解さ」


 ――髪は女の命。

 ふと母の言葉が脳裏に過った。


「どうしてそこまでする? 彼女がおまえに何かしたって言うのか?」

「奴隷とは云わば物なんだよ。所有物や財産としてカウントされる。それは人間社会だって同じだろう? 僕にとってこれは、人形の髪を切るようなもの。たわむれなのさ」


 奴隷だから。その一言で納得できるほど十五歳の少年はれていない。

 まるで着せ替え人形を扱うかのような物言いに、麒翔きしょうは不快感を隠せなかった。


「龍人は群れを守る種族なんだろ。だったら、平民だとか奴隷だとか関係なく女の子は守るべき対象なんじゃないのかよ」


「ほぉん、君は世間知らずなんだねえ。たしかに僕らには群れを守る義務がある。けれど、奴隷に限っては例外さ。いいかい? 奴隷というのは、群れ同士の闘争における敗者に与えられる称号なんだよ。つまり彼女は、いや彼女の親はかつて僕らの敵だったわけさ。互いの全存在を賭けて殺し合い、そして彼女の群れは負けた。それでも命を奪うことなく、温情をかけて奉仕ほうしさせてやっている。むしろその寛大な措置に、感謝して貰いたいぐらいだね」


 奴隷とは、闘争における敗者に与えられる称号――なのだとすれば、それは人間社会で定義される奴隷とは、少しだけ異なる存在であるように思える。

 紅蘭こうらんは言った。これは教師でさえ口を挟めないデリケートな問題なのだと。


「その子は、おまえの大切な人のかたきだとでも言うのか?」


 一番の懸念点は個人間こじんかんでの遺恨いこんの類だ。例えば、彼女に母親を殺されたとなれば、彼の理不尽な対応も感情の面では至極しごく妥当だということになる。

 が、彼から返ってきたのは驚くほど感情の入らない否定だった。


「いいや、違うよ。幼い頃から彼女は奴隷だったからね」

「だったら! 俺たちは同じ龍皇の群れに所属する仲間だろ。過去の遺恨いこんはあるかもしれないが、学生でいる間ぐらいその考え方を改めることはできないのか」

「彼女はね、僕の世話をさせるために連れてきた奴隷なんだよ。学園にもきちんと許可は取ってある。その所有権が僕にある以上、君の出る幕はないね」


 少年の背後。あられもない姿でいることを余儀なくされた少女は、落とされた自慢の髪を呆然と見つめている。長い前髪から見え隠れする瞳は寂しげで、目元には薄っすら光るものがある。その無念をおもんぱかって、麒翔きしょうは歯を食いしばった。


「もし、それを許容できないと言ったら?」

「ふーむ? 僕とやり合おうって言うのかい?」


 麒翔きしょうの瞳の奥底にギラリと雷光のようなスパークが走る。


「こんな姿を見せられて、このまま引き下がれるわけないだろ」


 少年が少女の背から立ち上がった。

 琥珀の瞳がつまらなそうに開閉し、なぜかその視線は麒翔きしょうではなく、四つん這いの少女へ向けられている。そして――


「くはっ……」


 何の躊躇もない自然な動作で、少女の腹部を無慈悲に蹴り上げた。華奢な体がくの字に曲がり、宙へ浮く。声にならない苦悶が口から吐き出され、そして少女はそのまま地面へ転がった。


「物に感情移入するのはよくない」


 頭の中で、堪忍袋かんにんぶくろが切れる音が聴こえた。


「いい度胸だ。相手になってやるよ」

「すごい自信だね。身の程知らずも大概にしときなよ」

「別にいいんだぜ? さっきみたいに魔術を使っても。ただしその時は、手加減してやらねえけどな」

「わかってないね。仮に僕に勝利したところで彼女は自由にならないよ」

「おまえの方こそ鈍いんだな。彼女をいじめる余裕もなくなるぐらいボコボコにしてやるっつってんだよ」


 一触即発のビリビリとした空気が二人の間に流れ、取り巻きの女子生徒たちも居心地が悪そうにそわそわしだした。そこで少年が麒翔きしょうから視線を外し、後方にいる紅蘭こうらんへ琥珀の瞳を向けた。


「ふーん、なるほど。蒼月そうげつ兄さんの誘いをそでにしておいて、この男には肩入れしているのかい。紅蘭こうらんさん」

蒼月そうげつには翠蓮すいれん公主がついてるでしょ。その時点であたしとは縁がなかったのよ」

「へえ。とすると、君が追従するこの男こそが、黒陽公主の見初みそめた相手というわけだ」


 公主様の婚約者。その事実に、取り巻きの女子生徒たちが大きくどよめいた。


「一応、警告しておいてあげるわ。こいつ強いわよ」

「男嫌いの君がそこまで言うとはね……なるほど、吐息ブレスの授業で無茶をやったという噂は、どうやら本当らしい」


 そこで少年は優雅に一礼した。


「僕の名前は蒼雪そうせつ。龍王・蒼絶そうぜつの息子。格としては黒陽公主に一歩劣るが、名門中の名門の出だよ。どうだい? これでもまだ手を出すつもりかい?」

「あ? 龍王だか何だか知らねえが、だったらどうした。龍人族に世襲せしゅうは存在しない。身分は自分の手で掴み取るものだって、俺のダチも言ってたぜ。おまえも男なら、親の威光いこうかさに着るんじゃなくて、自分の力でどうにかしてみせろよ」


「ほう……無知ゆえの強気なのか、全てを知った上で大言を吐いたのか。とても興味深いところではあるね。少し君に興味が湧いてきたかもしれない」

「女の子をしいたげるような奴に、俺は興味がないけどな」

「ふふ、嫌われたものだね。しかしそうだな。条件次第では、彼女を虐げるのをやめてやってもいいよ」


 いつでも飛び掛かることのできる前傾姿勢。獣を彷彿ほうふつとさせる臨戦態勢りんせんたいせいに入っていた麒翔きしょうの眉が、ピクリと反応した。


「そうだね。こんなのはどうだい。君は今ここで、僕のサンドバッグになるんだ。魔術は使用しない。使うのは模擬刀一本だけ。君は無抵抗のまま僕の振るう模擬刀に蹂躙じゅうりんされるわけさ。その代わり、一発につき一日だけ、彼女を虐げるのを止めてあげるよ。つまり、卒業までの残りの日数分、僕の攻撃を耐えきれば、晴れて君の望みは叶うわけだ。どうだい? これなら確実に、彼女を守ることができるよ」


 絶対に呑めないと確信しての提案。少年ははなから、この提案は受け入れられないだろうと高を括っている。これは譲歩したていの挑発である。そのことを重々承知した上で、麒翔きしょうは不敵に笑んだ。


「ほう? 面白い提案だな」

「奴隷を解放したいのなら、そのぐらいの誠意を見せてもらわないと困るかな」

「いいぜ」

「え?」

「おまえの提案、受けてやるよ。ただし、絶対に約束は守ってもらうからな」




 ◇◇◇◇◇


 フードコートのテーブルを脇へとどかし、開けた大理石の床面へ一人の少年が立っている。なんの変哲もない黒髪の少年だ。


 蒼雪そうせつは模擬刀のつかを握り締めた。

 これから行われる一方的な暴行に対し、少年はまるで動じていない。想像力が欠如けつじょしているのか、それとも――


「君は僕のことを舐めているのかな。一応、これでも一学年男子・第二位の実力者なんだけどね」

「一年の第二位か。悪くない相手だ。けど、俺の目的地はもっと高い場所にあるんだ。このぐらいのハンデはくつがえしてみせないとな」


 下院で成り上がった平民風情――それが彼に対する蒼雪そうせつの認識だった。それがどうだ。圧倒的に不利な条件をあっさり呑んでみせた。気合でどうにかしてやる、とか少年が発しているのはそういう根性論的な雰囲気ではない。明らかな勝算のある余裕が彼を取り巻いているのが見える。蒼雪そうせつはそれが不愉快でたまらなかった。


「自分の方が格上だと、そう言いたいのかい。君は」

「ま、平たく言うとそーゆーことだな」


 貴族の令息として相応しい余裕の仮面が、揺らぐのを蒼雪そうせつは感じた。


 蒼雪そうせつは《剣気》を習得できていない。しかしそれでも、蒼雪そうせつの振るう斬撃をまともに食らえば、タダでは済まない――せいぜい十発持てばいい方だ――と、高を括っていたのだが、


「どうやらこれは、手加減などせずに最初から全力でぶっ叩いた方が良さそうだね」

「おう。胸を借りるつもりで遠慮なく来い」

「ぐっ……」


 ギリッと奥歯が鳴った。

 どうして自分はこのような平民風情に舐められているのか。


(思い知らせてやる……!)


 生まれて初めて感じた屈辱くつじょくをバネにして、蒼雪そうせつの集中力はいつになく高まった。すると、全神経を集中して模擬刀に込めた《気》が、薄っすら橙色に揺らめいた。


(これは……もしかして、《剣気》? 蒼月そうげつ兄さんと同じ高見へこの僕も到達できたというのか……?)


 薄っすらと頼りなく揺らめいてはいるが、それは間違いなく《剣気》だった。突如覚醒したその境地に歓喜し、蒼雪そうせつは邪悪な笑みと共に模擬刀を振りかぶる。剣術などという高尚こうしょうな構えではない。大きく振りかぶられた模擬刀は、容赦のない水平の横薙よこなぎとなって余裕に佇む少年の右側頭部を打ち据え――




 ◇◇◇◇◇


「陽ちゃんいつもより寂しそう」


 ボロ小屋の長机に頬杖をついて、桜華が退屈そうに言った。対面に座る黒陽はコクリと頷くと、分厚い書物からその美しい顔を上げる。


麒翔きしょうに会えないのは思っていたよりも辛いな」

「わたしのことなんて放っておいて、陽ちゃんも行ってきていいんだよ」


 黒陽はゆるゆると首を振ると、書物をパタンと閉じた。表紙には「呪術大全」と記述されている。


「桜華を一人残しては行けない」

「でも、わたしは――」

「強がる必要はない。一人になったらきっと孤独を感じるはずだ」

「わたしは小さな子供じゃないんですけどー」

「大丈夫だ、安心しろ。だから私がついている」

「むー、話が通じないー」


 栗毛を揺らして、桜華が窓の外へ視線を向けた。


「今日はアリスちゃんも来ないね」

「おそらく風曄ふうか教諭の世話でも焼いているのだろう」

「助手も大変だねー」


 そこで桜華は溜息をつくと、視線をこちらへ戻した。その目はいつになく真剣で、普段のおちゃらけた雰囲気が含まれていない。


「翔くんのこと、心配じゃないの?」

「ああ。全く心配していない」

「どうして? 勝手知ったる下院とは違うんだよ」

「今日はまだ紅蘭こうらんが姿を見せていないだろう? だからきっと今頃は、紅蘭こうらんが上院を案内しているはずだ」

「だとしても、だよ。上院はこっちとは規則が違うんでしょ。翔くんは不器用だから、きっと上院生とだって揉め事を起こすだろうし、先生にだって逆らうと思う。陽ちゃんがそばに居てあげれば、そういう火種を回避できるんじゃないかな」

「桜華」


 黒陽は無表情のまま、親友の顔を真っすぐ見返した。


「私は、麒翔きしょうが活躍できるように舞台を整えた。その舞台をどう活用し、そしてどうやって踊るのかは、麒翔きしょう自身が決めること。私が口を挟む問題ではない」

「でも、翔くんは危なっかしいところがあるから……だから」

「桜華は優しいな。麒翔きしょうのことが心配で仕方がないんだな」

「じゃなくて! わたしはただ……」


 素直ではない親友が愛おしくて、いつもの無表情が少し和らいだ。


「私は思うのだ。主人に尽くすが妻の役目。されど、主人を信じて待つこともまた妻の役目なのだと。われらが主人は、この程度で潰れるような玉ではない」

「うー、すごい信頼だね。翔くんが負けることを少しも疑ってないんだね」

「無論だ。私の惚れた男は生まれてこの方、麒翔きしょうただ一人。並みいる優秀な貴族の令息たちではなく、何の肩書きも持たぬあの人だけなのだ」

「そんなに……貴族の令息たちと比べた上で、翔くんってすごいの?」

「ああ、その力は私でさえ計り知れぬ高見にある。今頃はもしかすると、その力を存分に振るっている頃かもな」


 桜華に習って、黒陽も窓の外を見た。

 すると、愛する男の栄光を讃えるかのように、差し込んだ太陽光が眩く明滅した。




 ◇◇◇◇◇


 横薙よこなぎの剣閃けんせんきらめき、橙色の《剣気》が横一文字に空間を切り裂く。木製でできた剣身が少年の側頭部を打ち据えようとした瞬間、蒼雪そうせつがイメージしたのは巨大な石柱だった。それもただの石柱ではない。黒龍石こくりゅうせきの石柱だ。世界最高硬度の黒龍石へ向けて剣を振るった時のような、強い負荷が腕にかかったのだ。


 強い衝撃が腕から肩を伝わって全身へと広がり、体に薄っすらしびれが残る。


「ぐっ……あぐ……な、なぜだ。どうして僕の方がダメージを受けている」


 模擬刀を握る右腕が、プルプルと震えている。


 跳ね返された。それは間違いない。だが、どうやって? その方法が問題だ。

 黒髪の少年はポッケに手を突っ込んだまま、余裕の表情を崩していない。誰がどう見ても無傷である。しかるに、ダメージを受けたのは自分だけ――瞬時に、蒼雪そうせつはそこまで思考した。しかし、すぐにかぶりを振り、


「馬鹿な。未熟とはいえ《剣気》を宿した模擬刀を受けて、無傷でいるなんてありえない! だいたい僕が受けた衝撃と同程度の衝撃は君にも伝わったはずだ。それなのにどうして、一歩も退かずに立っていられるんだ!!」


 貴公子然きこうしぜんとした余裕は崩れ去り、蒼雪そうせつ脇目わきめも振らずにわめらした。

 そんな醜態しゅうたいに少年はクスクスと笑い、あごをツンと上げて見下ろしてくる。


「これで一発。まだまだこれからだな。先は長いぞ」

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