第79話 奴隷制度
坊ちゃん刈りの品の良さそうな少年に見えた。
龍人族の例に漏れず、整った顔立ちをしている。育ちの良い坊ちゃん貴族。その男から受ける印象はまさしくそれだった。
「おい、やめろ。女の子を
横合いから入ったその制止に反応したのは取り巻きの女子生徒たちだけで、前髪を横一文字に切り揃えたその少年は、
「おい、無視してんじゃ――」
肩に揺れようかという瞬間だった。
嫌な予感がして手を引っ込めると、その指先を掠めるようにして真空のかまいたちが断頭台のように落ちてきた。ぎょっとして、
「汚い手で触れないでもらえるかな」
振り返りもせずに坊ちゃん刈りの少年が静かに言った。
それを開戦の合図と解釈した
「上院では魔術の使用も解禁されてんのか?」
そこでようやく少年が振り返った。
「無論、魔術の使用は禁止さ。けれど、魔術の使用が禁じられているのは貴族に対してであって、平民やあるいは――」
四つん
「特に、奴隷風情には適用されない。というのが僕の見解さ」
――髪は女の命。
ふと母の言葉が脳裏に過った。
「どうしてそこまでする? 彼女がおまえに何かしたって言うのか?」
「奴隷とは云わば物なんだよ。所有物や財産としてカウントされる。それは人間社会だって同じだろう? 僕にとってこれは、人形の髪を切るようなもの。
奴隷だから。その一言で納得できるほど十五歳の少年は
まるで着せ替え人形を扱うかのような物言いに、
「龍人は群れを守る種族なんだろ。だったら、平民だとか奴隷だとか関係なく女の子は守るべき対象なんじゃないのかよ」
「ほぉん、君は世間知らずなんだねえ。たしかに僕らには群れを守る義務がある。けれど、奴隷に限っては例外さ。いいかい? 奴隷というのは、群れ同士の闘争における敗者に与えられる称号なんだよ。つまり彼女は、いや彼女の親はかつて僕らの敵だったわけさ。互いの全存在を賭けて殺し合い、そして彼女の群れは負けた。それでも命を奪うことなく、温情をかけて
奴隷とは、闘争における敗者に与えられる称号――なのだとすれば、それは人間社会で定義される奴隷とは、少しだけ異なる存在であるように思える。
「その子は、おまえの大切な人の
一番の懸念点は
が、彼から返ってきたのは驚くほど感情の入らない否定だった。
「いいや、違うよ。幼い頃から彼女は奴隷だったからね」
「だったら! 俺たちは同じ龍皇の群れに所属する仲間だろ。過去の
「彼女はね、僕の世話をさせるために連れてきた奴隷なんだよ。学園にもきちんと許可は取ってある。その所有権が僕にある以上、君の出る幕はないね」
少年の背後。あられもない姿でいることを余儀なくされた少女は、落とされた自慢の髪を呆然と見つめている。長い前髪から見え隠れする瞳は寂しげで、目元には薄っすら光るものがある。その無念を
「もし、それを許容できないと言ったら?」
「ふーむ? 僕とやり合おうって言うのかい?」
「こんな姿を見せられて、このまま引き下がれるわけないだろ」
少年が少女の背から立ち上がった。
琥珀の瞳がつまらなそうに開閉し、なぜかその視線は
「くはっ……」
何の躊躇もない自然な動作で、少女の腹部を無慈悲に蹴り上げた。華奢な体がくの字に曲がり、宙へ浮く。声にならない苦悶が口から吐き出され、そして少女はそのまま地面へ転がった。
「物に感情移入するのはよくない」
頭の中で、
「いい度胸だ。相手になってやるよ」
「すごい自信だね。身の程知らずも大概にしときなよ」
「別にいいんだぜ? さっきみたいに魔術を使っても。ただしその時は、手加減してやらねえけどな」
「わかってないね。仮に僕に勝利したところで彼女は自由にならないよ」
「おまえの方こそ鈍いんだな。彼女を
一触即発のビリビリとした空気が二人の間に流れ、取り巻きの女子生徒たちも居心地が悪そうにそわそわしだした。そこで少年が
「ふーん、なるほど。
「
「へえ。とすると、君が追従するこの男こそが、黒陽公主の
公主様の婚約者。その事実に、取り巻きの女子生徒たちが大きくどよめいた。
「一応、警告しておいてあげるわ。こいつ強いわよ」
「男嫌いの君がそこまで言うとはね……なるほど、
そこで少年は優雅に一礼した。
「僕の名前は
「あ? 龍王だか何だか知らねえが、だったらどうした。龍人族に
「ほう……無知ゆえの強気なのか、全てを知った上で大言を吐いたのか。とても興味深いところではあるね。少し君に興味が湧いてきたかもしれない」
「女の子を
「ふふ、嫌われたものだね。しかしそうだな。条件次第では、彼女を虐げるのをやめてやってもいいよ」
いつでも飛び掛かることのできる前傾姿勢。獣を
「そうだね。こんなのはどうだい。君は今ここで、僕のサンドバッグになるんだ。魔術は使用しない。使うのは模擬刀一本だけ。君は無抵抗のまま僕の振るう模擬刀に
絶対に呑めないと確信しての提案。少年は
「ほう? 面白い提案だな」
「奴隷を解放したいのなら、そのぐらいの誠意を見せてもらわないと困るかな」
「いいぜ」
「え?」
「おまえの提案、受けてやるよ。ただし、絶対に約束は守ってもらうからな」
◇◇◇◇◇
フードコートのテーブルを脇へとどかし、開けた大理石の床面へ一人の少年が立っている。なんの変哲もない黒髪の少年だ。
これから行われる一方的な暴行に対し、少年はまるで動じていない。想像力が
「君は僕のことを舐めているのかな。一応、これでも一学年男子・第二位の実力者なんだけどね」
「一年の第二位か。悪くない相手だ。けど、俺の目的地はもっと高い場所にあるんだ。このぐらいのハンデは
下院で成り上がった平民風情――それが彼に対する
「自分の方が格上だと、そう言いたいのかい。君は」
「ま、平たく言うとそーゆーことだな」
貴族の令息として相応しい余裕の仮面が、揺らぐのを
「どうやらこれは、手加減などせずに最初から全力でぶっ叩いた方が良さそうだね」
「おう。胸を借りるつもりで遠慮なく来い」
「ぐっ……」
ギリッと奥歯が鳴った。
どうして自分はこのような平民風情に舐められているのか。
(思い知らせてやる……!)
生まれて初めて感じた
(これは……もしかして、《剣気》?
薄っすらと頼りなく揺らめいてはいるが、それは間違いなく《剣気》だった。突如覚醒したその境地に歓喜し、
◇◇◇◇◇
「陽ちゃんいつもより寂しそう」
ボロ小屋の長机に頬杖をついて、桜華が退屈そうに言った。対面に座る黒陽はコクリと頷くと、分厚い書物からその美しい顔を上げる。
「
「わたしのことなんて放っておいて、陽ちゃんも行ってきていいんだよ」
黒陽はゆるゆると首を振ると、書物をパタンと閉じた。表紙には「呪術大全」と記述されている。
「桜華を一人残しては行けない」
「でも、わたしは――」
「強がる必要はない。一人になったらきっと孤独を感じるはずだ」
「わたしは小さな子供じゃないんですけどー」
「大丈夫だ、安心しろ。だから私がついている」
「むー、話が通じないー」
栗毛を揺らして、桜華が窓の外へ視線を向けた。
「今日はアリスちゃんも来ないね」
「おそらく
「助手も大変だねー」
そこで桜華は溜息をつくと、視線をこちらへ戻した。その目はいつになく真剣で、普段のおちゃらけた雰囲気が含まれていない。
「翔くんのこと、心配じゃないの?」
「ああ。全く心配していない」
「どうして? 勝手知ったる下院とは違うんだよ」
「今日はまだ
「だとしても、だよ。上院はこっちとは規則が違うんでしょ。翔くんは不器用だから、きっと上院生とだって揉め事を起こすだろうし、先生にだって逆らうと思う。陽ちゃんが
「桜華」
黒陽は無表情のまま、親友の顔を真っすぐ見返した。
「私は、
「でも、翔くんは危なっかしいところがあるから……だから」
「桜華は優しいな。
「じゃなくて! わたしはただ……」
素直ではない親友が愛おしくて、いつもの無表情が少し和らいだ。
「私は思うのだ。主人に尽くすが妻の役目。されど、主人を信じて待つこともまた妻の役目なのだと。
「うー、すごい信頼だね。翔くんが負けることを少しも疑ってないんだね」
「無論だ。私の惚れた男は生まれてこの方、
「そんなに……貴族の令息たちと比べた上で、翔くんってすごいの?」
「ああ、その力は私でさえ計り知れぬ高見にある。今頃はもしかすると、その力を存分に振るっている頃かもな」
桜華に習って、黒陽も窓の外を見た。
すると、愛する男の栄光を讃えるかのように、差し込んだ太陽光が眩く明滅した。
◇◇◇◇◇
強い衝撃が腕から肩を伝わって全身へと広がり、体に薄っすら
「ぐっ……あぐ……な、なぜだ。どうして僕の方がダメージを受けている」
模擬刀を握る右腕が、プルプルと震えている。
跳ね返された。それは間違いない。だが、どうやって? その方法が問題だ。
黒髪の少年はポッケに手を突っ込んだまま、余裕の表情を崩していない。誰がどう見ても無傷である。
「馬鹿な。未熟とはいえ《剣気》を宿した模擬刀を受けて、無傷でいるなんてありえない! だいたい僕が受けた衝撃と同程度の衝撃は君にも伝わったはずだ。それなのにどうして、一歩も退かずに立っていられるんだ!!」
そんな
「これで一発。まだまだこれからだな。先は長いぞ」
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