第77話 揺らぐ上院教師
上院の敷地は広大だ。
敷地面積は下院の四倍。教師の他にも学園の従業員が暮らしていて、小さな街が形成されている。
敷地は大きく分けて、学業地区、居住地区、商業地区の三つに分類される。
本校舎は学業地区にあり、学生寮は居住地区にある。そして商業地区にはそのシンボルとなる巨大なショッピングモールが建造されている。
四角く切られたショッピングモールの各店舗。
六十八の店舗が並ぶ広大な区画。生活に必要な品はすべてこの場で手に入る。そう言われるほどに品数は豊富だ。
その一角に、小さな
午前の授業も終わり、ランチタイムを終えた昼下がりの午後。
まったりとした平和な時間が流れていた店内は、野太い女の怒声によって、時の流れが加速した。
「馬鹿な、ありえない! そんなことが可能だと言うのか!!?」
がっしりした大型の
「しかし、事実だからねえ」
「落ち着いている場合か!?」
「慌てたところで、どうにもならないからねえ」
「わかっているのか? 上院で使われている
「私が嘘をついていると言いたいのかい?」
「そうは言っていない。だが、何かしらのトリックを仕掛ける余地はあったのではないか。そう考える方が自然だろう」
「彼は上院の敷地は初めてなんだよ。どうやって仕掛けるというんだい」
「黒陽公主がいるだろう。彼女も共犯なのだ」
湯呑をコトンと置いて、「なるほど」と
「その可能性もゼロではないだろうねえ」
「ゼロどころかそうとしか考えられん!!!」
小さな店内が筋肉ダルマの怒声で大きく震えた。その強震を両耳を押さえてやり過ごし、
「私には見えないが《剣気》は凄まじい威力だろう? 例えば、
「可能か不可能かで言ったら、おそらく可能だろう」
「だったらさ、
「だから、それがありえないと言っているのだ!!!」
テーブルをたたき割る勢いで打ち付けられた拳。
店内に鳴り響く食器の悲鳴。
ティーカップに注がれたコーヒーが激しく波打ち、
その大迫力の声量に、
「
「ぐっ……すまん。つい興奮してしまった」
素直に謝るドレッドヘアーの
「それで、ありえないとはどういう事なんだい」
水を向けられ、気を落ち着かせるためか
「《気》というものは術者の体から離れると、その形状を保つことができなくなり、分散してしまうだろ? それは《剣気》も同じなんだ。模擬刀に《剣気》を宿しても、術者が手を離せばたちまちの内に
「つまり
「だからそれは、ありえないと言っている。九割減衰した上で的を射抜くなど、龍皇陛下でさえできるかどうか……」
忠誠を誓うべき偉大なる指導者。
「それは冗談になっていないな」
「
がっしりと腕組みしたまま自信満々に断言する同僚に、
「とすると、何か魔術が使えるのかもしれないね」
「なんだと? 奴は適性属性なしの半龍人なんだろ」
「だからそれが
「なるほど。さすが
「ああ、だけど私には《剣気》は見えないからね。本当に魔術なのか、あるいは桁外れの《剣気》なのかは、
「ふん。確認するまでもないと思うがな。いいだろう。明日に控える剣術の授業でその真価、私が見極めてやろうじゃないか」
謎が解けた気になったのか、
「だけど、もし小細工でなかったとしたら、いよいよマズイことになるよ。すでに上院生たちの間で、彼のことが噂になりつつあるからね」
「なに? 噂だと?」
「
「時間が経てば経つほど、我々が不利になるというわけか」
眉間に深いシワを刻んだ李樹教諭が「むう」と唸った。
深刻そうな同僚とは対照的に、氷理教諭はのほほんとしている。
「なかなか面白くなってきたじゃないか。彼が次に何を見せてくれるのか、楽しみにしておくとしよう」
◇◇◇◇◇
「いや、細工なんかしてねーよ」
普段は眼光鋭い少女が、珍しくジト目を向けてくる。その瞳は
「本当だって。初めて訪れる上院の施設にどうやって細工すんだよ」
「だったら、どうやったっていうのよ。あんな真似、お姉様だってできないわよ」
外部から眺めると城のように映る上院本校舎には、中庭がある。
休み時間には生徒で賑わうそこで、ベンチに座る
「おまえも知ってるだろ。《剣気》を使った。俺は
「あんたね。あたしを馬鹿にしてるわけ?」
「別に馬鹿になんてしてないぞ。嘘だと思うなら黒陽に聞いてくれ」
「あんたの《剣気》はお姉様が認めるほどだから、黒龍石を両断できると聞いても今さら驚かないわ。でもね。《剣気》も
「なんだ? 意外と論理的……もしかして
「茶化してないで答えなさいよ」
冬場の太陽光は弱々しい。ふと
「俺にも難しいことはわからねえんだよ。ただある日、気付いたんだ。こうやってぎゅっと拳を握ると、《気》の
「なによそれ。そんな話、聞いたことないわよ」
「昔、母さんに聞いたことがあるんだ。《気》の最高到達地点とは何か。《剣気》の先にはもう
龍人は十五歳から成長期に入る。
十五歳から十八歳までの三年間は、特にその成長は目まぐるしく、三段跳びで実力を伸ばす生徒も珍しくない。
そしてそれは
「ふーん、にわかには信じがたいけど……まぁいいわ。それにしても、あんたの母親は何者なわけ?」
「何者って、普通の母親だよ」
「あんたね……どこの世界に、前人未踏の《気》の高みを知る母親がいるのよ。絶対、普通じゃないわよ。あんたのお母さん」
そこで
ウェーブがかったフワリとした髪。おっとりと垂れ下がった目尻。柔和に結ばれた口元。線の細い体。見た目は清楚系お嬢様(病弱)風、とでも形容しようか。
実際に、温和な性格の彼女は、アルガントの住民ともうまくやっている。しかしその実、
その
「正直、俺はちょっと母さんが苦手なんだよな。学園に行きたいって志願したのも、母さんの厳しい特訓から逃げ出したかっただけ――なんて言ったら笑うか?」
「へえ。あんたでも泣き言うんだ」
「まぁな。つっても、学園生活に憧れていたのも本当なんだぞ。向こうじゃ特権階級しか学校には通えないからな。ま、そのバラ色の学園生活――という幻想は、入学早々にぶち壊されたわけだけど」
フンッ、と鼻を鳴らし、
「諦めの悪さは学園一だと思うわ」
「悪かったな。俺は負けず嫌いなんだよ」
「群れを守るためには、プライドを捨てなきゃならない時がやってくるわ。いかに無様と笑われようとも、意地でも屈してはならない時がやってくる。あるいは、手足を
ポカン、として
「あ? もしかしてフォローしてくれてんのか?」
「ちっ、違うわよっ! 死に物狂いでお姉様を守りなさいって言ってんの!」
その素直ではない物言いに、同じく素直でない男はクスリと笑った。
「ようやくデレてくれたか。今まではツンツンだったからなぁ」
「はぁ!? あたしが、いつあんたにデレたのよ!!」
左耳につけたイヤリングを引きちぎり、
「おい、ちょっと待て。そんなもんでどついたら死んじまうだろ」
「問答無用」
「わかった。悪かった。今のは俺が悪かったから――」
ビュウッと、中庭を駆け抜けた寒風が一瞬にして春うららなそよ風へと変わる。その
「馬鹿野郎! そんなもんで暴れたらまた騒ぎになるぞ」
「構わないわ。この場で消し炭にしてあげる」
「また学園長に怒られるぞ!」
「ぐっ……あたしの受けた屈辱に比べれば、そのぐらいなんてことないわ!」
顔を真っ赤にした
学園長のお説教は流石に嫌だと見え、一瞬だけ怯んだものの、ツンデレ扱いされた怒りの方が上回ったようである。
周囲にいた上院生たちが、驚きに目を丸くしているのを横目で捉え、騒ぎが大きくなりそうなことに
「こんなこと知られたら黒陽にも怒られるぞ!」
瞬間、ピタリと
サァっとその表情からは血の気が引いていく。
その勝ち気な目元には薄っすら涙が浮かび、歯が悔しそうにギリギリ鳴っている。そして彼女は歯を食いしばるようにして言った。
「それだけは……やめて…………ください」
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