第76話 上院一学年統括・氷理教諭の試練

 空に突き出た尖塔せんとう

 堅牢な城門を思わせる正面玄関。

 整然と並んだ豪奢ごうしゃな窓。


 上院の本校舎はとにかく大きかった。何もかもが下院よりも豪華で、そして広い。教師の私室も本校舎にあり、紅蘭こうらんに連れられて訪ねたのは上院一学年・統括の氷理ひょうり教諭の私室だった。


 氷理ひょうり教諭の第一印象は、なんとも個性的な龍人ひとだった。


 ぐるぐる眼鏡にそばかすの鼻。なぜか龍衣りゅういではなく白衣はくい羽織はおっている。サイドに縛った髪の毛は、使い古したほうきのようにボワッと爆発していた。

 なんとも個性的な様相の教師は、「やぁやぁやぁ、よく来たね」などと言いながら、麒翔きしょうたちを部屋へ招き入れてくれた。


 そこは下院教師の私室とは比べものにならないほど、広い部屋――のはずだった。しかし、広いはずの室内は足の踏み場もないほど、本がそこここに積み上げられていて、視界に広がっている空きスペースはとても狭い。圧迫感を受けるほどに手狭だ。


 人一人がぎりぎり通れるぐらい。本に挟まれた獣道を案内されて、最奥に置かれた執務机へ通される。机の上にも本が雑然と並べられ、天井にまで達そうとしていた。よく見れば、執務椅子までもが本に埋もれてしまっており、もはやその用途を果たせそうもない。氷理ひょうり教諭は、ずれたぐるぐる眼鏡を整えて言った。


「そこらの椅子にかけてくれたまえ」


 疑問符を浮かべながら、麒翔きしょうは周囲を見回す。入口と比べればいくらか開けた空間ではあるが、相変わらず足の踏み場がないほど本であふれ返っている。その光景に麒翔きしょうは内心で呆れたが、そもそもそれ以前にどこにも椅子など見当たらなかった。

 立ち尽くす麒翔きしょうをよそに、その辺に積まれた本の上へ紅蘭こうらんが腰かけた。


「おい、ちょっと待て。本を尻に敷くってのはどうなんだ」

「別にいいでしょ」

「いや、よくないだろ。どう見ても貴重な本だぞこれは」


 年季の入った革張りの古書。その一冊一冊が値の張る代物であろうことは容易に想像がついた。麒翔きしょうが困ったように氷理ひょうり教諭を見ると、彼女も紅蘭こうらんと同じく平積みされた本の上へ腰を下ろそうとしているところだった。


「別に構わんよ。君も早く座りたまえ」


 ほらね、と紅蘭こうらんが得意げにこちらを見た。「ああ、俺が間違ってたよ」と悪態をつきながら、麒翔きしょうも二人に習って腰を下ろす。全員が着席したのを確認してから、改めて氷理ひょうり教諭が口を開いた。


「話は聞いているよ。君が黒陽公主の婚約者だね」

「はい。相違そういありません」

「加えて、紅蘭こうらんくんまで従えるなんて、まるでどこぞの王じゃないか」

「いえ、こいつは……ただの案内役ですよ」


 右隣から殺気が飛んできたが、麒翔きしょうは気付かないフリをした。冬場だというのに、なんだか部屋の温度が少し上がったような気がする。熱の発生源は言わずもがな。古書の積まれたこの部屋は火気厳禁ではないのか――と、麒翔きしょうが不安に思っていると、氷理ひょうり教諭が身を乗り出すようにして尋ねてきた。


「興味深いねえ。いやぁ、実に興味深い。凡庸ぼんような男子生徒にしか見えないけれど、一体どこに黒陽公主はかれたのか。なぁ、紅蘭こうらんくん。君はどう思う」

「お姉様が認めたのなら、そうなのでしょう」


 短い。素っ気ない答え。その紅蘭こうらんらしい返答に、氷理ひょうり教諭はいささかも気分を害すことなく、うんうんと頷いた。


「そうだねえ。黒陽公主ほどの人物が、人選を見誤るとは考えにくい。そこは私も同意しよう。しかし、ねえ……」


 分厚いレンズ越しに氷理ひょうり教諭の目が細められた。


「学園長はひどくご立腹のようでね。君を叩き潰して自信をへし折るように指示を出されているんだよ」


 ざわり、と麒翔きしょうの全身が沸騰ふっとうするように色めき立った。

 自然と口角が吊り上がる。


「俺は構いませんよ。むしろそう来てもらわなきゃ困ります」


 ――上院で喧嘩を売って来い。

 それが魅恩みおん教諭から出された、唯一にして絶対のミッションである。

 麒翔きしょうが今からやらなければならないのは、実力の証明。公主様を娶るに足るのだと、誰もが納得するだけの圧倒的な力を誇示する。その為ならば、何だってするつもりだ。その覚悟は上院の地を踏んだときに済ませてあった。


 この対決姿勢に氷理ひょうり教諭がくつくつと笑う。


「いいね、実にいい。意見の相違は力でねじ伏せる。まさにそれこそが、龍人男子本来の姿だ。弱き者に人権はないが、強き者はすべてを手にする」


 だけど、と分厚いレンズ越しに氷理ひょうり教諭の目が光った。


「君にその実力があるのかははなはだ疑問だ」

「だったら試してみればいい」

「ほう。相当自信があるようだね」

「当然ですよ。俺の実力は、黒陽のおすみきですからね」

「よろしい!」


 白の長衣ちょういをはためかせて氷理ひょうり教諭が立ち上がった。


「ならば付いてきたまえ。次の授業は私の担当だ」




 ◇◇◇◇◇


 吐息ブレス専用訓練施設。

 白亜はくあの壁に囲まれた五十メートル四方の空間。そこは下院の魔術実験棟・第一実験室と構造がよく似ていた。

 床面と壁面は分厚い白龍石のブロックで構成され、魔術加工によって防御力にバフがかかっている。この強度ならば、第一実験室と同様に攻城魔術兵器こうじょうまじゅつへいきの攻撃であっても、しっかり耐えうるのではあるまいか。雨曝あまざらしの屋外に作られただけの下院の施設ものとはえらい違いである。


「床や壁だけではないよ。まとも上院仕様の特別製さ。アダマンタイトにオリハルコンを調合することで各段に強度を上げ、更に高度な魔術加工で防御力を底上げしてある。上院生たちが全力で吐息ブレスの練習ができるようにね」


 白亜の空間に真っ直ぐ引かれた黒線。そこから三十メートル先にまとが配置されているのは下院と同じ構図だった。違いがあるとすれば、黒線の内側には鉄製の仕切り板が立てられていること。仕切り板に対応してまとが一つ配置されているようだ。


 すでに授業は始まっているようで、上院生たちは今、仕切り板ごとに列を成して順番待ちをしている。


 氷理ひょうり教諭に案内され、そんな彼らの後ろを横切りながら麒翔きしょうは訊いた。


黒陽あいつは下院でまとを根元から吹き飛ばしていました。こっちではそんな事は起こらないと?」

「下院で使われているまととは防御力が桁違いだよ。黒陽公主でも破壊するのは難しいだろうね。武装でもしない限りは」


 公主様の武装吐息ブレス。その絶大な威力を身をもって知る麒翔きしょうは「なるほど」と呟いた。


 縦に長い吐息ブレス訓練施設の通路を進み、その中央まで歩いていくと氷理ひょうり教諭は足を止めた。そして拍手するようにして両手を打ち鳴らしながら、やる気を感じさせない気怠けだるい声を発した。


「はいはーい。一旦、手を止めて注目ー」


 吐息ブレスの射撃訓練を行っていた上院生たちが、一斉に通路側――つまり、こちら側を振り向く。その視線は、教師の隣にいる新参者へ自然と集まった。


「今日からしばらく上院へ仮入学することになった麒翔きしょうくんだ。みんな仲良くしてやってくれ」


 ざわざわと上院生たちがどよめいた。

 困惑の色合いが強いが、無理もないだろう。通常、転属は進級時に行われる。学期の途中で上院へ昇格することは滅多にないそうだ。


「だからこそ、実力を示してもらわなければならない。そうだね?」

「俺が上院でも通用すると証明できれば、正式に昇格できるんでしたね」

「ああ、その通りさ」


 上院生たちはヒソヒソと何かを話し合っているが、表だって氷理ひょうり教諭へ異を唱える者はいない。ただ静かに場が進行していく。


 ぐるぐる眼鏡を手巾しゅきんで丁寧に拭きながら、氷理ひょうり教諭は意地悪く口角を吊り上げて、


「ならば君の吐息ブレスを見せてくれ」


 さらっと無茶な要求を突き付けてきた。

 適性属性のない麒翔きしょうは、属性攻撃である吐息ブレスを放つことができない。それは下院では常識で、当然学園長である青蘭せいらんも知っている。であるならば、氷理ひょうり教諭もそれを知った上で、あえて無茶な要求を突き付けてきたことになる。


 上院生たちは、まだ麒翔きしょうの適性属性がないことを知らない。ざわめきこそはしたものの、特段過剰な反応は返ってこなかった。客観的に見て、現在吐息ブレスの授業中であることを考えれば、氷理ひょうり教諭の要求は至極当然なものだからだろう。それが無茶振りであることを、この場でただ一人知る紅蘭こうらんだけが、腕組みしたまま眉を寄せていた。


 もし吐息ブレスを撃てないと白状すれば赤っ恥もいいところ。上院生たちからは蔑まれ、下院の時のように空気以下の存在として扱われるだろう。そうなれば実力を示すのもより困難になる。そこまで計算づくだとすれば、この教師はなかなかの曲者くせものである。


 飄々ひょうひょうとした調子で氷理ひょうり教諭が言う。


「ここから、あのまとを射抜くんだ。できないとは言わせないよ。遠距離攻撃手段なくして、どうやって群れを守っていくというんだい」


 それは不本意ながら正論だった。

 吐息ブレスを撃てないハンデを麒翔きしょうは覆さなければならない。


 適材適所。公主様は、自分が代わりに吐息ブレスを使うのだと言ってくれた。だが今この場で、公主様を逃げ道に使うわけにはいかない。


(こんな俺を信じてくれた黒陽のためにも、ここは一歩も引けない)


 麒翔きしょうは迷うことなく、上院生たちを掻き分けて一番近いまとの前へ立った。

 氷理ひょうり教諭がその背後に立つ。


「ほう。怯むことなく行動するとは見上げた度胸だ。しかし、ここからどうする。君にはどうしようもないと思うのだがね」

氷理ひょうり先生。もう一度、確認します。あのんですね」

「ああ、見事射抜くことができれば、合格としてあげようじゃないか」

「その言葉、忘れないでくださいよ」


 脇に差していた模擬刀を引き抜く。

 氷理ひょうり教諭が怪訝そうに眉をひそめた。


麒翔きしょうくん? 私は吐息ブレスを見せてくれと言ったのだよ。なぜ模擬刀を引き抜く必要があるのかね」


 無言のまま、麒翔きしょうは模擬刀に《剣気》を宿した。メラメラと湧き出る紫炎しえんの《剣気》。津波のようにたぎったその桁外れの《剣気》は氷理ひょうり教諭には見えていない。彼女にはただ、麒翔きしょうが模擬刀を正眼に構えている、とだけ見えている。


 不意に、麒翔きしょうは模擬刀の柄を逆手に持ち替えた。そうして槍投げのようなフォームを取り、地面と平行にその切っ先を構える。それは魅恩みおん教諭の取った突きの姿勢に少しだけ似ていたが、その用途は全くの別物である。


 鍛え抜かれた筋肉をしならせて、津波のような《剣気》を宿した棒切れを大きく振りかぶる。何が始まったのかと氷理ひょうり教諭も上院生たちも唖然あぜんとしている。そんな彼らの疑問を一身に背負って、水平に構えたそれを麒翔きしょうは力任せにぶん投げた。


 紫電一閃しでんいっせん

 ごうっ! と、唸りを上げた雷槍らいそうが一直線に飛んでいき、狙いすましたかのようにまとの中心を貫いた。その弾道にはバチバチと紫電しでん軌跡きせきが引かれている。


 口をあんぐり開けて、その場でフリーズしてしまった氷理ひょうり教諭を振り返り、麒翔きしょうは言った。


「どうですか、先生。これが俺の吐息ブレスです」

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