第74話 舞台は上院へ

 公主様の美しい顔がすぐ目の前にある。

 上質な黒の布地。銀糸ぎんし刺繍ししゅうが施された襟元えりもとしわを伸ばすように、公主様が指をわせた。頭一つ低い位置。公主様のつややかな黒髪から良い匂いがする。彼女は「うん」と頷いて、顔を上げた。目が合った。


「似合っているぞ。とても精悍せいかんで男らしい」

「そうかな。この布地、高級なんだろ。しっかりしている割に肌触りがやわいというか……庶民の俺には少し合わないような」


 腕を上げ、袖口の遊びをしげしげと眺めながら麒翔きしょうは気恥ずかしげに言った。


 ボロ小屋の窓から朝日が差し込んでいる。

 早朝のこの時刻、室内には他に誰もいない。公主様と二人きり。静かな時間が流れている。


「すぐに慣れる」


 そう言って、公主様が頭をずいっと突き出してきた。どうやら着付きつけを手伝った褒美を寄越よこせということらしい。麒翔きしょうつややかな黒髪に右手を置いた。


「しっかし、俺を上院に昇格させるって……一体、どういう心境の変化があったっていうんだ。特に明火先生は頭でも打ったのか?」

「ふふ、武装した私を無力化したわけだからな。実績としては十分だ」

「無力化っておまえ……ちゃっかり起きてたろ」

「私は嘘はついていない。真実を話しているとも言えないが」

「まさか俺を上院へ昇格させるために、実績を作るためにわざわざ武装してたのか」

「一つの策で一つの成果を上げるだけでは、策士としては三流だ。まことに優れた策士とは、一つの策でいくつもの成果をあげるもの」


 頭を撫でられ、ふやけた顔の公主様がニヘラと笑んだ。気の抜けた締まらない――そんな顔もまた美しい。


「こんなに優秀な嫁をもらえるなんて、俺は果報者かほうものだよ」

「将来は、あなたの軍師として百万の群れを指揮するつもりだ」

「おいおい。龍皇陛下でさえ十万なのに、その十倍の群れを指揮するつもりかよ」

「当然だ。私の智謀ちぼうとあなたの力が合わせれば不可能はない」


 公主様の妄想は大帝国を築き上げるところまで進んでいるらしい。その掛け値なしの信頼に、麒翔きしょうはこそばゆく頬をかく。


「とにかく、これはチャンスだ。おまえが用意してくれた舞台、絶対に無駄にはしない。上院生には悪いが、なりふり構わず行かせてもらう」

「ふふ、彼らの驚く顔が目に浮かぶぞ。私を一目惚れさせたその実力、存分に振るってくるといい」


 長机に置かれた模擬刀を手に取り、腰に差す。

 準備を終えた麒翔きしょうは、ボロ小屋の扉に手をかけた。ふと振り向き、


「本当におまえは来ないのか?」


 夫を送り出す妻のように、一歩後ろへ控えていた公主様がコクリと頷く。


桜華おうかを一人残しては行けない。私は下院ここで待つ」

「ま、それもそうだな。桜華のお守りは大変だと思うけど、頼んだぞ」

「上院の案内は紅蘭こうらんを頼ってくれ。私の名前を出せばスムーズにいくはずだ」

「わかった。じゃ、行ってくるよ」

「武運を祈っているぞ」


 公主様が背伸びをした。

 麒翔きしょうは素早く辺りを見回し、人がいない事を確認するとそっと唇を合わせた。




 ◇◇◇◇◇


 上院生たちは朝のティータイムを楽しむ習慣がある。

 上院本校舎には茶会用のスペースがあり、入口にはテーブルの上に茶器セットが並べられている。生徒たちは各々の盆に茶器を乗せ、好みの茶葉を選んでセルフで給仕するのが習わしだ。


 屋外にはテラスもあり、床は一面板張のウッドデッキ。線の細い脚を一本伸ばした丸テーブルが、等間隔に置かれている。生徒たちは群れごと、あるいは仲の良い生徒同士で集まり、朝の一時を優雅に過ごす。


 上院生の間では筒状の白磁はくじ茶器が人気だったが、最近では西方文化の影響で、把手のついたティーカップが主流となりつつある。そちらの方が優美に見えるとの事だが、チビチビと飲むような真似は紅蘭こうらんの性には合わなかった。だから彼女が使うのは筒状の白磁茶器だ。


 ふわりと立ち昇る風味のある湯気。独特の香りが漂う黄茶きちゃを一気に飲み干す。その風情の欠片もないガサツな所作に、けれど今はもう叱責してくれる人はいない。


「さすが紅蘭こうらんさん。豪胆ですね」


 代わりにびるような声が紅蘭こうらん耳朶じだを打った。

 内心で眉をひそめ、けれどそれを億尾おくびにも出さずました顔で言う。


「お姉様に見られていたら、叱責されているところだわ」


 紅蘭こうらんは元来、一匹狼気質なので群れることを好まない。だがそれではいけないと親愛なる姉に諭されて、性に合わない馴れ合いを続けている。


「黒陽様は、紅蘭こうらんさんにだけは厳しいですものね。でも、それだけ黒陽様の期待も高いという事ですわ」


 別の女子生徒が、優雅に紅茶を口に運びながら言った。

 そのお世辞に、紅蘭こうらんは頬が緩まないように仏頂面ぶっちょうづらを心掛ける。少しでも気を抜けば「お姉様からの期待」という甘美な響きに、頬がとろけ落ちてしまうだろう。


「ねえ、紅蘭こうらんさん。黒陽様が婚約されたというお話は本当ですの?」


 追加の茶を注ぎ、これもまた一気に飲み干そうとしていた紅蘭こうらんは「ごぶっ!」と茶を吹き出しかけた。戻ってきた湯の濁流だくりゅうを気合だけで飲み込んだ彼女は、咳き込むことも我慢して、涙目となりながら答える。


「本当よ」


 その短い、けれど力強い肯定に同席した女子生徒たちが湧いた。


「まぁ! それはすごいですわ。一体、どのような殿方なのかしら」

「今まで男になびくことの無かった黒陽様が……とうとうお相手を見つけたのですね」

「しかし、下院で……というのが解せませんわよね」

「あら、そうかしら。平民の中にもまれにいるそうよ。龍王の器となるようなお方が」

「ええー! 将来の龍王陛下がですか!?」

「あくまで可能性の話ですわ。でも、黒陽様がお認めになったという事は、そういう事なのではなくて?」


 女子生徒たちが好き勝手にはやし立てる。女子が噂好きというのは貴賤きせんを問わないらしい。口調こそは上品だが、内容は井戸端会議のおばちゃんとそう大差ない。身分が高く、気軽に一喝できない分だけたちが悪いのかもしれない。

 紅蘭こうらんまぶたを閉じ、心の中で溜息をついた。


(息苦しい。取るに足らないつまらない会話も、お姉様がいないと苦痛でしかないわね。それもこれも、あの男がお姉様を……)


「ところで、お相手の殿方はどのようなお方ですの?」


 目を開けると、正面に座る女子生徒が首を傾げてこちらを見ていた。

 どうやら自分に問うているらしい。場の視線がこちらへ集中している。紅蘭こうらんは記憶の中にある男を思い浮かべた。


 顔は平均的な龍人男子のレベル。特筆するような特徴はないが、決して不細工ではない。むしろ、美形揃いの龍人として並みなので、一般的に見れば顔立ちは整っている方だろう。やはり悪くはない、と紅蘭こうらんは思う。


 実力の方はどうか。

 力はある。打ち合った感触からしても、紅蘭こうらんより格上なのは間違いない。火輪槍かりんそう乱撃らんげきを涼しい顔で受け流し、こちらを傷つけないように手心まで加えられた。戦士としては屈辱だが、その実力のほどは認めねばなるまい。


 何より。紅蘭こうらんが歯の立たなかったエレシア・イクノーシスを無力化したのが彼だ。しかもその際に使っていたボディは、恐れ多くも親愛なる姉のものだった。


(お姉様による学園への報告では、武装した状態であの男と交戦。愛を叫ばれたことで、魂を揺さぶられて正気を取り戻した――って話だったわね。出来すぎているとは思うわ。でも、お姉様が偽りを述べているとも思えない)


 しかるに、総合評価は――


「つまらない男よ」


 長考した挙句、短くぽつりとそう答えた。

 右隣に座る女子生徒が、両手を合わせて興味津々という風に瞳を輝かせる。


「まぁ! 退屈な――つまり、寡黙かもくなお方なんですの?」

「寡黙かというと……むしろ、騒がしいわね」

「寡黙でないのだとすると、純粋にお話がつまらないのかしら」

「そうね。あたしの言葉にいちいち突っ掛かってきて、独り相撲しているわ」


 突っ掛かられる原因となった自らの暴論には目をつぶり、紅蘭こうらんは涼しい顔で茶をすすった。


「だいたい、あたしのキスを拒むような男だしね」

「ええええ!? 紅蘭こうらんさんが婚約キスを!?」


 女子生徒たちが大きくざわめいた。

 茶請けの羊羹ようかん竹串たけぐしで一切れつまみ、口へ放り込もうとしたところで、紅蘭こうらんは怪訝にその動きを止めた。


「なによ。そんなにおかしい?」


 言って、ブロック状の黒い羊羹ようかんをパクリとやる。意に介さないその様子に、女子生徒たちが口々に反論を投げてきた。


「だって、紅蘭こうらんさんは男嫌いで有名ではありませんか」

「そうですわ。この前だって、二学年首席の蒼月そうげつ様からお声をかけて頂いたのに、取り付く島もなくそでにされているのを見ましたもの」

「そんな紅蘭こうらんさんが殿方に興味を示されたわけでしょう。黒陽様が見初みそめたお相手なだけでなく、紅蘭こうらんさんまでとりこにするだなんて……わたくし大変興味があります」


 加熱していく場の空気に、その絶望的なまでの温度差に紅蘭こうらんは疎外感を覚えた。冷めきった自らの心に手を当て、脈打たない鼓動を確認した彼女は甘くなった口の中を茶で洗い流す。


「あたしはお姉様についていくって決めてるの。ただそれだけの話よ」

「まあ、素敵! クールですね!」


 場の盛り上がりに水を差すような紅蘭こうらんの冷めた口調に、甘ったるいびた声色が同調する。紅蘭こうらんは不快そうに眉をしかめた。


 上院の制服に身を包んだツインテールの少女。名は何と言ったか。


 彼女は下院からの転属組。しかも、実力による昇格ではなく、龍王である父親の口利きによる昇格――つまり親の七光ななひかりによって、分不相応に上院の地を踏んでいるのである。しかも父親の威光を笠に着て、格上であるはずの上院生を取り巻きに据えているらしい。


 力こそ正義。強者は弱者を束ね、弱者は強者へ追従ついじゅうする。

 それが龍人族の矜持きょうじであり、常識だ。

 その常識を堂々と破るこの女のことが、紅蘭こうらんは嫌いだった。


「褒めるほどの事じゃないわ」


 素っ気なくそう言って、紅蘭こうらんは退屈そうに視線をテラスの外へ向けた。

 上院本校舎へと続く赤煉瓦あかれんがの道が、真っすぐテラスを横切るように伸びている。街路樹の植えられたその道を一人の男子生徒が歩いてくるのが見えた。


「あら。なんであいつがここに……?」




 ◇◇◇◇◇


 下院最北端にある魔術研究棟は、上院の敷地と隣接している。

 ボロ小屋を出た麒翔きしょうは、早速上院の敷地へ足を運ぶことにした。

 道順はなんとなく覚えている。適性属性検査を行う際に、上院の敷地へ足を踏み入れた経験があったからだ。


 だが、上院の本校舎を目前にして麒翔きしょうは上院生に捕まっていた。


「あら? 貴方、見ない顔ですわね」


 上院本校舎へ続く並木道。談笑していた三人組の女子生徒の一人が、目聡めざと闖入者ちんにゅうしゃを発見して声をかけてきたのだ。興味深そうにその後へ続く他の女子たち。


「でもこれは紛れもなく、上院の制服ですね」

「どういう事かしら? 男子生徒は全てチェックしてあったと思うのだけれど」


 優秀な男をゲットしようとする貪欲な行動力が、さらっと垣間見える。やはり貴族ばかりが揃っているとは言っても、基本的な考え方は同じなのか。麒翔きしょうは若干げんなりしつつも、自分が下院からの昇格候補生である事を告げた。


「まぁ、下院から?」

「つまり、貴方は平民出身ですのね」


 値踏みするように麒翔きしょうの全身をジロジロと見回す上院生たち。その内の一人が胡散臭そうに首を傾げて言った。


「どおりで見ないわけね。上院の空気は高貴すぎて肌に合わないのではなくて?」


 他の女子たちも、クスクスと口元に手を当てて上品に笑う。


「貴族社会のなんたるかも知らないようでは、苦労されるでしょうね」

「ええ。平民風情の暮らす下院とは、根本的になにもかもが違うということを肝に銘じておくべきですわ」

「ですが、見たところ冴えない凡庸なご様子。肝に銘じたところで時間の無駄だと思いますわ。恥をかかない内に、お帰りになった方がよろしいのでは」


 それは懐かしい感触だった。公主様と婚約してからは久しく感じることのなかった蔑むような視線と、悪意のある言葉。


 麒翔きしょうはゆっくりまぶたを閉じて雑音をシャットアウトした。


「貴族と平民。出自の差は、貴方が思っている以上に大きくてよ」

「まったくです。わたくしたちと肩を並べられると思っているのだとしたら、心外ですわね」


 入学当初の麒翔きしょうだったら、その悪意に怯んでいただろう。

 あるいは半年前の麒翔きしょうだったら、その悪意に反発しただろう。

 けれど、今は違う。公主様との出会いが麒翔きしょうを変えた。


 公主様の嘘偽りのない真心が、見返りを求めずに尽くそうとする健気な姿が、一途で純粋なその気持ちが、心の隙間を埋めてくれたから。何があっても最後まで味方でいてくれる――そんな安心感を抱くことができたから。


 だから、麒翔きしょうの心に巣くっていた劣等感は消え去った。


「あら? だんまりですの?」

「お可哀想に委縮してしまいましたか」


 公主様が見つけてくれたから、麒翔きしょうは今この場に立てている。彼女が策をろうして立ち回ってくれたから、十分なお膳立てを整えてくれたから、こうして上院の地を踏めている。その期待に応える――ただそれだけが今の彼のすべてだ。


 閉じたまぶたをゆっくり開ける。麒翔きしょうは静かに口を開いた。


「いいのか? 平民だと見下していると、あとで後悔するかもしれないぜ」


 ジャリッ、と。街路がいろ砂利じゃりを踏み抜き、一歩を踏み出す。

 上院生たちが不快そうに眉をひそめた。麒翔きしょうは構うことなく、続ける。


「知ってるか? 俺の嫁はとんでもなく優秀なんだぜ。そんな優秀な嫁がこう言うんだ。あなたは龍王の器だってな」


 上院生たちがクスクスと失笑を漏らす。

 けれど麒翔きしょうは止まらない。ただ静かに歩を進めるだけだ。


「妄言だと思うか? いいや、それは違う。俺の嫁はビックリするほど優秀なんだ。黒陽あいつが間違ったことなんて、今まで一度だってありはしない」


 いつの間にか麒翔きしょうの顔は、使命感に満たされた精強せいきょうなものへと変わっていた。全身にまとうのは、余裕という名の強者のオーラ。

 止まらぬ歩み。たくましい胸板が鼻先へと迫り、上院生たちは気圧けおされるように一歩を引いた。


「な、なんなんですの……その妙な迫力は」

「ガラリと雰囲気が変わって……」

「さっきまでとはまるで別人ではありませんか」


 一歩、二歩と。上院生たちが見えない膜に押しやられるように後ずさる。


「重要なのは肩書きではなく、中身だ。俺は、こんな俺を信じてくれた黒陽あいつを信じることにした。馬鹿にしたいのなら好きなだけ馬鹿にすればいい。だが、最後に笑っているのは俺と黒陽あいつだ。その時になって後悔したって、もう遅いぞ」


「後悔ですって? 貴方、いったい何様のつもり?」


 歯を食いしばって、一人の女子生徒が声を張り上げた。麒翔きしょうの前進を阻むように立ち塞がったその上院生は、気の強そうな眉尻を吊り上げて、こちらを上目遣いに睨みつけてくる。が、麒翔きしょうはこれを無視。構うことなく、一歩を踏み出した。


「どけ。女と争っても時間の無駄だ」

「下院の男子ごときに、このわたくしが負けるとでも?」

「抱いてほしいのならそのままでいろ。丁重に抱きかかえて脇にどかしてやる」

「な、なんですって。この――」


 距離を詰めにいった麒翔きしょうの右頬を狙って、上体を大きく捻って放たれた強烈なビンタ。風を切って迫り来るそれを、麒翔きしょうは難なく捕まえた。


黒陽あいつのビンタと比べたら、欠伸あくびが出るほど遅いな」

「痛っ! 痛いじゃない。離してよ!」


 万力のようにロックされた手首。女子生徒が苦悶くもんの声を漏らすと、麒翔きしょうはあっさりその手を放した。女子生徒が後ろに飛びのいて距離を取る。その時、横合いから聞き覚えのある声が割って入ってきた。


「弱い者イジメは感心しないわね」

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