第74話 舞台は上院へ
公主様の美しい顔がすぐ目の前にある。
上質な黒の布地。
「似合っているぞ。とても
「そうかな。この布地、高級なんだろ。しっかりしている割に肌触りが
腕を上げ、袖口の遊びをしげしげと眺めながら
ボロ小屋の窓から朝日が差し込んでいる。
早朝のこの時刻、室内には他に誰もいない。公主様と二人きり。静かな時間が流れている。
「すぐに慣れる」
そう言って、公主様が頭をずいっと突き出してきた。どうやら
「しっかし、俺を上院に昇格させるって……一体、どういう心境の変化があったっていうんだ。特に明火先生は頭でも打ったのか?」
「ふふ、武装した私を無力化したわけだからな。実績としては十分だ」
「無力化っておまえ……ちゃっかり起きてたろ」
「私は嘘はついていない。真実を話しているとも言えないが」
「まさか俺を上院へ昇格させるために、実績を作るためにわざわざ武装してたのか」
「一つの策で一つの成果を上げるだけでは、策士としては三流だ。まことに優れた策士とは、一つの策でいくつもの成果をあげるもの」
頭を撫でられ、ふやけた顔の公主様がニヘラと笑んだ。気の抜けた締まらない――そんな顔もまた美しい。
「こんなに優秀な嫁をもらえるなんて、俺は
「将来は、あなたの軍師として百万の群れを指揮するつもりだ」
「おいおい。龍皇陛下でさえ十万なのに、その十倍の群れを指揮するつもりかよ」
「当然だ。私の
公主様の妄想は大帝国を築き上げるところまで進んでいるらしい。その掛け値なしの信頼に、
「とにかく、これはチャンスだ。おまえが用意してくれた舞台、絶対に無駄にはしない。上院生には悪いが、なりふり構わず行かせてもらう」
「ふふ、彼らの驚く顔が目に浮かぶぞ。私を一目惚れさせたその実力、存分に振るってくるといい」
長机に置かれた模擬刀を手に取り、腰に差す。
準備を終えた
「本当におまえは来ないのか?」
夫を送り出す妻のように、一歩後ろへ控えていた公主様がコクリと頷く。
「
「ま、それもそうだな。桜華のお守りは大変だと思うけど、頼んだぞ」
「上院の案内は
「わかった。じゃ、行ってくるよ」
「武運を祈っているぞ」
公主様が背伸びをした。
◇◇◇◇◇
上院生たちは朝のティータイムを楽しむ習慣がある。
上院本校舎には茶会用のスペースがあり、入口にはテーブルの上に茶器セットが並べられている。生徒たちは各々の盆に茶器を乗せ、好みの茶葉を選んでセルフで給仕するのが習わしだ。
屋外にはテラスもあり、床は一面板張のウッドデッキ。線の細い脚を一本伸ばした丸テーブルが、等間隔に置かれている。生徒たちは群れごと、あるいは仲の良い生徒同士で集まり、朝の一時を優雅に過ごす。
上院生の間では筒状の
ふわりと立ち昇る風味のある湯気。独特の香りが漂う
「さすが
代わりに
内心で眉をひそめ、けれどそれを
「お姉様に見られていたら、叱責されているところだわ」
「黒陽様は、
別の女子生徒が、優雅に紅茶を口に運びながら言った。
そのお世辞に、
「ねえ、
追加の茶を注ぎ、これもまた一気に飲み干そうとしていた
「本当よ」
その短い、けれど力強い肯定に同席した女子生徒たちが湧いた。
「まぁ! それはすごいですわ。一体、どのような殿方なのかしら」
「今まで男に
「しかし、下院で……というのが解せませんわよね」
「あら、そうかしら。平民の中にも
「ええー! 将来の龍王陛下がですか!?」
「あくまで可能性の話ですわ。でも、黒陽様がお認めになったという事は、そういう事なのではなくて?」
女子生徒たちが好き勝手にはやし立てる。女子が噂好きというのは
(息苦しい。取るに足らないつまらない会話も、お姉様がいないと苦痛でしかないわね。それもこれも、あの男がお姉様を……)
「ところで、お相手の殿方はどのようなお方ですの?」
目を開けると、正面に座る女子生徒が首を傾げてこちらを見ていた。
どうやら自分に問うているらしい。場の視線がこちらへ集中している。
顔は平均的な龍人男子のレベル。特筆するような特徴はないが、決して不細工ではない。むしろ、美形揃いの龍人として並みなので、一般的に見れば顔立ちは整っている方だろう。やはり悪くはない、と
実力の方はどうか。
力はある。打ち合った感触からしても、
何より。
(お姉様による学園への報告では、武装した状態であの男と交戦。愛を叫ばれたことで、魂を揺さぶられて正気を取り戻した――って話だったわね。出来すぎているとは思うわ。でも、お姉様が偽りを述べているとも思えない)
「つまらない男よ」
長考した挙句、短くぽつりとそう答えた。
右隣に座る女子生徒が、両手を合わせて興味津々という風に瞳を輝かせる。
「まぁ! 退屈な――つまり、
「寡黙かというと……むしろ、騒がしいわね」
「寡黙でないのだとすると、純粋にお話がつまらないのかしら」
「そうね。あたしの言葉にいちいち突っ掛かってきて、独り相撲しているわ」
突っ掛かられる原因となった自らの暴論には目をつぶり、
「だいたい、あたしのキスを拒むような男だしね」
「ええええ!?
女子生徒たちが大きくざわめいた。
茶請けの
「なによ。そんなにおかしい?」
言って、ブロック状の黒い
「だって、
「そうですわ。この前だって、二学年首席の
「そんな
加熱していく場の空気に、その絶望的なまでの温度差に
「あたしはお姉様についていくって決めてるの。ただそれだけの話よ」
「まあ、素敵! クールですね!」
場の盛り上がりに水を差すような
上院の制服に身を包んだツインテールの少女。名は何と言ったか。
彼女は下院からの転属組。しかも、実力による昇格ではなく、龍王である父親の口利きによる昇格――つまり親の
力こそ正義。強者は弱者を束ね、弱者は強者へ
それが龍人族の
その常識を堂々と破るこの女のことが、
「褒めるほどの事じゃないわ」
素っ気なくそう言って、
上院本校舎へと続く
「あら。なんであいつがここに……?」
◇◇◇◇◇
下院最北端にある魔術研究棟は、上院の敷地と隣接している。
ボロ小屋を出た
道順はなんとなく覚えている。適性属性検査を行う際に、上院の敷地へ足を踏み入れた経験があったからだ。
だが、上院の本校舎を目前にして
「あら? 貴方、見ない顔ですわね」
上院本校舎へ続く並木道。談笑していた三人組の女子生徒の一人が、
「でもこれは紛れもなく、上院の制服ですね」
「どういう事かしら? 男子生徒は全てチェックしてあったと思うのだけれど」
優秀な男をゲットしようとする貪欲な行動力が、さらっと垣間見える。やはり貴族ばかりが揃っているとは言っても、基本的な考え方は同じなのか。
「まぁ、下院から?」
「つまり、貴方は平民出身ですのね」
値踏みするように
「どおりで見ないわけね。上院の空気は高貴すぎて肌に合わないのではなくて?」
他の女子たちも、クスクスと口元に手を当てて上品に笑う。
「貴族社会のなんたるかも知らないようでは、苦労されるでしょうね」
「ええ。平民風情の暮らす下院とは、根本的になにもかもが違うということを肝に銘じておくべきですわ」
「ですが、見たところ冴えない凡庸なご様子。肝に銘じたところで時間の無駄だと思いますわ。恥をかかない内に、お帰りになった方がよろしいのでは」
それは懐かしい感触だった。公主様と婚約してからは久しく感じることのなかった蔑むような視線と、悪意のある言葉。
「貴族と平民。出自の差は、貴方が思っている以上に大きくてよ」
「まったくです。わたくしたちと肩を並べられると思っているのだとしたら、心外ですわね」
入学当初の
あるいは半年前の
けれど、今は違う。公主様との出会いが
公主様の嘘偽りのない真心が、見返りを求めずに尽くそうとする健気な姿が、一途で純粋なその気持ちが、心の隙間を埋めてくれたから。何があっても最後まで味方でいてくれる――そんな安心感を抱くことができたから。
だから、
「あら? だんまりですの?」
「お可哀想に委縮してしまいましたか」
公主様が見つけてくれたから、
閉じた
「いいのか? 平民だと見下していると、あとで後悔するかもしれないぜ」
ジャリッ、と。
上院生たちが不快そうに眉をひそめた。
「知ってるか? 俺の嫁はとんでもなく優秀なんだぜ。そんな優秀な嫁がこう言うんだ。あなたは龍王の器だってな」
上院生たちがクスクスと失笑を漏らす。
けれど
「妄言だと思うか? いいや、それは違う。俺の嫁はビックリするほど優秀なんだ。
いつの間にか
止まらぬ歩み。
「な、なんなんですの……その妙な迫力は」
「ガラリと雰囲気が変わって……」
「さっきまでとはまるで別人ではありませんか」
一歩、二歩と。上院生たちが見えない膜に押しやられるように後ずさる。
「重要なのは肩書きではなく、中身だ。俺は、こんな俺を信じてくれた
「後悔ですって? 貴方、いったい何様のつもり?」
歯を食いしばって、一人の女子生徒が声を張り上げた。
「どけ。女と争っても時間の無駄だ」
「下院の男子ごときに、このわたくしが負けるとでも?」
「抱いてほしいのならそのままでいろ。丁重に抱きかかえて脇にどかしてやる」
「な、なんですって。この――」
距離を詰めにいった
「
「痛っ! 痛いじゃない。離してよ!」
万力のようにロックされた手首。女子生徒が
「弱い者イジメは感心しないわね」
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