第61話 魅恩教諭の誘い
相変わらずの悪天候に風は荒ぶっており、校舎の窓を叩く
「ぶえっくしゅ」
冷えた体を抱くようにして、
「っかしいな。体の調子が悪ぃ」
一晩中雨に打たれたのである。
人間の感覚からすれば、何を当たり前のことを――と思うかもしれないが、龍人は各種耐性が高いので滅多なことでは風邪を引かない。体の調子が少し悪いと思ったら、実は黒死病だった、というぐらいには免疫力が高いのだ。半分とはいえ、
「
加えて、寝不足というのが大きいのかもしれない。睡眠に関しては、龍人も人間と同じサイクルで行うので、徹夜が続くと体に
もっとも、龍人の高い免疫力をもってすれば、少しの我慢で全回復するだろう。そう決め込んで、
エレシア・イクノーシスの脅威が最も強まるのは深夜、寝ている時だ。逆に最も安全なのは、授業のある日中だと言える。学園に潜む殺人鬼になったつもりで考えてみれば、穏当に入れ替わりを済ませたいだろうから、生徒の行き交う日中に事を起こすとは考えにくい。
――パンパンッ!
最大の難所を超えて緩みかけた気を、頬を強く叩くことで引きしめる。幸い、眠気は感じない。体の
本当はボロ小屋でひと眠りして、体力を回復するべきなのかもしれないが、無駄に高ぶったやる気が、殺人鬼を探すようにけしかけてくる。
「まぁこんなに気が高ぶってちゃ、どっち道眠れねえわな」
本校舎の廊下には、他の生徒の姿はない。
それもそのはずで、現在は選択魔術の授業中だからだ。
こういう時に劣等生は強い。なにせ授業に出席しようが出席しなかろうが、成績は絶対不動の”不可”なのである。なればこそ、授業をサボるという
無人の廊下を
そして目当ての教室まで辿り着くと、柱の陰に隠れて授業が終わるのを待った。
◇◇◇◇◇
尾行というのは意外と難しいものだ。
「翔くん、あれじゃストーカーだよ」
そのような事情から、休み時間に行う尾行は他の生徒に紛れる形で行われる。あくまで教室移動のていを崩さず、距離を置いて、
尾行に気付かれるようなヘマはしていない。だが、特に収穫もないまま一日が終わろうとしていた。
(怪しい行動は一切なかった。俺の推理が間違っているのか? それともそれだけ
どちらにしろ、
と、ターゲットが廊下を突きあたりで右へ折れた。周囲には生徒の姿がまばらにあり、隠密行動はとれない。すぐに駆け寄り右折したいところを我慢して、自然体を装って行動する。見失う不安はあるが、焦ってはならない。
まだ日はある時間帯のはずなのに、窓の外は夜半のように真っ暗だ。
廊下の要所には光石が設置されているので、薄暗さはあまり感じない。闇を背景とした窓ガラスは鏡のように光を反射し、
と、光石の輝く廊下に、それとは別の光がピカッと差した。外の闇が一瞬だけ払われ、次いで時間差で
「
内心ではギクリ、としながらも
「先生、顔を貸すって言葉にはキスも含まれているそうですよ」
「何を言っているんだ、貴様は」
「いえ、要するに今は忙しいんでパスってことです」
「待て」
そそくさと立ち去ろうとする
「ぐえっ! ちょっと、首、首締まってますって」
逃げようとあがけばあがくほど首が締まって苦しくなる。その点、龍人の体は無駄に頑丈であるから、
酸欠のあまり昇天しかけた
「わかった。わかりましたから。逃げませんから手を離し……し、死ぬ……」
言葉の最後の方は、酸欠により本当に意識を失いかけていた。締まった首元をタップしてギブアップを伝えると、ようやく
新鮮な空気を吸い込み肺を満たした
「どうして俺が通るってわかったんですか」
すると
尾行がバレたわけではないことに
「貴様の剣術の腕だけは買っている。だがな、それだけで黒陽公主を娶れるほど龍人族は浅くない」
学園長に
「またそれですか。二人の仲を引き裂こうとする悪役ばかりで困っちゃいますね」
その茶化すような態度を
「貴様にはわかるまい。政略結婚とはどういうものなのか」
「政略結婚ぐらいわかりますよ。親の利益のために仕組まれた結婚のことでしょう」
「ふむ。ならば貴様の考える結婚とはなんだ」
「そりゃ、愛する二人が交わす誓い――生涯の契約みたいなものでしょう。家と家とを結びつけるなんて役割もあるみたいですけど」
「そうだ。人間社会における政略結婚とは、互いの家を結び付け、
「そのぐらい知ってますよ。龍人族は群れを作って生活する種族だってことぐらい」
そこでふと疑問を感じ、
「ん? だったら龍人族にとっての政略結婚ってなんです? 家と家が結びつかないなら、群れと群れが結びつくんですか?」
「群れとは完全に独立した存在でなければならない。子供同士が婚姻を結んだ程度でその独立性が揺らぐことはない」
「つまり、群れと群れは結びつかないと? だったらそもそも政略結婚が成り立たないじゃないですか」
その疑問に対して
「我々は群れの主人に忠誠を誓い、群れの仲間を大切にして生活を営んでいく。群れの仲間というのは、友人であり、家族であり、同僚でもあるのだ。そして群れで育った龍人の
そりゃそうだ、と
「我々龍人族は、とかく好戦的な民族だ。小さなトラブル――例えば、肩がぶつかった程度の小事で、群れをあげての殺し合いに発展することだってある。では、嫁いだ先の群れと生まれ育った親の群れ、双方が対立する事態となった場合、龍人女子はどのように行動すると思う」
「そりゃ……争いを止めようとするんじゃないですか。俺の感覚からすれば、家族と家族が殺し合うようなものですし」
「正解だ。有事の際、龍人女子は親の群れを攻撃しないように立ち回る。この時、群れ内部での地位が高いほど発言力が高まり、抑止効果も高まる。特に最高権力を握る六妃ともなれば、その影響は絶大というわけだ」
「要するに娘を高い地位につけておけば、将来の争いを回避できるってことですか」
「ああ、そのとおりだ。だが、弱小の群れとの争いを回避しても意味がない。あくまで自分の群れの不利益となるような、強大な群れとの争いを回避できるからこそ意味があるんだ。要するに、貴様が黒陽公主を娶るためには、将来自分の脅威になり得ると龍皇陛下に認めさせる必要があるということだ」
公主様の計画では、卒業してから嫁ぐまでの短い期間に、龍皇陛下から
「
その回答に、
「
「だったら、
「正妃は六妃の中でも別格で、その発言力は主人と同等だ。上院の首席相当に嫁がせておけば、
主人と同格。それは文字通り、正妃が最高責任者の任にあるということを意味する。ならば主人がいくら開戦を望んでも、正妃が拒否すれば実現しないというわけだ。確かにこれなら、正妃待遇に限り条件が緩和されても不思議はない。
「そういや黒陽も、正妃は主人と対等だって言ってたな。だから自分にも、妃選定の権限があるって……」
公主様のハーレム計画を思い出し、同時に
が、落ち込む暇もなく
「気を緩めるな。貴様の置かれている状況はヘラヘラしてやり過ごせるほど甘くはないぞ」
「なら、どうしろって言うんです? 現状、俺にできることはないと思いますけど」
「授業をサボるな」
「は?」
「現状を打開する第一歩として、まずは今日最後の授業にきちんと出席すること」
「今日最後の授業って……剣術でしょ。言われるまでもなくサボったりしませんよ」
今まで、剣術の授業をサボったことは一度としてない。なにせ剣術は、
そもそもそれ以前に、現状を打開する第一歩として授業に出席しろという理屈も意味不明である。真面目に授業を受けて模範的な生徒となり、地道に成績を上げろという意味なのだとしても、適性属性なしという超例外にその理屈は通用しない。
「今日は雨天のため、いつもの舞台ではなく実験棟で行う。サボらないで必ず出席すること。以上だ」
呆気に取られる
龍人というのは、時折何を考えているのか全く読めないことがある。あるいはそれは血の通わぬ殺人鬼も同じなのだろうか。
鏡のような窓ガラスには、呆然とする
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