第61話 魅恩教諭の誘い

 一昼夜いっちゅうやが過ぎても、嵐は通りすぎなかった。

 相変わらずの悪天候に風は荒ぶっており、校舎の窓を叩く雨脚あまあしは強い。


「ぶえっくしゅ」


 冷えた体を抱くようにして、麒翔きしょうは盛大にくしゃみをした。


「っかしいな。体の調子が悪ぃ」


 一晩中雨に打たれたのである。

 人間の感覚からすれば、何を当たり前のことを――と思うかもしれないが、龍人は各種耐性が高いので滅多なことでは風邪を引かない。体の調子が少し悪いと思ったら、実は黒死病だった、というぐらいには免疫力が高いのだ。半分とはいえ、麒翔きしょうもその性質を受け継いでいるのだから、当然免疫力も高いはずなのだが。


雷雨らいうの中を一晩ひとばんごすってのは、流石にやりすぎだったか?」


 加えて、寝不足というのが大きいのかもしれない。睡眠に関しては、龍人も人間と同じサイクルで行うので、徹夜が続くと体にこたえるのだ。

 もっとも、龍人の高い免疫力をもってすれば、少しの我慢で全回復するだろう。そう決め込んで、麒翔きしょうは本校舎の廊下をガタガタと震えながら歩いていく。


 エレシア・イクノーシスの脅威が最も強まるのは深夜、寝ている時だ。逆に最も安全なのは、授業のある日中だと言える。学園に潜む殺人鬼になったつもりで考えてみれば、穏当に入れ替わりを済ませたいだろうから、生徒の行き交う日中に事を起こすとは考えにくい。


 ――パンパンッ!

 最大の難所を超えて緩みかけた気を、頬を強く叩くことで引きしめる。幸い、眠気は感じない。体の倦怠感けんたいかんはあるものの、脳が臨戦りんせん態勢たいせいを取っているおかげか思考はクリアで、高揚こうようすら覚えるほどにやる気に満ちている。


 本当はボロ小屋でひと眠りして、体力を回復するべきなのかもしれないが、無駄に高ぶったやる気が、殺人鬼を探すようにけしかけてくる。


「まぁこんなに気が高ぶってちゃ、どっち道眠れねえわな」


 本校舎の廊下には、他の生徒の姿はない。

 それもそのはずで、現在は選択魔術の授業中だからだ。


 こういう時に劣等生は強い。なにせ授業に出席しようが出席しなかろうが、成績は絶対不動の”不可”なのである。なればこそ、授業をサボるという禁忌タブーも、麒翔きしょうにとっては禁忌タブーになりえない。大手を振って授業をサボることに何の罪悪感もないのだ。優等生である公主様や桜華だとこうはいかない。


 無人の廊下を麒翔きしょうは進む。目的地は闇魔術の授業が行われている教室。今日も今日とて、一日中魅恩みおん教諭を監視しようという腹積もりである。


 そして目当ての教室まで辿り着くと、柱の陰に隠れて授業が終わるのを待った。




 ◇◇◇◇◇


 尾行というのは意外と難しいものだ。

 人気ひとけのない廊下を行く時は、尾行対象に気付かれぬよう隠密的な行動が必要になる。だが、生徒でごった返す休み時間となるとそうはいかない。柱から柱へささっと動くような真似をしていれば、傍からは変質者にしか見えないからだ。もしも桜華が見ていたらこう言うだろう。


「翔くん、あれじゃストーカーだよ」


 そのような事情から、休み時間に行う尾行は他の生徒に紛れる形で行われる。あくまで教室移動のていを崩さず、距離を置いて、魅恩みおん教諭の後をついて回る。

 尾行に気付かれるようなヘマはしていない。だが、特に収穫もないまま一日が終わろうとしていた。


(怪しい行動は一切なかった。俺の推理が間違っているのか? それともそれだけ狡猾こうかつに溶け込んでいるということか)


 どちらにしろ、麒翔きしょうにできることは限られている。

 魅恩みおん教諭の私室に踏み込むという強行手段も、行方不明の女子生徒が学園から脱出した今となっては、その成果を期待できそうもなかった。とはいえ、何もせずに手をこまねいているわけにもいかない。だからこうして辛抱強く張り付き、尻尾を出すのを待っているのだ。


 と、ターゲットが廊下を突きあたりで右へ折れた。周囲には生徒の姿がまばらにあり、隠密行動はとれない。すぐに駆け寄り右折したいところを我慢して、自然体を装って行動する。見失う不安はあるが、焦ってはならない。


 まだ日はある時間帯のはずなのに、窓の外は夜半のように真っ暗だ。

 廊下の要所には光石が設置されているので、薄暗さはあまり感じない。闇を背景とした窓ガラスは鏡のように光を反射し、麒翔きしょうの姿を映し出している。

 と、光石の輝く廊下に、それとは別の光がピカッと差した。外の闇が一瞬だけ払われ、次いで時間差で万雷ばんらいとどろき渡る。


 魅恩みおん教諭から遅れること数十秒。麒翔きしょうは廊下を右へ。右折したところで、反射的に足を止めかけた。壁に背を預け、腕組みをした魅恩みおん教諭が立っていたからだ。だが彼は、足を止める愚を犯さなかった。そのまま真っ直ぐ、何食わぬ顔で歩き続ける。


麒翔きしょう、ちょっと顔を貸せ」


 魅恩みおん教諭の前を通り過ぎようとした時だった。目を瞑っていた彼女は、すっと捕食者のような目を開けてそう言った。

 内心ではギクリ、としながらも麒翔きしょうは動揺を見せないように軽口を叩く。


「先生、顔を貸すって言葉にはキスも含まれているそうですよ」

「何を言っているんだ、貴様は」

「いえ、要するに今は忙しいんでパスってことです」

「待て」


 そそくさと立ち去ろうとする麒翔きしょうの襟首がぐいっと掴まれ、強引に後ろへ引き戻された。


「ぐえっ! ちょっと、首、首締まってますって」


 逃げようとあがけばあがくほど首が締まって苦しくなる。その点、龍人の体は無駄に頑丈であるから、魅恩みおん教諭の方にも遠慮がない。ここで踏ん張るのを止めたら、そのまま壁に叩きつけられてしまいそうなぐらい力が入っている。人間だったらとっくに首の骨が折れているのではなかろうか。

 酸欠のあまり昇天しかけた麒翔きしょうはとうとう観念して、白旗を上げた。


「わかった。わかりましたから。逃げませんから手を離し……し、死ぬ……」


 言葉の最後の方は、酸欠により本当に意識を失いかけていた。締まった首元をタップしてギブアップを伝えると、ようやく魅恩みおん教諭は手を放してくれた。

 新鮮な空気を吸い込み肺を満たした麒翔きしょうは、ゴホゴホと咳き込みながら、


「どうして俺が通るってわかったんですか」


 すると魅恩みおん教諭は、黒く塗りつぶされた鏡面のような窓ガラスを顎でしゃくった。黒の鏡面が、今歩いてきたL字通路の先を映し出している。

 尾行がバレたわけではないことに麒翔きしょうが密かに安堵していると、魅恩みおん教諭が大きなため息をついた。


「貴様の剣術の腕だけは買っている。だがな、それだけで黒陽公主を娶れるほど龍人族は浅くない」


 学園長に明火めいび教諭。そしてここにきて魅恩みおん教諭にまで。都合三度目の説教に麒翔きしょうはうんざりした顔を隠すことなく、大きなため息を突き返した。


「またそれですか。二人の仲を引き裂こうとする悪役ばかりで困っちゃいますね」


 その茶化すような態度を魅恩みおん教諭はとがめなかった。彼女はズレた三角眼鏡を整えると腕を組みなおし、ゆるゆると首を振る。


「貴様にはわかるまい。政略結婚とはどういうものなのか」

「政略結婚ぐらいわかりますよ。親の利益のために仕組まれた結婚のことでしょう」

「ふむ。ならば貴様の考える結婚とはなんだ」

「そりゃ、愛する二人が交わす誓い――生涯の契約みたいなものでしょう。家と家とを結びつけるなんて役割もあるみたいですけど」

「そうだ。人間社会における政略結婚とは、互いの家を結び付け、互恵ごけい関係を得るために行われる。だが、龍人族に家という概念は存在しない」

「そのぐらい知ってますよ。龍人族は群れを作って生活する種族だってことぐらい」


 そこでふと疑問を感じ、麒翔きしょうは首を捻った。


「ん? だったら龍人族にとっての政略結婚ってなんです? 家と家が結びつかないなら、群れと群れが結びつくんですか?」

「群れとは完全に独立した存在でなければならない。子供同士が婚姻を結んだ程度でその独立性が揺らぐことはない」

「つまり、群れと群れは結びつかないと? だったらそもそも政略結婚が成り立たないじゃないですか」


 その疑問に対して魅恩みおん教諭は、出来の悪い生徒をさとすように応じる。


「我々は群れの主人に忠誠を誓い、群れの仲間を大切にして生活を営んでいく。群れの仲間というのは、友人であり、家族であり、同僚でもあるのだ。そして群れで育った龍人の幼龍こどもは十八で他の群れへ嫁いで独立する。この際、新しい主人に仕えることになる訳だが、独立したからといって自分が生まれ育った群れへの思い入れがなくなるわけではない」


 そりゃそうだ、と麒翔きしょうは思う。結婚して家を出たからと言って、親や兄弟が赤の他人になるわけではない。それは家と家の結びつき以前の問題だ。


「我々龍人族は、とかく好戦的な民族だ。小さなトラブル――例えば、肩がぶつかった程度の小事で、群れをあげての殺し合いに発展することだってある。では、嫁いだ先の群れと生まれ育った親の群れ、双方が対立する事態となった場合、龍人女子はどのように行動すると思う」


 魅恩みおん教諭に問われ、麒翔きしょうは戸惑いながらも答える。


「そりゃ……争いを止めようとするんじゃないですか。俺の感覚からすれば、家族と家族が殺し合うようなものですし」

「正解だ。有事の際、龍人女子は親の群れを攻撃しないように立ち回る。この時、群れ内部での地位が高いほど発言力が高まり、抑止効果も高まる。特に最高権力を握る六妃ともなれば、その影響は絶大というわけだ」

「要するに娘を高い地位につけておけば、将来の争いを回避できるってことですか」

「ああ、そのとおりだ。だが、弱小の群れとの争いを回避しても意味がない。あくまで自分の群れの不利益となるような、強大な群れとの争いを回避できるからこそ意味があるんだ。要するに、貴様が黒陽公主を娶るためには、将来自分の脅威になり得ると龍皇陛下に認めさせる必要があるということだ」


 公主様の計画では、卒業してから嫁ぐまでの短い期間に、龍皇陛下から龍閃りゅうせんの爵位をたまわる予定だった。だが、話を聞いてみた限りだと事情が少し異なっているように思える。魅恩みおん教諭の話を鵜呑うのみにしたわけではないが、合点がいく部分もあった。


龍公りゅうこう以上の妃が条件となっているのは、そのためなんですね」


 その回答に、魅恩みおん教諭が神妙に頷く。


龍聖りゅうせいは貴族とはいえ、陛下からすれば脅威にはなりえないからな」

「だったら、龍閃りゅうせんの正妃という条件はなんなんです。龍聖りゅうせいより遥かに下ですよ」

「正妃は六妃の中でも別格で、その発言力は主人と同等だ。上院の首席相当に嫁がせておけば、成龍おとなになるまでの間に、龍公クラスへの成長が見込める」


 主人と同格。それは文字通り、正妃が最高責任者の任にあるということを意味する。ならば主人がいくら開戦を望んでも、正妃が拒否すれば実現しないというわけだ。確かにこれなら、正妃待遇に限り条件が緩和されても不思議はない。


「そういや黒陽も、正妃は主人と対等だって言ってたな。だから自分にも、妃選定の権限があるって……」


 公主様のハーレム計画を思い出し、同時に麒翔きしょうはげんなりした。

 が、落ち込む暇もなく魅恩みおん教諭の鋭い声が飛ぶ。


「気を緩めるな。貴様の置かれている状況はヘラヘラしてやり過ごせるほど甘くはないぞ」

「なら、どうしろって言うんです? 現状、俺にできることはないと思いますけど」

「授業をサボるな」

「は?」

「現状を打開する第一歩として、まずは今日最後の授業にきちんと出席すること」

「今日最後の授業って……剣術でしょ。言われるまでもなくサボったりしませんよ」


 今まで、剣術の授業をサボったことは一度としてない。なにせ剣術は、麒翔きしょうにとって唯一の得意科目であり、退学を回避するための生命線だから。それに剣術の担当は魅恩みおん教諭なので、監視を理由にサボる必要もない。


 そもそもそれ以前に、現状を打開する第一歩として授業に出席しろという理屈も意味不明である。真面目に授業を受けて模範的な生徒となり、地道に成績を上げろという意味なのだとしても、適性属性なしという超例外にその理屈は通用しない。


「今日は雨天のため、いつもの舞台ではなく実験棟で行う。サボらないで必ず出席すること。以上だ」


 呆気に取られる麒翔きしょうを無視して、話は終わりだとばかりに魅恩みおん教諭が歩きだす。

 龍人というのは、時折何を考えているのか全く読めないことがある。あるいはそれは血の通わぬ殺人鬼も同じなのだろうか。


 鏡のような窓ガラスには、呆然とする麒翔きしょうの姿が映し出されていた。

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