第60話 予想外の奇襲

 夜闇に雷鳴らいめいとどろいた。


 お城のような外観の下院本校舎。その三角屋根に隠れ潜む者を、暗闇に走る一筋の光があばくように照らし出す。

 三角屋根へうつ伏せに寝そべって、三角の主棟しゅむねから頭半分だけを覗かせて、女子寮を見張るその人物。冷たい雨に打たれて全身はびしょ濡れ。体は芯から冷えているが、一顧いっこだにせず、注意深く女子寮を観察している。


「大きく動いた以上、必ず数日以内に仕掛けてくるはずだ」


 静かなる闘志を燃やすその人物――麒翔きしょうは、雨に濡れて重たくなった龍衣の袖を絞りながら言った。すぐに追加の雨が打ち込まれるので、あまり意味はない。


 眼下には手前に女子寮、その奥に教師用の宿舎がある。この高い位置からなら、その二つを視界に収め、監視することができる。


 昼頃から始まった激しい雷雨は、夜半になってもその勢いが衰えることはなかった。ではなぜ、麒翔きしょうが雨に打たれ、寒い思いをしながらこんなところにいるのかというと、それは公主様の身の安全を守るためである。


 麒翔きしょうは《気》に関してはエキスパートである。《気》の変化を読む鋭い五感と、こうした目視とを合わせれば、すぐに異常を察知できるだろう。

 雷雨により大気の《気》が乱されるので、平時よりも集中力は必要だが、生徒が行き交う昼間と比べれば、幾分マシではある。


 六人の女教師たちが教師用宿舎に入ったのは確認している。あれから誰一人として、宿舎からでた者はいない。つまり、教師の中にエレシア・イクノーシスが潜んでいるのだとすれば、公主様の身は安全ということになる。唯一の例外は学園長の青蘭せいらんだが、女子寮を見張っていれば、どちらにせよ手出しはできない。


 一晩中雨に打たれる程度、なんてことはない。戦闘民族としての血が、意識を覚醒させ眠気を吹き飛ばす。


紅蘭こうらんの話によれば、夜間の学園は結界が張られていて外部からの侵入は不可能。つまり、学園から失踪した女子生徒を使って襲撃することは不可能なんだ。だから、ここでこうして頭を押さえておけば、必ず尻尾を掴める。狡猾こうかつな殺人鬼だかなんだか知らないが、尻尾を出したらその時は容赦しねえ。絶対にぶち殺してやる」


 壊れたマリオネットのように地面へ横たわる公主様の姿が脳裏に浮かぶ。

 ギリッと奥歯が鳴った。


「獣王の森での借りは必ず返す。必ずな」


 憎悪に心が満たされ、雨に濡れた拳をぎゅっと握り込む。麒翔きしょうは、眼下に広がる教師用宿舎の屋根を睨みつけた。公主様を壊れたマリオネットのようにズタボロにした犯人が、今あの中にいる。そう考えただけではらわたが煮え返り、平常心を失いそうになる。果たして、犯人の特定が済んだ時、自分は冷静でいられるだろうか。


「一つ確かなことは、黒陽に刃を突き立てようとするのなら、俺は躊躇ちゅうちょしないってことだ。あの時と同じように叩き斬る。例え、女教師だったとしてもな」


 彼の決意は本物で、そして取った行動にもミスはなかった。

 ただ一つだけ誤算があった。




 ◇◇◇◇◇


 上院の敷地には多くの商業施設が併設されている。

 ショッピングモールもその内の一つで、数多くのテナントが入った巨大施設は、夜半ということもあり現在は完全に営業を停止し、門戸は硬く閉ざされている。


 職員さえも帰宅したショッピングモール内。

 消灯し、明かりの落ちた大理石の床をカツコツと足音を響かせて、歩く影がある。赤と黒の龍衣。髪を後ろで一つに縛り、左耳には銀のイヤリングを付けている。気の強そうな眉尻と、眼光鋭い真紅の瞳はただ真っ直ぐ前だけを見つめている。


 ショッピングモール内は、光沢の浮かぶ大理石の道が真っすぐ続いていて、その左右には四角く切られたテナントがひしめいている。モールは三階建てで、頭上を見上げれば、迷路のように空中回廊が張り巡らされていた。


 モールの一角にある六英傑ろくえいけつ像の前で、紅蘭こうらんはピタリと足を止めた。

 そっと、冷たい銅像に触れる。


「…………」


 自分が生まれる前の人物に思いをせた彼女は、しばらくするとプイッとそっぽを向き、近場にあった木製のベンチへ腰かけた。


「わかっていたわ。お姉様の選んだ人が優秀だってことぐらい」


 適性属性なしの半龍人。

 もし評判通りの男なら、黒陽公主が惚れるはずがないのだ。


 だが、いくら優秀であったとしても――例え姉の言うように、龍王の器なのだとしても――紅蘭こうらんの心はトキメかない。なぜならその心は一分の隙もなく黒陽公主で埋め尽くされているからだ。


 目をつぶり、昔のことを思い出す。


 黒陽公主と出会ったのは五歳の頃だった。




 ◇◇◇◇◇


 物心ついた頃から、紅蘭こうらんは群れで生活した記憶がない。覚えているのは、砂塵さじんの舞う砂漠地帯を母の青蘭せいらんに手を引かれて、移動し続ける日々だけである。


 母は「はぐれ」と呼ばれる群れを持たない龍人だった。はぐれは縄張りを持たないので、各地を放浪し続けるしかない。一箇所に留まれば、縄張りを主張する他の群れと衝突してしまうからである。


 ほぼ歩き詰めの生活は五歳児には辛かった。

 柔らかな砂に足を取られ、ズデンと転んでしまう。その都度、母は優しく抱き起し、頭を撫でてくれた。過酷な旅が続き、泣きたくなることも幾度となくあったが、生来せいらいの勝気な性格も手伝って、紅蘭こうらんはなんとか母の背について行くことができた。


 砂漠という不毛の大地で、最も重要なのは水だ。

 だが幸い、その確保に奔走ほんそうする必要はなかった。青蘭せいらんの適性属性は水であり、水魔術によって大気から水を生成できたからである。


 豊かな土地ほど縄張り争いは熾烈しれつとなる。逆を言えば、争う価値のない土地ほど競合する確率は低くなるのだが、しかしそれでも、縄張り争いに敗走するような力のない群れは不毛な土地へ流れてくる。


 そうすると何の得もない砂漠のような場所であっても、縄張りを主張する群れ同士がぶつかることになる。


 例え、母にその気がなくとも、縄張りを侵犯したと相手が判断すれば、否も応もなく戦闘は始まってしまう。幸い、母の青蘭せいらんは実力者であったため、多勢に無勢であっても紅蘭こうらんを守りながら今日こんにちまで生き延びることができていた。けれど、過酷な放浪生活に加えて、度重なる戦闘の余波で体はすでに限界を迎え、ボロボロだった。


 そんな中、救いの手を差し伸べてくれたのは、反逆者の残党を追って砂漠まで遠征してきた龍皇の将妃しょうひ烙陽らくようだった。

 彼女は言った。


「私の部下になりなさい。群れに所属しないのは訳があるのでしょうけれど、娘を連れての放浪生活は無理があるわ」


 母は悩んだ末に、この提案を受け入れた。

 これは後になってわかったことだが、主人を失った龍人女子の末路まつろは悲惨なものとなるらしい。殺されるか、奴隷として勝者の群れへ吸収されるか、落ちびてはぐれとなるか。どうやら母は敗走の上で、はぐれとなったらしかった。


 そしてはぐれは、龍人にとって軽蔑けいべつの対象となる。主人にじゅんじて死ぬこともできず、勝者にひざまずき許しを乞うこともできず、わが身可愛さに敗走した無様な女――それが、龍人社会でのはぐれへの評価だった。


 奴隷はその働き如何いかんによっては、潔く忠誠を尽くせると判断され、昇格の機会が与えられる。だがその一方で、はぐれにはその機会は与えられない。というかそもそも、群れに編入させてもらえない。主人に殉ずることもできず、一人おめおめと逃げ延びた龍人女子に忠誠心は期待できないからだ。


 だが将妃・烙陽らくようは違った。真の実力至上主義を唱える彼女は、はぐれだろうと奴隷だろうと、他種族だろうと、優秀な者は取り立てて己の部下として平等に扱った。そして青蘭せいらんがその期待に応えるたびに地位は向上していき、最終的に空席だった盟妃めいひの称号を与えられることになる。


 そして母が正式に盟妃の称号を与えられた晩、紅蘭こうらんは黒陽公主と出会ったのだ。


「黒陽だ。よろしく頼む」


 乏しい顔のまま、五歳児とは思えない堅苦しい挨拶で握手を求められた。

 その美は当時にして相当の高みにあった。そして紅蘭こうらんよりも小さな体躯たいくであるにも関わらず、凛とした高貴なオーラをまとっており、その存在は大きく見えた。


 黒陽公主には、同年代はもちろん年上の男子でさえ勝てる者はいなかった。五歳にして学園で修了予定の魔術は学び終えており、長い龍人族の歴史を見てみても、彼女ほどの逸材は、千年に一人生まれるかどうかと言われるほどである。


 龍人女子は強い男を好きになる。だが、紅蘭こうらんの初恋は黒陽公主だった。気高く美しい圧倒的な実力者。その恋は今でも続いている。


紅蘭こうらん。群れの仲間は大切にしろ。おまえはもう一匹狼じゃないんだ」

「はい! お姉様!」


 ひな鳥のように黒陽公主の後を付いて回り、元気良く返事をした。


紅蘭こうらん。高圧的な態度を取るだけでは人はついて来ないぞ」

「はい! お姉様!」


 姉の美しい顔に見惚れ、話は頭に入ってこなかった。


紅蘭こうらん。小細工で乗り切ろうとするな。もっと大局を見るんだ」

「はい! お姉様!」


 黒陽公主は、紅蘭こうらんのすべてだった。

 彼女が嫁ぐことを決めたなら、紅蘭こうらん追従ついじゅうしなければならない。




 ◇◇◇◇◇


 回想に沈んでいた紅蘭こうらんは、長く整った勝ち気な眉をピクリと反応させ、おもむろに顔を上げた。ベンチから立ち上がる。


 人気のなくなったモール内。暗闇に沈む空間に気配を感じる。


「誰かいるの?」


 無人の空間に甲高い紅蘭こうらんの声が響く。

 応答は返らなかった。だが、やはり気配を感じる。

 紅蘭こうらんは素早く左右を見回した。人影はない。


 毎日行っている故人への拝礼。今まで一度としてこのような気配を感じたことはない。それだけに暗闇に漂う人の気配は不気味だった。


 現在は日付の変わった夜半過ぎ。学生は外出禁止時間であるし、モールの職員にしても、とっくに帰宅している。モールは現在、厳重に施錠せじょうされており、管理者クラスでなければ立ち入ることはできない。学園長の娘という特別な立場でなければ、紅蘭こうらんとてモールに立ち入ることはできなかった。


 つまり、もしも何者かが潜んでいるのだとしたら、それは学園規則を超越ちょうえつする皇族か、あるいは無法者アウトローのどちらかしかない。


 ふと、行方不明となった女子生徒の話を思い出した。だが、学園は紅蘭こうらんにとって家みたいなものであり、また警備も万全だという認識があった。その油断が、暗闇から突如として出現した少女の奇襲を成功させてしまった。


 圧縮された空気のようなものが腹部へ叩きつけられ、痛烈な痛みと共に衝撃で体が浮いた。そのまま後方へ吹き飛び、柱へ叩きつけられる。


「ぐっ……何者だ」


 よろめきながらも紅蘭こうらんは、自身を打ち据えた石柱を支えに立ち上がった。

 警鐘が脳内に鳴り響く。大きなダメージを受けている。

 瞬時に、戦闘民族としての血が紅蘭を戦闘モードへと切り替えた。

 銀のイヤリングを千切るように取り、握り込んだ拳を通して《気》を込める。


 ――火輪槍かりんそう


 縦に長い八面体のイヤリングは、轟っ! と音を立て、燃え盛る紅蓮の槍へとその姿を変えた。長槍をブンブンと振り回し、切っ先を突き付けるように構えを取る。

 そこでようやく相手を視認。紅蘭こうらんは眉をひそめた。


「人間? なぜ人間がここにいるのよ」


 暗闇に溶け込むように金髪の少女が佇んでいる。西方人と思しきドレスに身を包んだその少女は、青い瞳を月光のように妖しく光らせた。


「こんな時間に夜遊びとはいけませんわ。悪い子にはお仕置きが必要かしらね」

「何者だ」


 悠然と歩み寄る金髪の少女へ向けて、火輪槍を一分の隙もなく構えたまま、紅蘭こうらんは鋭く誰何すいかした。


「ふふふ、就寝前の点呼は終わっている。つまり、あなたが姿を消しても明日いっぱいは騒ぎにならない、ということですわ」


 邪悪な哄笑こうしょうを浮かべ、少女は高らかに笑い声をあげた。

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