第71話 二人だけの世界

 すっかり様変わりしてしまった時計塔の内部。

 強力な吐息ブレスで塔内にはそこかしこに穴が空き、数十万の弾丸が打ち込まれた壁面と床面ははち状態で、螺旋らせん階段は崩落ほうらく寸前という状況。

 風通しの良くなった大穴から、激しい雨音が入ってくる。時折、空がピカッと光り、落雷による轟音ごうおんがボロボロになった時計塔を震わせる。


 赤と白の龍衣。公主様のころもは雨に濡れて湿っていた。

 濡れた衣に体温を奪われたのか、公主様の華奢な体はひやりと冷たい。意識を失ってしまった彼女を力一杯に抱きしめながら、麒翔きしょうは不安に顔を曇らせる。


「目を覚ましてくれよ。頼むからさ」


 戦いの最中さなか麒翔きしょうの言葉がきちんと届いたのか、いまいち判然としない。

 次に目覚めた時、やはり彼女は失われたままで、エレシア・イクノーシスが目を覚ますことだって十分ありえるのだ。目覚めないままの彼女を見ていると、その不安がどんどん大きくなっていく。膨らんだ不吉な想像を振り払うように麒翔きしょうはかぶりを振る。


「意識を失ったってことはきっと戦ってるんだよな。体の支配権を賭けてエレシア・イクノーシスと二人きりで」


 答えは返らない。

 だけど、それでもいいと麒翔きしょうは思う。ただ静かに後ろから抱きしめるようにして語り掛ける。


「わかってる。黒陽おまえが負けるはずないってことぐらい。俺の嫁は笑っちまうぐらい優秀だからな。旦那の俺の立場はどうなるんだよ、本当にさ」


 前方の空間から、何かが崩れるような大きな音がした。驚いて顔を上げると、戦闘ではちとなった螺旋らせん階段の一部が、自重じじゅうたええかね崩落ほうらくしたところだった。


「見ろよ。時計塔がめちゃくちゃだ。だけど人的な被害は出ちゃいない。あの殺人鬼を相手に、被害がこれだけ少なく済んだのは、黒陽おまえがすべてを引き受けてくれたからなんだろ」


 優秀な婚約者が誇らしかった。

 だけど、それが最善な道なのだとしても、それでも無茶はしてほしくなかった。


「なんで相談してくれなかったんだよ、とは言わない。仮に相談されていたとしても、やっぱり俺は反対したし、自分の手で殺人鬼を討とうとしただろうから。だからここは、相談しない、が正解だったんだろうな」


 群れを守るのは龍人男子の務め。

 そして生粋きっすいの龍人男子は、自分の女が傷つけられた時に絶対に泣き寝入りをしない。命ある限り戦い、そして死んでいく。その戦闘民族としての血が、自分にも流れているのだということを麒翔きしょうは強く自覚する。


「これが夫の覇道を支える妻の献身けんしんってやつなのか? でもさ、黒陽おまえが目を覚まさなかったら意味がないんだぜ」


 ――力ある龍人の義務。

 ふと、以前に彼女が言っていた言葉を思い出した。


「そういうことか。黒陽おまえはそれを有言実行していたわけか。学園は龍皇陛下の群れの一部。だとすれば、公主である黒陽おまえには、群れの一員である教師や生徒を守る義務が生まれる。すべての危険を引き受けることで、みんなを守ろうとしたんだな」


 力なく横たわる公主様をぎゅっと強く抱きしめる。

 頭の重みをその胸に感じ、雨に湿った黒髪を優しく撫でる。


「本当に頭が下がるよ。そして誇らしい気持ちでもある。俺の婚約者はこんなにすげえ奴なんだぞってな。アルガントに帰ったら母さんにだって胸を張って紹介できる」

「ならば今度、挨拶に伺おう」

「ん?」


 一人、虚空こくうに向かって話し掛けていた麒翔きしょうは、突如挟まれた相槌あいづちに首を捻った。そして腕の中で、ぐったりしていた公主様の目が開かれていることに気付く。彼女はその身を起こすと、真っ先に乱れた。その瞬間、麒翔きしょうは堪えきれない衝動に駆られ、華奢な体を今度は正面から強く強く抱きしめていた。


「良かった。無事だったんだな。心配かけやがって」


 涙声になってしまったが、決して泣いているわけではない。少し鼻が詰まっているだけだ。などと、麒翔きしょうが心の中で強がっていると、


「すまない。あなたを騙すような真似をしてしまった」


 公主様がしおらしく弱々しい声で言った。

 力なくうな垂れる恋人に、麒翔きしょうはゆるゆると首を振る。


(見方によっては、俺は出し抜かれたのかもしれない。相談なしの独断専行どくだんせんこう。それは黒陽の常識からすれば、主人を騙すようなものだろう。だけど、エレシアの正体を見破れなかったのは俺の落ち度だ。それにもうわかっているんだ――)


 文字通り全てを守るため、公主様は最善の選択をした。ただそれだけで、責められるようなことは何一つしちゃいない。なにより、こうして無事に戻ってきてくれた事が、麒翔きしょうはどうしようもなく嬉しかった。


「どうしても必要な措置そちだったんだろ」

「ああ、そのとおりだ」

「だったら気にすんな」

「そういう訳にもいかない。私はあるじを騙してしまった」


 一向に晴れる様子のない美しい顔に、麒翔きしょうは首を傾げた。


 主に対する忠誠心が、罪悪感を植え付けているのだろうか。

 もちろん、気にする必要などない。けれど、彼女の中にある罪悪感はどうしても消せないようで、その顔は曇ったままだ。そんなことで気に病むぐらいなら――


「よし、わかった。罰を与えてやるよ」


 抱きしめていた力を緩め、クイッと顎を持ち上げる。そうして躊躇ちゅうちょすることなくそのくちびるを奪った。

 合わさっていたのはほんの数秒。薄桃色の唇から口を離すと、驚きに目を丸くした公主様へ向き合って、麒翔きしょうは照れ臭そうに言う。


「勝手に唇を奪うなんて悪い男だろ? つーわけで、これで貸し借りなしな」

「ならば、その悪い男は次に何をしてくれるんだ?」


 公主様の黒い瞳がほうけるようにうるんでいる。それはその先を期待しているようで、麒翔きしょうの心臓がドキリと跳ねた。崩れかけた時計塔の中で、二人は何度も熱い抱擁ほうようを交わし、愛を確かめ合った。

 周りには誰もいない。二人だけの世界がしばらく続き、そうして二人の仲は、少しだけ進展したのだった。

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