第70話 魂の監獄

 どこまでも続く広大な白い床面の上へエレシアは立っていた。

 辺りを見回す。360度、地平線の先まで白い空と白い床面が続いている。どちらも白なので境目がどこなのか判別すらできない。無限に白だけが続いている。


「ここはどこですの? わたくしは……あの男子生徒に押し倒されて……」


 その先の記憶を掘り起こそうとしても、エレシアは何も思い出せなかった。

 そもそもここはどこなのか。薄暗い時計塔内とは似ても似つかない場所である。一面の白が眩いぐらいに目を刺してくる。


「ご苦労だったな。私の願いは叶った。貴様の役目もここで終わりだ」


 つい数秒前まで誰もいなかった背後から声が掛けられた。

 振り向くと黒髪の美少女が立っていた。下院の制服。赤と白の龍衣に身を包んだ彼女は、乏しい顔を別人かと思うぐらい豊かに変えて笑んでいた。


 はっとしてエレシアが自身の半身へ視線を落とすと、赤いフリルのついたドレスが視界に飛び込んできた。見覚えのあるドレスだ。遠い昔、まだ侯爵令嬢だった頃に好んで着ていたものとよく似ている。肩口にかかった髪を一房、片手ですくう。光沢のあるブロンドの髪がサラサラと指の隙間からこぼれ落ちていく。


「とっくの昔に捨てた体がなぜ……」

「それが貴様の魂の形――本来の姿だからだ」

「魂ですって? つまりここは――」


 エレシアはもう一度、周囲を見回した。一面の白に変化はない。


「魂の眠る地。精神世界ということですか」

「そういうことだ。貴様は私の魂を葬ったつもりでいたようだがな。残念、私の魂はこの通り無事だった」

「ならば、今この場で始末して差し上げますわ。ここが精神世界だというのなら、魂転化の術式の支配圏だということ。そこへノコノコやって来るとは、世間知らずのお姫様といえど、怖いもの知らずにも程があるのではなくて」


 白亜はくあの空間に二人の少女が立っている。

 夜闇よりも深い黒髪を持つ少女と、黄金に輝くブロンド髪の少女が向かい合い、対決の姿勢を強めていく。黒髪の少女が口を開いた。


「知っているか? カエルは熱湯に放り込まれると驚いて逃げ出すが、少しずつ湯の温度をあげていくと、逃げ出せずに死ぬそうだ」

「あら? それは人も同じですわよ。死が間近に迫っていれば我先にと逃げ出す癖に、緩慢かんまんな死となるとそうはいかない。例えば、殺人鬼を前にすればなりふり構わず逃げ出すけれど、殺人鬼が潜んでいるという噂を聞いただけでは、行動には結びつかない。それは実際に犠牲者がでてからも同じこと。結局、自分は大丈夫だと思いたいのでしょうね。愚かな者どもは」


 黒髪の少女がクスクスと笑う。


「今の貴様も同じさ」

「なんですって?」


「私がその正体を無理にあばこうとすれば、貴様は逃げ出そうとなりふり構わず暴れただろう。そうすればそれに伴って、死者もたくさん出たに違いない。だが、こちらが穏当に事を運べば、貴様も事を荒げないように穏当に行動する。学園へ貴様の存在を報告しなかったのは、貴様にとってさぞかし都合の良いことだったろう。だが、実は私にこそ都合の良い展開だったのだ。慢心まんしんした貴様は、私の意図に気付くことなく、少しずつ煮立っていく湯から逃げ損ねてしまった」


「ハッ! 意図? なんの意図があったというのかしら。この絶望的な状況が、あなたの思い描いた意図だというのなら、盤面ばんめん上で踊り狂って死になさい!」


 エレシアが片手をあげると、地面から高速で回転する巨大な鉄の刃が生えてきた。ギュイィィンという音を立てて、三枚刃が威嚇いかくするように唸りをあげる。一本、二本、三本……と、タケノコのように次から次へと生えてきて、凶悪な魂の解体器具がエレシアの背後へ並び立ち、互いの駆動部くどうぶをぶつけ合って、激しい火花を散らし、威嚇いかくを始めた。


随分ずいぶんと余裕を見せていますけど、あなた……まさかこの状況がわかっていないんですの? 魔術の使えないこの場で、唯一わたくしたちの魂へ干渉できるのは、あらかじめ張り巡らせておいた魂転化の術式のみ。つまり、あなたは一方的に蹂躙じゅうりんされる立場ですのよ」


 その脅しに、しかし黒髪の少女は妖艶ようえんに微笑み、余裕の表情を崩すことがない。


「魂転化の術式か。たしかに、あれは厄介だった。貴様の肉体を滅しても、別の肉体へ魂を移されてしまえば、元の木阿弥もくあみ。一生、討滅することは叶わない。そして予備の肉体を先に破壊しようにも、どこにどれだけの予備が用意されているのかわからなかった。ならばどうするべきか?」


 微妙に噛み合わない会話の途上、黒髪の少女が細く長い指先をパチリと鳴らすと、高速回転していた鉄の刃がピタリと停止した。そしてもう一度、少女が指を鳴らすと、凶悪な解体器具は蜃気楼しんきろうのようにはかなく消えていった。


 ゾクリ、とエレシアの背筋に悪寒が走った。少女は続ける。


紅蘭こうらん人質ひとじちに取らずとも、どちらにせよ私は何かしらの下手を打ってこの身体を差し出すつもりでいた。目的はこの場所へ誘い込むことだったからな。魂の契約も、貴様の意識をそらすいい隠れみのとなったことだろう」


 あり得ない事が起きていた。

 エレシアの耳には少女の声がほとんど届いていない。


「わざわざ回りくどいことをして、この身体を差し出したのも、疑り深い貴様に疑念を抱かせないための策略だ。私の目的が身体を乗っ取らせることにあると見抜かれれば、すべての準備が水泡に帰すからな」


 黒髪の少女が薄っすら笑む。


「ちなみに、青蘭せいらん殿にすべてを話すというのもブラフだ。貴様の動きを制限し、余計な行動を起こさせないためのな。麒翔きしょうにはただ、六時に時計塔で待っているとしか伝えていない」


 ガクガクと膝が笑う。絞り出したエレシアの声は恐怖に震えていた。


「嘘よ……そんなはずないわ……魂転化の術式をハッキングしたとでも言うの」

「言っただろう。真に術式を理解できたのなら応用も利くはずだと」


「バカな!」とエレシアは吐き捨てた。


 魂転化は大魔術師アルキス・ファウストにその才を認められ、最後の弟子となったエレシア・イクノーシスが生涯をかけて完成させた超上級魔術である。その術式は複雑怪奇ふくざつかいきであり、例えるなら、下院の図書館の蔵書――そのすべての文字を足し合わせたよりも多くの魔術式で構成されている。それをあの短い時間で読み込んだ上で理解し、更に術式を逆手にとるなど、物理的に不可能だ。


「無論、あの短い時間ではそのすべてを解析できなかった。ゆえに対策も不完全だったことは認めよう。だが、貴様は私の体に刻んだだろう? 魂転化の術式をじかに。ならば解析できて当然だ、とは思わないか?」


 当然、なわけはない。だが目の前の少女はその不可能を実現してみせた。


「ば、バケモノめ……」


 格の違い。これは敵に回してはいけない規格外のバケモノだと、今更ながらにエレシアは自覚する。本能が、全力で逃げろと告げている。


 ――魂転化の術式へアクセス。

 エレシアは速やかに他の素体へ魂を移動させるための術式を起動する。


「残念でした! 魂転化の術式には他の素体へ魂を転移させるための術式も組み込まれていますのよ。結局、誘い込むことはできても、わたくしを捕えることはできませんでしたわね。尻尾を巻いて逃げるなんて性に合いませんが、致し方ありませんわ。それではごきげんよう!」


 エレシアの捨て台詞が、白い空間に反響する。が、エレシアの魂は依然としてそこにあり、他の素体への瞬間移動は叶わなかった。出し抜いてやったという余裕の表情のまま、エレシアはその場で凍り付く。


「なぜ? なぜなんですの? お互いに魂転化の術式を利用できるとしても、術式の起動は阻めないはず。ならばなぜ、何も起こらないんですの!?」

「だから言っただろう。貴様をこの場へおびき寄せることが目的だったと。つまり、トラップを仕掛けて置いたということだ」

「トラップ? 一体、精神世界にどのようなトラップを仕掛けられると……」


 どこまでも続く白の大地に張り巡らされた気脈のようなそれは、精神世界を支配し動かすことのできる魂転化の術式である。だが、周囲を見回してみても、他に術式らしきものは見当たらない。そもそも魂転化の術式で満たされたこの空間に、他の魔術を介在させることは不可能である。

 ――と、そこでエレシアは術式に歪みが発生していることに気が付いた。それはアンチ魂転化の術式による浸食。信じられないことに二つの術式が融合している。


「まさか魂転化の術式を書き換えたとでも!?」


 黒髪の少女は、ゆるゆると首を横に振って答えた。


「さすがの私でもそこまではできない」

「だったら何を」

「魂転化の術式はきちんと発動した。だが、私の魂はこの通り無事だ。ならば、貴様の術は一体なにを加工して器としたのだろうな」

「え……」


 瞬間、エレシアの周囲が黒く沈んだ。

 地面を踏む足裏の感覚がなくなり、底なし沼のようにズブズブと体が飲み込まれ始める。


「貴様が器としたのは、私の用意した疑似魂だ。と言っても、これは本物の魂の集合体だから疑似というのもおかしい話だな。まぁ要するに、とびきり凶悪な怨霊の魂を寄せ集めて作ったものだと言えばわかるか。そんな邪悪なものを貴様は加工し、自らの魂を乗せる器とした」


 沼だと思っていたそれは大きな口だった。腰まで浸かったエレシアは抜け出そうと必死にもがいたが、体はどんどん沈み込んでいく。


「精神世界で怨霊の力は絶大だ。貴様は自らの魂と怨霊の魂を一つの箱に入れ、固定してしまった。そしてその強く呪われた結び付きは、魂転化の術式でさえ断ち切ることができなかったわけだ」


 水の上に立つことができないのと同じ理屈。踏ん張ろうとしても、地面は毛ほども反発してくれない。エレシアを飲み込もうと口が少しずつ閉じていく。禍々まがまがしい悪魔を思わせる三角の歯が左右からゆっくりと迫り来る。


「よく見てみろ。貴様を抱きしめようと、怨霊が地の底から這い出てきているぞ」


 何かがエレシアの足首を掴んだ。黒く濁った沼のような闇に半身を沈めているため、エレシアからは足を掴んでいる何かは見えない。が、直感的にそれが無数の手であることを彼女は感じ取った。ぞっと背筋に鳥肌が立った。


 想像してしまったのだ。大口を開けた深淵の底の更に底。光の届かない真の闇へと引きずり込まれる自分の姿を。エレシアは恐怖から叫んでいた。


「お待ちなさい! 魂の契約は? わたくしの魂転化の術式を受け入れるという条件を守っていないではありませんか! 契約の不履行ふりこうですわ!!!」

「不履行とみなされた場合、悪魔による最後の審判がこの精神世界で行われる。貴様が私の体を手に入れて喜び打ち震えている間に、最後の審判は行われ、そして終了した。悪魔は私の主張を認めたのだ」

「主張ですって? あなたは現に魂転化の術式の一部を故意に防いだではありませんか。これを不履行と言わずなんだと言うのです」


 クスクスと、少女が憎たらしいほど美しい顔で笑う。どっぷりと肩まで浸かったエレシアを憐れむように見下ろし、


「私は魂転化の術式を受け入れ、そして術式の全てはつつがなく発動した。対象の設定をミスったのは貴様の責任であって、私の責任ではない。事実、私は今もこうして無事であるわけだから、契約は履行されたものと判断されたのだ」

「そんな揚げ足取りみたいな理屈で、悪魔を騙しおおせたとでも!?」

「曖昧で抜け道があるからこそ、悪用できてしまうのだ。なぜ禁呪とされたのか、その意味を考えるべきだったな」


 いくら不公平だと嘆いても、すでに判決は下されてしまっている。

 エレシアは敗北した。その事実は、いくら異論を唱えてもくつがえることはない。


「嘘ですわ……。こんな……こんな罠を仕掛けていたなんて……このわたくしが、この希代の魔術師エレシア・イクノーシスが、たかだか十五年しか生きていないような小娘に出し抜かれたというの!? ありえない、ありえませんわ」


 口が閉じていく。ゆっくり閉じていく。

 首まで浸かったエレシアの視界から白い空間がだんだんと狭まり閉じていく。

 エレシアはもがき続け、半狂乱になって叫び続けた。

 白い空間と断絶し、完全に世界が閉ざされる。その瞬間、


「成仏できずに世界を彷徨さまよっていた怨霊たちだ。もしかすると、貴様が殺めた者たちも混ざっているかもな」


 少女の無機質な冷たい声が届き、そして世界は完全に閉じた。

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