第68話 公主様の妙計

 ぐっと麒翔きしょうは拳を握り締めた。

 こちらを見上げる最愛の人は、いつもの乏しい顔を悲しそうに歪めている。


 ズキリ、と心が痛んだ。


 これが何かの間違いだったらどんなに良かっただろう。だけどこれは紛れもない現実で、愛する彼女はすでに失われてしまっている。目の前にいる学園一の美少女は、全く別の異質な存在。その正体は、血の通わぬ殺人鬼である。


 顔が熱くなる。

 声が届くかどうかはわからない。

 だけどこれは、一世一代の大勝負。麒翔きしょうの思いの丈のすべてをこの言葉に込め、そして伝えなければならない。手は抜けない。もちろん照れている場合ではないし、本音でぶつかっていくしかない。以前、彼女がそうして見せてくれたように、今度は麒翔きしょうの本気を見せなければならない。それこそが公主様との約束であり、残された麒翔きしょうにできる唯一のことだから。


 大きく息を吸いこんだ。

 よろめき動けずにいる最愛だった人へ向けて。


「黒陽! 陳腐ちんぷな言葉かもしれないが聞いてくれ! 俺は、おまえのことが――」


 そして彼は公主様への愛を叫んだ。




 ◇◇◇◇◇


「魂転化の術は、記憶を引き継ぐことができない」


 今にして思えば、公主様の先見の明は、未来を見てきたんじゃないかっていうぐらい正確無比せいかくむひで、彼女に導かれるまま行動していれば全てが上手くいったんじゃないかとさえ、思えるほどだった。


 あの日。獣王の森から帰還を果たした帆馬車の中で、公主様は教師の中にエレシア・イクノーシスが潜んでいると予想した。そして話はそこで終わらなかった。その続きが、冒頭のセリフへと繋がる。


「魂転化の術式については、その全てを解析できていない。ゆえにその多くはブラックボックスとなっているが、一つだけ断言できることがある」


 その頃はまだ公主様の超回復力を知らなかったから、包帯ぐるぐる巻きという痛々しい姿で、簡易ベッドに横たわる彼女のことが麒翔きしょうは心配で仕方がなかった。それでも公主様は、必要なことだからと言って話を続けた。


「思い出してみてくれ。なぜアリスが商人の娘ではないという結論に至ったのかを」


 麒翔きしょうは少考し、その質問に答えた。


「ラクレの特産品を馬車に積んでいたにも関わらず、ラクレへ向かう途中だとアリスが答えたからだ。この話は明らかに矛盾していた」

「そうだ。だが、もしアリスの身体と一緒に記憶まで奪えていたのなら、この間違いは成立しなかったはずだ。アリスの記憶をそのまま読んで、ラクレから引き返す途上にあると告げればいいだけだからな」


 公主様の意見はいつだって論理的で、その美貌と同様に一分の隙もなく完璧だった。反対意見を差し挟むなんて恐れ多くて、ただただ麒翔きしょうはその美しい顔をほうけるように眺めていた。


「だから私は、万が一に備えて合言葉を決めておこうと思うんだ」


 まるで他人事のように、エレシア・イクノーシスの狙いは自分なのだと公主様は語った。そして、適性属性が光である桜華が狙われることは、おそらく無いだろうとも予想した。その上で、自分が狙われることを承知の上で、公主様は言ったのだ。


「だが、合言葉と言っても実際に言葉を交わすのはよくない。エレシア・イクノーシスは狡猾こうかつかつ慎重な性格だ。少しでも疑わしい発言をすれば、こちらの狙いを看破かんぱされてしまうかもしれない。だからそれは避けるべきだろう」


 そうして公主様が提案したのは、所作による合図――ことで自分は無事なのだと密かに伝える方法だった。そして彼女はこうも言った。


「この合図は麒翔きしょうと二人きりの時のみ。そして周囲に人がいない場合に限って行うものとする。狡猾な殺人鬼がどこから見ているかわからないからな」


 体を乗っ取るためには、その人物の癖を事細かに観察する必要がある。もしも前髪を触っているところを目撃されれば、公主様の「癖」として認識され、トレースされてしまう危険があった。だから公主様は、周囲に人がいない状況で、かつ、麒翔きしょうと二人きりの時のみ、「前髪を触る」という秘密の儀式を行うようになった。


 例えば、ボロ小屋で公主様と二人きりの時。夜練に公主様が訪れた時。そしてその後、男子寮で密会した時も。あるいは、公主様と婚約したあの日だって、彼女は自分が無事であることを前髪を触って教えてくれた。


 あの頃から公主様の妙計みょうけいは生きていて、だからこそ今、殺人鬼の正体をいとも容易たやすく暴くことができたのだ。

 時計塔という密室で、二人きりという状況。濡れた前髪を拭くだけでいいはずなのに、彼女はそのような素振りを見せなかった。だからすぐに偽物だとわかった。


「丹田の《気》の流れを乱した。いくらその体がハイスペックでも半日は起き上がれねえよ」


 愛おしい恋人の顔で、殺人鬼が瞳を潤ませて見上げてくる。憎悪ぞうおと愛おしさの狭間で、麒翔きしょうは迷いを振り払うように吐き捨てた。

 やりきれない想いで天を仰ぐと、ランプの灯が螺旋らせん階段に沿う形で渦巻き、階上へ連なっているのが見えた。


 再び、回想へ意識が飛ぶ。




 ◇◇◇◇◇


「その時は、私を萌えさせてくれ」

「は?」

「その時は、私を萌えさせてくれ」

「なんでだよ!?」


 シリアスな話だったはずなのに、公主様の発言はふざけているようにしか聞こえなかった。いつもながらに唐突すぎるその発言に、当時まだ婚約していなかった麒翔きしょうは、意味がわからず絶叫した。


「万が一、私の身体が乗っ取られた場合の話だ」

「いや、補足になってねえよ!? 萌えさせてくれの部分が意味不明すぎるだろ」

「私が子供の頃に読んだ絵本にはそう書いてあった」

「どんな絵本だよ!? そもそもそれは本当に児童向けの絵本か? 萌えという単語に馴染みはないが、なんだかすごくいかがわしい匂いがするぞ」


 公主様が「むう」と不満そうに唸った。

 帆馬車内に気まずい沈黙がおりる中、助け舟をだしてくれたのは、せっせと裁縫さいほういそしんでいた桜華だった。


「愛する王子様のキスで目覚めるんだよ。知らないの?」


 半目となった桜華の呆れ顔を笑い飛ばしもしたが、しかし、公主様の言いたいことは要するにそういうことだった。




 ◇◇◇◇◇


「私は、魂転化を破る術式を開発するつもりだ」


 公主様が言うには、魂転化は複雑な術式で、エレシア・イクノーシスに触れたほんの一瞬だけで、そのすべてを解析することはできなかったそうである。

 だが、術式の四割ほどは解析に成功しており、完璧とはいえないがアンチ魂転化の術式を構築することは理論上可能らしい。


 仕組みとしてはこうだ。

 魂転化の術式が発動すると対象者の魂は極限まで圧縮され、すり潰され、器へと加工される。これを防ぐため、魂の避難シェルターをあらかじめ作っておき、魂転化の発動と同時に公主様の魂をシェルターへ避難させ、その代わりにダミーの疑似魂を置いておく。魂転化の術式によって、疑似魂は器へと変えられるが、これはエレシアの魂を捕えるためのトラップとして機能する。


「つまり、エレシア・イクノーシスの魂を定着させるための器は、奴自身の魂を縛り拘束する監獄へと変わるのだ。そしてこの方法こそが、不滅の殺人鬼を完全に滅する唯一の方法でもある」


 だが、一つだけ問題があった。魂転化には、解読できなかった未知の術式が多く存在するため、必ずしもアンチ術式が正常に作動するとは限らない。シェルターに避難したは良いものの、魂が休眠状態となり目覚めない可能性があったのだ。


 そこでキーとなるのが、


麒翔あなたの言葉だ。あなたが愛を叫んでくれれば、私の心は大きく揺り動かされ、絶対に目を覚ます。だから私をときめかせてくれ」


 この頃はまだ婚約していなかったから、麒翔きしょうは照れ隠しに曖昧な答えを返した。が、そもそもそれ以前に納得できない部分もあった。


 話を聞く限りでは、この方法を取らないとエレシア・イクノーシスを完全に滅することは不可能だとも受け取れる。当時はそこまで真剣に考えていなかったが、エレシア・イクノーシスの存在が確固たるものとなってからは、公主様が自分の身を囮に使うのではないか、という不安が日増しに強くなっていった。


 当然の人間心理ではあるが、婚約者にそんな危ない橋を渡らせたくない。


 だから麒翔きしょうは、公主様より先にエレシア・イクノーシスを発見し、すべての決着をつけるつもりでいた。いくら大義名分があるとはいえ、女教師に手を出せばタダでは済まない。そう予感しながらも。


「だけど結局、あいつに先を越されちまったんだな。やっぱり頭の回転では逆立ちしたって勝てねえわ。どうやら俺の嫁は、とてつもなく優秀らしい」


 そしてこうなった以上、麒翔きしょうにできることは一つしかない。丹田の《気》を乱され、動くことのできなくなった元恋人を見下ろし、決意を固める。


 照れるな、という方が無理がある。

 だが、やらなければならない。告白する相手は血の通わぬ殺人鬼で、本当に言葉を伝えたい相手には届くかどうかさえわからない。だけど、選択肢は一つしかない。公主様が失われて張り裂けそうなほどに苦しいこの気持ちを、言葉にしてしっかり伝えなければならない。


 ぐっと拳を握り締める。顔が火照っている。


 大きく息を吸いこんだ。

 よろめき動けずにいる最愛だった人へ向けて。


「黒陽! 陳腐な言葉かもしれないが聞いてくれ! 俺は、おまえのことがずっと好きだった。はっきり言って、一目惚れだったと思う。龍王樹の下で出会った時から、ずっと気になっていたんだ!」


 縦に長い塔内に麒翔きしょうの叫びが反響する。

 眩暈めまいがするほど頭がクラクラして、熱に浮かされ幻を見たのか。動けないはずの公主様がゆらりと立ち上がった。


 最初は、公主様が目を覚ましたのかと喜びかけたが、


「いや、ありえねえ。仮に黒陽が目覚めても、体に負ったダメージが無効化されるわけじゃない」


 丹田への《気》の流れを乱した。常人なら丸一日、指一本動かせないほどのダメージを与えて無力化したはずである。だが事実として、公主様は二本の足で真っ直ぐ立っていて、そしてその口元には邪悪な笑みが張り付いている。感情の起伏の少ない彼女には似ても似つかない狂気がそこにはあった。


「嘘だろ。どこまでハイスペックな公主様なんだよ」


 抵抗なく事を運べるイージーモードから、魔術増幅用の装身具を身に着けた公主様を相手にしなければならないヘルモードへと難易度が移行し、さすがの麒翔きしょうも笑みが引きる。

 最愛の恋人は勝ち誇ったように狂騒きょうそうを浮かべると、ゆっくりと掌をかざして闇の吐息ブレスを放った。

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