第67話 嗤う殺人鬼

 下院・本校舎の南。


 噴水広場と本校舎のちょうど中間辺りに、大きな時計塔がある。

 授業の始業と終業を伝える大きな鐘を頂きに置くその時計塔は、夕方のこの時刻には完全にその役目を終えて沈黙する。嵐のような暴風ということもあり、周囲に生徒の姿はない。皆、早々に学生寮へ引っ込んでしまったようだ。


 黒雲が空に渦巻いている。

 周囲はすでに日没と変わらない暗闇に包まれていた。時折、ピシャリと雷光が走り、闇を切り裂いて轟音ごうおんをとどろかせる。幾分風は弱まったが、弾丸のような大粒の雨が地面の水溜まりを打ち抜くように落ちてくる。


 そんな嵐の中、ランタンの明かりを頼りに歩く影がある。

 学園一という修飾では到底足りないほどの美少女が、和傘を差したまま歩幅を乱すことなく、庭園に通された遊歩道を足早に進んでいく。高貴な気品あふれるその凛とした所作からは、相当に高い身分であることが窺える。


 が、その口元は高貴とは程遠い邪悪な形に吊り上がっていた。

 その本性を隠しきれていないのは、望外ぼうがいの結果がもたらされたからであった。


「まさか義妹のため、本当にその身を差し出すとは。思っていたよりもずっと甘かったようですわね、龍人族の公主様」


 長く艶やかな黒髪を揺らしながら、フフッと美少女が笑った。




 ◇◇◇◇◇


 目的の時計塔は、文字盤が光石で作られているため、遠目からでもはっきりその場所がわかる。だが、約束の時間は迫っており、ゆっくりとはしていられない。。遠目に見える時計塔の盤面は、午後六時を指そうとしていた。


 黒陽は己の身体を差し出す代わりに、条件を一つだした。


 ――紅蘭こうらんに傷一つ付けないこと。


 そのような約束を殺人鬼が守るのか、はなはだ疑問だろう。

 ゆえに条件の履行りこうには、魂の契約が用いられた。魂の契約とは、契約が不履行ふりこうとなった場合に、魂の消滅を代償とする禁呪きんじゅである。なお契約は召喚した悪魔を介して締結され、契約の履行に関する審判はすべて悪魔に委ねられる。


 具体的な契約内容は以下のとおりである。

 ・エレシアは紅蘭こうらんに傷一つ付けてはならない。

 ・黒陽はエレシアの魂転化の術を受け入れる。


 契約を結んだ以上、何があっても紅蘭こうらんに手を出すことはできない。もしも手を出せば、魂の消滅という死以上に重たいペナルティが待ち受けているからだ。つまり、紅蘭こうらんに正体を見破られたとしても、エレシアは口封じに彼女を始末することができないし、仮に攻撃を受けたとしても、一切の反撃は許されない。


 そしてこの契約が真に恐ろしいのは、交わされた契約の解釈は悪魔次第だというところにある。つまり、悪魔の気分次第でどうとでもなってしまうのだ。


 例えば、故意ではなく間接的な過失――終末等級の魔物を学園へ放ち、魔物の手によって紅蘭こうらんが傷つく――でも、契約の不履行とみなされる可能性がある。


(存外、面倒な縛りなのかもしれませんわね。紅蘭こうらんだけでなく、学園の教師や生徒まで守る効果がある。わたくしが分をわきまえなければ、最も近しい紅蘭こうらんに疑われ、追い詰められる、という筋書きなのかもしれませんわ)


 だが、その代償に自らの魂と肉体を差し出すというのは、やはり愚かだと言わざるを得ない。エレシアは内心で失笑する。


(魂を圧縮し、すり潰し、そしてわたくしの魂を繋ぎ止めるための器に加工されて、今はどんな気持ちなのでしょうね――龍人族の公主様? ああ、もう自我は残っていませんでしたね。あーっはっはっは!)


 愉悦ゆえつ

 自分を見下した存在への完全勝利。

 だが、そんな浮かれても仕方のない状況にあっても、エレシアは演技に余念がない。乏しい顔を意識して作り、凛と正した佇まいから優美に歩いてみせる。


 誰がどう見ても黒陽公主その人である。

 義妹の紅蘭こうらんや、母親の烙陽らくようでさえ騙す自信がエレシアにはあった。

 黒陽の一挙手一投足を監視し、そのすべての癖を記憶に叩き込んだ。即席で演じた商人の娘とはわけが違う。絶対に見破ることは不可能だ。


 横殴りの雨に体を濡らしながら、エレシアは時計塔の入口へ辿り着いた。

 和傘をたたみ、重厚なオークの扉を開けてその身を塔内へ滑り込ませる。

 螺旋らせん階段の続く塔内には、煌々こうこうとランプの火が灯っていた。


「遅かったじゃないか。心配したんだぞ」


 ランプの灯が届かない暗闇から少年が姿を現した。

 特筆するような特徴のない平凡な男子生徒だ。エレシアは冷静に頷くだけに留めた。安堵した表情を浮かべて少年がゆっくり近づいてくる。


 黒陽と少年は婚約している。ここでただ突っ立っているのは不自然であるとエレシアは判断した。背を正し、大きすぎず小さすぎない歩幅で優美に歩く。


 二人の外見上の距離が縮まる。

 頭上に渦巻く螺旋階段の下で二人の陰影が重なるようにキスをした。


 愛する者が亡き者にされたというのに、何も知らない少年は無邪気な笑みを浮かべてエレシアの前に立った。その愚かさを超高空から見下ろし、エレシアはあざ笑う。


 この瞬間がたまらない。愛する者が失われたと知らぬまま、恋人を奪った張本人である憎き仇と肌を重ねて愛し合う愚かな男たち。今までも悠久の時を生きる中で、そういう愚者とは何度も出会ってきた。その度に、エレシアは心の中でエクスタシーに酔いしれる。この時が何よりも快感で、サディスチックな本性が満たされ、多幸感に包まれる瞬間だ。愚かな男子生徒に感謝の念さえ覚えるほど。


 と、そこで慎重なエレシアに疑念が過った。


 ――この少年はエレシア・イクノーシスの存在を知っているのではないのか?


 六時までに黒陽が時計塔に来なければ、学園長の青蘭せいらんにすべてを話すということだった。ならば、彼はすべてを知っていると考えるべきなのではないか。

 となると、何か本人を見分けるような合言葉を用意しているかもしれない。もし違和感のある言葉を発した時は、構うことはない――そのまま殺ってしまおう。そうエレシアは心に決めた。


 無論、少年を騙しおおせるに越したことはない。それが理想だ。

 無事にターゲットの身体を手に入れた以上、無駄に騒ぎが大きくなるのはエレシアにとっても避けたいところ。

 それにまだ後始末も残っている。風曄ふうかとアリスをこの機に適切な形で処理しなければならない。こんなところで仕事を増やしてはいられない。


 龍衣の裾からナイフを取り出し、死角となるよう手の平に隠し持つ。《剣気》と共にその胸へ突き立てれば、深淵の霧を使えない少年は一撃で絶命するだろう。そうして警戒に身構えつつ、けれど自然な所作でエレシアは薄く笑みを浮かべ、相手の出方を窺っている。


 だが、少年は言葉を投げかけることもなく――


「――――!?」


 強く強く、壊れてしまいそうなほどに強く華奢な体を抱きしめられた。冷たく濡れた龍衣ごと少年の温かな体に包まれる。緊張からか、それとも寒さからか、あるいは美少女を抱く歓喜からか、少年の体は小刻みに震えている。


「黒陽。俺はずっとおまえに好きだって言えなかった。情けない男だと思うかもしれないけど、恥ずかしかったんだ。素直になれなかった。でもおまえは、そんな俺を慕ってくれたよな。一身に尽くそうとしてくれたよな。だから俺は――」


 甘い言葉を耳元でささやかれた。反吐へどが出るかと思った。

 が、次の瞬間、腹部に強烈な衝撃が走った。

 大地が傾くほどの大きな激震にエレシアの体は為す術なく地面へ倒れ伏す。


 ぐらり、と。


 地面がかしいだ。

 斜めに世界が揺らいだ。

 視界が歪み、平衡へいこう感覚を失っている。

 エレシアの体が――否、乗っ取り我が物とした黒陽の華奢きゃしゃな体がダメージを受けて傾いでいるのだ。


 そして、少年は心底蔑むような目を愛する恋人へ――否、エレシアへ向けている。


「エレシア・イクノーシスだな。俺の愛する女の身体を奪っておいて、タダで済むと思うなよ。絶対に許さねえ」

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