第66話 千年に一人の才女

 三度みたび雷鳴らいめいとどろいた。

 閃光がピカッピカッと、室内を白く暴きだす。

 エレシアの勝ちを確信した余裕の笑みが苦悶くもんへと変わる。


「くはっ……」


 銀のナイフが金属音を伴って石の床へ転がった。

 膝から床へ崩れ落ちたのは、お団子頭の幼女の方だった。

 腹部を押さえながら、エレシアは目を白黒させて苦悶の表情を浮かべる。地べたに座り込む形となった正面、赤と白の龍衣の裾が視界に入り、同時に――


「がふっ」


 強烈な回し蹴りがエレシアの右側面を打ち据え、もんどり打って石床を転がる。その様子を静かに見下ろしながら、黒陽がつまらなそうに言う。


「あの局面、落雷に合わせて奇襲きしゅうを仕掛けるというのは悪くない判断だった。合わせて私を挑発して心を乱せば、より奇襲の成功率は上がるだろう。だが、それも読まれてしまっていては意味がない。成功体験しか知らない貴様は、自分のプランに自信を持ちすぎている。その上を行かれたことなど、今まで一度もなかったのだろう」


 体を起こしたエレシアの顔面へ正面から蹴りが打ち込まれた。鼻から鮮血が飛び散り、冷たい石床の上へ仰向けに戻される。星が飛び、視界がグラグラと揺れる中で、なんとか起き上がったエレシアは混乱の渦中かちゅうにあった。


「なぜなの……なぜ、深淵の霧が発動しないの」


 今度は頭上からかかととしが、エレシアの脳天を割るように叩き込まれた。意識が遠のき、平伏へいふくするように前方へ倒れ込む。


「あの時とは逆だな。もっとも貴様と違って、私に油断はないが」

「なぜなのかと聞いている!!!」


 地面へ這いつくばる形で、石床へギリッと爪を立てる。まとめあげていた自慢のお団子が振りほどかれ、ボサボサとなった髪を振り乱しながらエレシアは絶叫した。余裕を失った無様な殺人鬼を見下ろし、黒陽はため息をつく。


「だから言っただろう。その術式は解析したと」

「解析したから……だから何だというの!!?」

「真に術式を理解できたのなら応用も利くということだ。つまるところ、深淵の霧を無効化する方法だな」


 天才は時として、凡人が生涯をかけて積み上げた努力を一瞬で過去のものとする。さも当然と言わんばかりの口調に、エレシアの感じた絶望はまさにそれだった。


「嘘よ……わたくしが千年かけて積み上げてきた魔術が……たかだか十五年しか生きていないような小娘に……一瞬にして抜かれたとでもいうの……?」


 ポタポタと鮮血が涙のように床へ落ちる。

 だが、千年に一人の才女とうたわれた少女は、容赦なく次の攻撃を繰り出した。風を切るように放たれた蹴りが痛烈に脇腹へめり込み、幼女の体を壁際まで吹き飛ばす。


「がふっ……肋骨が折れ……」


 龍人の肉体は頑丈にできている。仮に深淵の霧が発動しなくとも、ここまでのダメージを肉弾戦で与えられるものなのか。はなはだ疑問ではあるのだが――

 と、疑問に顔を上げたエレシアの目に飛び込んできたのは、学園規則で禁止されている武装用の装身具だった。腕輪に指輪、そしてイヤリング――いつの間にか黒陽が装着しているそれらは、いずれも魔術を増幅させるための補助装置であった。


「なっ……それは校則違反ではありませんか!」

「愚か者め。私は公主だぞ。その気になれば正式な手順を踏んで、このぐらいいくらでも持ち込むことはできる」

「そんな、ずる――あぐっ」


 地面に転がったままのエレシアの腹部へ容赦のない蹴りが叩き込まれる。


「貴様と対峙するに際して、まさか何の用意もしていないと思ったのか」


 憐憫れんびんの眼差しで見下され、エレシアは歯噛みする。弱い者をイジメ殺すのは大好きだが、自分が同じ痛みを受けるのは御免ごめんこうむる。そんな自分勝手で幼稚ようちな精神構造のまま悠久の時を生きてきたエレシアは、ここへきてとうとうキレた。


「もう何もかもがどうでもいいですわ! 全部ぐちゃぐちゃにしてあげます」


 顔面を血に染めたまま哄笑こうしょうを浮かべ、そして袖口へ手を差し込む。

 探し物は「終末」等級の魔物を封じた三つの主従の卵である。


「死人がたくさん出るでしょうけど、全部あなたの責任ですわ。とくと後悔しなさいな――――って、あれ? ない。卵が、主従の卵がない!?」


 袖口を入念にゴソゴソと漁ってみるも、そこにしまっておいたはずの黒い卵に指先が触れることはなかった。

 小窓の向こうでは冷たい雨が降りしきっている。強い雨音が分厚い石壁を通して耳に届く中、黒陽が細い指先をステッキを振るみたいに上下させた。瞬間、その指の隙間に三つの卵が出現する。


「探し物はこれか?」


 首を傾げた黒陽が興味なさそうに呟いた。

 そうして主従の卵は、彼女の手の中でジュッと音を立てて黒い炎に焼かれて崩れ落ちた。とっておきの奥の手をいともあっさり封殺されて、言葉を失ったエレシアは、次の一手を思いつけない。どんな策をろうしても、その上を行かれてしまう。そんな諦めにも似た疑念が脳裏を過り、抵抗する意志をくじかれる。


 だが、絶望に打ちひしがれるエレシアをあわれむでもなく、黒陽はただ冷酷に事実を告げる。


「あと八分。それまでに私が時計塔へ行かなければ、青蘭せいらん殿が緊急事態宣言を発令するだろう。そうなれば、ここをやり過ごせたとしても、どちらにせよ貴様の安寧あんねいは二度と訪れない。ここで私に滅される方が楽だと思うがな」


 死の宣告は残り八分。

 エレシアには二つの道がある。


 一つは、地下室へ駈け込み、紅蘭こうらんを人質に黒陽の身体を要求する道。黒陽の身体を手に入れて、その足で時計塔へ向かえばすべては解決する。しかしこの道は、勝算が低い上、秘密の地下室の存在を知られることにもなる。敗北した場合は、いざという時のセーフティエリアを失い、またアリスというスペアボディも破壊されてしまうだろう。


 一つは、この場から逃走する道。無論、この天才を相手にこのまま逃げられるとは思っていない。不要となった風曄ふうかの体を処分し、学園外に潜ませておいた素体へ魂を移して逃げるのだ。悠々自適な龍人の生活を捨てることになるが、こちらを選べば捕まることはまずないだろうし、アリスという保険も温存できる。


 数多の完全犯罪を成立させてきた狡猾な殺人鬼。

 普段の慎重なエレシアなら迷うことなく後者を選んだだろう。しかし、十五の小娘にいいようにやられ、自身の千年に渡る功夫くんふーまで否定された彼女のプライドは、自分で思っている以上に傷ついていた。


「その余裕の態度……絶対に後悔させて差し上げますわ」


 歯を食いしばって顔を上げ、エレシアは吠えてみせた。


風牙ふうが!!!」


 両の掌から同時に吐息ブレスを放つ。

 ごうっ! と風がうなり、双風が床や石壁に傷跡きずあとを残しながら黒陽へ迫る。

 同時に、エレシアは駆けだしていた。

 深淵の霧が発動している間は、他の魔術を使うことはできない。その一瞬の隙に一気に距離を取り、準備室の扉へ取り付いた。が、横開きのそれをゆっくりと開けている暇はない。


「彼の者を遠ざけよ[重力制御]」


 なりふり構っていられないエレシアは、準備室の扉を不可視の重力場で派手に吹き飛ばした。くの字に折れ曲がり、吹き飛んでいく鉄の扉と一緒に、室内へその身を潜らせる。思いの外、ダメージを受けてしまっているようだ。息をつく暇もなくふらつく足をバタつかせ、地下への入口に吐息ブレスを放つ。


 背後からは死神が迫ってきている。だがおそらく、魔術による攻撃はエレシアに届かない。もしも魔術による攻撃が有効なら、全身に[影の槍]を受けた時点で勝敗は決していたはずだ。その後にいたぶるような攻撃を繰り返したことから考えても、


「無効化できるのは直接触れた場合に限るということですわ!」


 風の刃によって穿うがたれた小さな穴に全速力でその身を投じる。破砕された隠し床。ささくれ立った鋭利な断面に自ら突き刺さりにいく形となるが、小さな体は黒い霧となり無傷ですり抜けていく。

 その後ろを黒陽が同じようにして追いかけてくるが、もう遅い。


 緑の液体に満たされた容器が六基。

 蛍光色の緑を発するカプセル横をすり抜け、片隅で気を失っている紅蘭こうらんを拾い上げる。幼女の体では長身の彼女をうまく持ち上げることはできず、背後から上半身だけを持ち上げる形となった。


「止まりなさい! それ以上近づけば、この娘の命はありませんわ」


 丁度、地下室の入口へ到着した黒陽がピタリと足を止める。

 そうして彼女は、エレシアの言葉に耳を傾けることもなく、緑に満たされた容器に視線を向けた。顎に手をやり考える仕草。


「ふむ。地下にこのような秘密の空間があったとはな。さて、アリスのボディが健在であることは予想外だったわけだが、しかし見たところ、他に予備はないようだな。問題は他の場所にも同じような施設がある場合だが」


 エレシアの口角が邪悪に吊り上がる。


「そこまでわかっているのなら話が早いですわ。わたくしを追い詰めたつもりなのでしょうけれど、残念でした。いつでもこの体を捨てて、逃げることはできますのよ」


 能面のように変化のなかった黒陽の顔がピクリと少しだけ動く。


「わたくしとしても、この学園での安定した生活を捨てるのは惜しいですわ。けれど、どうせ楽園の終焉しゅうえんとなるのなら、今までは大事にならぬよう遠慮してきたこと――例えば、あなたの大切な者を」


 紅蘭こうらんのまとう衣。上質な赤と黒の龍衣を力任せに引きちぎり、胸元をはだけさせる。エレシアははだけた衣の隙間へ手を差し込んだ。丹田たんでん愛撫あいぶするようにまさぐりながら、さりげなく魂転化の術式を刻む。


「お人形さんに変えるというのも面白そうですわね」


 丹田たんでんへ呪術を施し、口づけによってエレシアの魂を送り込むことで魂転化の術式は完成する。魂転化の術式が正式に発動すれば、紅蘭こうらんの魂は圧縮され、すり潰されて物言わぬ器へと変わってしまう。それ即ち、


「あはははは! 肉体的には不死となっても自我は消えてしまう! 果たしてこれを生きていると呼んでいいのか、くだらぬ論争の種となりそうですわね」


 捨て鉢となったエレシアの狂気は、外見年齢十歳に満たぬ幼女の顔を凶悪に装飾した。その凶暴な笑みは、本来の無垢むくなる幼女の外見と激しく乖離かいりしており、アリスのものより数段邪悪に見えた。

 狂気に包まれる地下室。けれど黒陽はその雰囲気に呑まれることなく、あくまで冷静に所見を述べる。


紅蘭こうらんの適性属性は火だ。断言してもいいが、闇は含まれていないぞ」


 ギリッとエレシアの奥歯が鳴った。


「だから何だと言いますの!」

「龍人は己の適性ある魔術しか使うことができない。闇に適性のない紅蘭こうらんの体に入り込めば、二度と魂転化を使うことはできなくなる。つまり、いかにスペアボディを用意していようが、その体から抜け出せなくなるということだ。そうだろう?」


 渾身のブラフをあっさり見抜かれ、エレシアは歯噛みする。

 黒陽の言う通りだった。もしも呪術に適性のない者の体を奪ってしまえば、その瞬間、エレシアは新たな魂転化を発動できなくなり、肉体間の移動も不可となる。要するに、詰みだ。


 もしもその制約さえなければ、とっくに素体へ加工していた。


 黒陽がすべてお見通しだといわんばかりに言う。


「やはりな。紅蘭こうらんと共に、その骨を埋めるつもりはないということか」

「安心するのはまだ早いですわ! この娘の命はわたくしが握っていますのよ」


 意識を失い、力なくうな垂れる紅蘭こうらん。その後ろ髪をぞんざいに鷲掴わしづかみ、強引に顔を上へ向けさせると、その喉元へ手刀を突き付けてエレシアは牽制けんせいした。両手を後ろ手で拘束された無理な姿勢に紅蘭こうらんが苦しそうにうめくと、一歩を踏み出そうとした黒陽の足が、ピタリと止まった。

 その迷いにエレシアは口角を吊り上げる。


「さぁ、どうしますか。この娘を殺せば、当然この体は滅ぼされるでしょう。けれどわたくしは、学園外に潜ませてある素体へ魂を移して、逃走を図ることができる」

「…………」


 無言。ポーカーフェイスの顔からは何も読み取れない。


「あなたに残された選択肢は二つ。一つは義理の妹を見捨ててわたくしを討つ。そしてもう一つは、義妹の命と引き換えにあなたの体を差し出す」


 これは賭けだった。紅蘭こうらんよりも黒陽の方が群れでの序列は高い。ゆえに普通だったら、この交換条件は絶対に成立しない。だが、


(ふふふ。あなたが情に流される甘ちゃんだということは存じておりますのよ)


 獣王の森の時もそうだった。仲間を生かすために、エレシアが潜んでいることを承知で、暴風タートルを倒すことに専念し、そして全力を使い切ってしまった。

 まだ十五の小娘。根っこのところが甘いのだと、エレシアは断じる。


 無表情なその顔に変化はない。動揺した様子は見られず、真意を読み取ることはできない。彼女は今、何を考えているのか。平然と切り捨てる決断を下しかねない雰囲気すらある。が、二人の間に降りた沈黙が、彼女の葛藤かっとうをなによりも雄弁に物語っていた。


「さぁどうします。わたくしはどちらでも良いですのよ」


 圧倒され続けていたエレシアは、優位に立てた感触に余裕を取り戻し、揺さぶりをかけた。対する黒陽は眉を八の字に曲げ、大きな吐息といきを挟んだ。美しい顔が憂鬱ゆううつに歪んでいる。そして観念したかのように首を振り、


「一つ、条件がある」


 それは事実上、敗北宣言であるかのように思われた。

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