第65話 駆け引き
それはエレシアにとって予期せぬ事態だった。
龍人族の中でも特に各種耐性に優れる黒陽の首が、まさか
が、ありえない事態に肝を冷やしたのは一瞬だけのこと。すぐに別の
「馬鹿な……なぜ、あなたがそれを」
闇に白い生首が浮いていた。
この世のありとあらゆる美を濃縮したかのような究極の美は、その乏しい顔に
「なにを驚いている。貴様の使っていた魔術を真似ただけではないか」
白い生首がさも当然とばかりにしゃべった。
次第に黒い霧が収束し、切り落としたかに思われた黒陽の首が一つに繋がる。彼女は細い首筋に掌を当て、満足げに頷く。
「それにしてもこの使用感。便利なものだな」
――深淵の霧。
それは己の体を闇へ同化させ、あらゆる攻撃を無効化する上級魔術である。
「そんな馬鹿な! あり得ませんわ。どうしてあなたがその魔術を使えるの!?」
「言ったはずだぞ。私は触れた魔術式を逆探知・解析できると」
「これは、この[深淵の霧]は、師である大魔術師アルキス・ファウストが開発した究極を冠する魔術の一つですのよ。それを齢十五の小娘如きが習得するなど……たとえ解析したからといって、すぐさま使えるようなものではありませんわ!!」
千年を生きたことで
だが、
「すべてを切り裂け!
掌から最大出力で放たれた風の刃が、黒陽の身体を抵抗なく通り過ぎ、背後にある執務机を縦三つに両断した。巨大な獣の
重量のある執務机を意図も
「避けるまでもない……ということですの」
「偶然ではない、ということを証明したまでだ。もっとも、サービスはここまで――だがなっ!」
エレシアの足元から二辺が異様に長い三角形の影が無数に出現。二次元の平べったい影の槍が剣山のように突きあがり、エレシアの全身を同時に貫いた。が、素体となっている
「ふん。互いにダメージを与えられない状況というわけか」
罪人のように串刺しとなった状態のままエレシアは毒づく。
「この数を無詠唱で……本当にあなたという人は、規格外ですわね。ますますその身体、欲しくなりましたわ」
無数の影の槍が身体へ突き刺さった状態のまま、エレシアは一歩前へ出た。黒い霧に包まれた身体は、地面から突き出た二次元の槍に阻まれることなく、その
「今回のボディは龍人ですから、この程度のダメージを百ダース打ち込まれたとしてもビクともしませんわよ。それはあなたも同じなのでしょうけれど」
余裕の笑みを見せるエレシアだったが、内心では焦っていた。散らばった木片や文房具と共に呪術球が床に転がっているのを目の端で捉え、心の内で舌打ちする。
長い時間をかけて入念に準備してきた大呪術。この教師棟そのものをエレシアの有利な空間――闇100%のフィールドに変更できるよう細工を施した。だがそれは、[深淵の霧]をエレシアだけが使えるという前提の元に立てられた計画だった。
仮に、今あの呪術球を拾い上げて術式を起動したところで、事態は何一つ好転しない。なぜなら、闇100%のフィールドがもたらす効果は等しく黒陽にも適用され、要するにお互いが無敵状態となるだけだからである。
むしろ大呪術を起動し、維持しなければならない分だけエレシアの方が不利であるといえる。もはや仕掛けを起動するメリットは皆無であり、入念に準備した計画はすでに破綻していた。
とすると、エレシアは純粋な実力勝負でこの局面を乗り切らなければならない訳だが、龍人の頑丈な体に加え、深淵の霧による大幅なダメージの減衰がある以上、通常攻撃では勝敗を決するようなダメージを与えられない。
残された手段は高威力の上級魔術となるが、そんなものを使えば頑丈な造りとはいえ教師棟は大きく損傷するだろう。そうなれば、騒ぎを聞きつけた教師や生徒たちが集まってくるに違いない。
状況は極めてエレシアに不利である。
己の不利を悟り、焦るエレシアを追い立てるように黒陽が言う。
「一つ、良いことを教えてやろう。私は六時に時計塔で
この局面で、わざわざ情報を開示する利があるのかは
(でも、手がないこともないですわ。明かりよ。室内に明かりを灯すことさえできれば、闇は払われ深淵の霧の効果は大きく減衰する。その状態でなら攻撃を通すことが可能となりますわ)
室内にある光源は二つ。一つは室内灯の小さなシャンデリア。スイッチはエレシアの背後、部屋の入口にある。そしてもう一つは、応接テーブルに置かれたランプ。しかし、そのどちらも聡明な黒陽は警戒しているはずである。現に、戦闘となる前、彼女はわざわざランプを消していた。
仮に無理を押して室内の明かりをつけたとしても、黒陽はその隙を決して見逃さないだろう。なにせ明かりをつけた瞬間、エレシアの深淵の霧までもが無効化され、攻撃が通るようになるのだから。
迂闊に動くわけにはいかない。だが、手をこまねいている訳にもいかない。
八方塞がりの状況にエレシアは内心で毒づく。
(光や炎を発生させて闇を払えば、攻撃を通すことができるのですけれど。残念ながら、この素体ではそれは無理。適性のある属性しか使えないという龍人の特性が、ここへきて
チラリと小窓へ視線を投げ、そしてすぐに腰を落として身構える。
幼女の顔をした殺人鬼は必勝のプランを悟られぬよう口を開く。
「それにしても一人で乗り込んでくるとは虚を突かれましたわ。もっとも、それだけの実力があれば当然ということでしょうか。けれど、それは主人を信用していないことの裏返し、とも言えそうですけれど。力の劣る男など信用できませんか?」
取るに足らない挑発ではあるが、龍人女子にとってこの手の挑発は聞き逃せない類のものであることを、エレシアは長年の龍人生活を通して知っていた。実際、揺れることのなかった黒陽の顔に、ピクリと不快な色が浮かんだ。それを動揺と解釈し、エレシアは更なる揺さぶりをかける。
「ええ、わかりますわ。適性属性なしの半龍人など背中を預けるに値しませんよね」
応接テーブルが派手に
黒陽が闇の
回転しながら飛んできた大きめの木片が、エレシアの黒い霧となった体を突き抜け、背後の壁に当たって大きな音を立てた。応接テーブルのあった床には大きな穴が
「私が
挑発に乗ってきたことに内心でほくそ笑み、エレシアは幼女の体で肩をすくめてみせた。対する黒陽は超然と構えたままだが、声には怒気が含まれていた。
「
「ならばなおのこと、共に手を
自分のペースへ引き込む話術。それは殺人鬼の必須技能でもあった。
エレシアは余裕を取り戻しつつある。
対照的に、黒陽の言葉は熱を帯び始めていた。
「貴様の乗っ取ったその体は、
ニヤァとエレシアの口角が吊り上がる。
「あはははは!
「だからこそ厄介でもある。武姫が傷つけられた、ただそれだけの理由で戦争にまで発展することだってあるからな」
「ええ、そうですとも。だからこそ、正体を見破られない限り、わたくしの安全は保障されていた。そして仮に正体を見破られたとしても、あの男子生徒は手を出せないとも
「ふん、それは大きな間違いだな。もう一度言うが、
「あら、あなたはわたくしを……武姫たる
「公主は母の身分を引き継ぐゆえ、私の身分は
「だから一人でノコノコとやってきたというのですか! あなたは!」
その時、ピシャリと閃光が室内の闇を払った。それは一瞬の出来事だったが、この時に備えていたエレシアは的確に行動へ移すことができた。
隠し持っていた短刀に《剣気》を宿し、一足飛びに距離を詰めて黒陽の腹部へそれを突き立てる。落雷の轟音が遅れてやってきた。
「一瞬の油断が命取り、でしたわね」
幼女に扮した殺人鬼は、大人の色香で
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