第65話 駆け引き

 それはエレシアにとって予期せぬ事態だった。


 うなるように放たれた風の刃は、黒陽の首筋を抵抗なくスッパリと無慈悲に切断し、狭い空間をも切り裂きながら後方の石壁へ刀傷のような穴を穿うがった。乗っ取る予定だった肉体への取り返しのつかない致命的なダメージに、エレシアの全身から冷や汗が吹き出る。


 龍人族の中でも特に各種耐性に優れる黒陽の首が、まさか牽制けんせいのつもりで放った風の吐息ブレス一発程度で、ね飛ぶなどと誰が予想できただろうか。


 が、ありえない事態に肝を冷やしたのは一瞬だけのこと。すぐに別の驚愕きょうがくがエレシアを襲った。のどかわきを感じ、エレシアはあえぐように口をパクパクさせる。


「馬鹿な……なぜ、あなたがそれを」


 闇に白い生首が浮いていた。


 この世のありとあらゆる美を濃縮したかのような究極の美は、その乏しい顔に幽鬼ゆうきかげる笑みを張り付かせている。切断された首筋には見覚えのある黒い霧が帯同しており、二つに分かたれた胴体の数センチ上空を滞空していた。白く細い指先がすっと首筋へ当てられると、帯同していた黒い霧が妖しくうごめき出す。


「なにを驚いている。貴様の使っていた魔術を真似ただけではないか」


 白い生首がさも当然とばかりにしゃべった。

 次第に黒い霧が収束し、切り落としたかに思われた黒陽の首が一つに繋がる。彼女は細い首筋に掌を当て、満足げに頷く。


「それにしてもこの使用感。便利なものだな」


 ――深淵の霧。

 それは己の体を闇へ同化させ、あらゆる攻撃を無効化する上級魔術である。


「そんな馬鹿な! あり得ませんわ。どうしてあなたがその魔術を使えるの!?」

「言ったはずだぞ。私は触れた魔術式を逆探知・解析できると」

「これは、この[深淵の霧]は、師である大魔術師アルキス・ファウストが開発した究極を冠する魔術の一つですのよ。それを齢十五の小娘如きが習得するなど……たとえ解析したからといって、すぐさま使えるようなものではありませんわ!!」


 千年を生きたことで達観たっかんしきった冷徹れいてつな魔女が、数世紀ぶりに動揺を露わにした。エレシアとて、悠久ゆうきゅうの時を生きる中で、師の残した魔術書を解読してようやく身に着けたのだ。その全てをあの短い時間で解析し、習得するなど人智じんちを超えた神の所業にしか思えない。


 だが、畏怖いふする本能を叱咤しったするように殺人鬼の習性が体を動かしていた。小さな体をひねるようにして右拳を突き出し、


「すべてを切り裂け! 風牙ふうが!」


 掌から最大出力で放たれた風の刃が、黒陽の身体を抵抗なく通り過ぎ、背後にある執務机を縦三つに両断した。巨大な獣の鉤爪かぎづめでちゃぶ台をひっくり返したらこのようになるのかもしれない。重厚な木目の入った机の一部が後方へ吹き飛び、机上にあった書類の束や積まれた本は切り裂かれ、紙吹雪となって宙を舞う。引き出しにしまってあった万年筆などの文房具が、細断された木片と共に床へ散らばった。


 重量のある執務机を意図も容易たやすく切り裂く暴風に晒されながらも、黒陽はその場に無傷で佇んでいる。まるで避けるまでもないと言わんばかりの、超然としたその様を見て、エレシアは喉からくぐもった声をだした。


「避けるまでもない……ということですの」

「偶然ではない、ということを証明したまでだ。もっとも、サービスはここまで――だがなっ!」


 エレシアの足元から二辺が異様に長い三角形の影が無数に出現。二次元の平べったい影の槍が剣山のように突きあがり、エレシアの全身を同時に貫いた。が、素体となっている風曄ふうかの体には黒い霧が帯同し、傷口を覆うように流動している。


「ふん。互いにダメージを与えられない状況というわけか」


 無詠唱むえいしょうかつ術式の多重起動。脳へ多大な負荷がかかっているはずの黒陽は、涼しい顔をしてつまらなそうに言った。

 罪人のように串刺しとなった状態のままエレシアは毒づく。


「この数を無詠唱で……本当にあなたという人は、規格外ですわね。ますますその身体、欲しくなりましたわ」


 無数の影の槍が身体へ突き刺さった状態のまま、エレシアは一歩前へ出た。黒い霧に包まれた身体は、地面から突き出た二次元の槍に阻まれることなく、そのいまめを通過する。


「今回のボディは龍人ですから、この程度のダメージを百ダース打ち込まれたとしてもビクともしませんわよ。それはあなたも同じなのでしょうけれど」


 余裕の笑みを見せるエレシアだったが、内心では焦っていた。散らばった木片や文房具と共に呪術球が床に転がっているのを目の端で捉え、心の内で舌打ちする。


 長い時間をかけて入念に準備してきた大呪術。この教師棟そのものをエレシアの有利な空間――闇100%のフィールドに変更できるよう細工を施した。だがそれは、[深淵の霧]をエレシアだけが使えるという前提の元に立てられた計画だった。

 仮に、今あの呪術球を拾い上げて術式を起動したところで、事態は何一つ好転しない。なぜなら、闇100%のフィールドがもたらす効果は等しく黒陽にも適用され、要するにお互いが無敵状態となるだけだからである。


 むしろ大呪術を起動し、維持しなければならない分だけエレシアの方が不利であるといえる。もはや仕掛けを起動するメリットは皆無であり、入念に準備した計画はすでに破綻していた。


 とすると、エレシアは純粋な実力勝負でこの局面を乗り切らなければならない訳だが、龍人の頑丈な体に加え、深淵の霧による大幅なダメージの減衰がある以上、通常攻撃では勝敗を決するようなダメージを与えられない。


 残された手段は高威力の上級魔術となるが、そんなものを使えば頑丈な造りとはいえ教師棟は大きく損傷するだろう。そうなれば、騒ぎを聞きつけた教師や生徒たちが集まってくるに違いない。


 状況は極めてエレシアに不利である。

 己の不利を悟り、焦るエレシアを追い立てるように黒陽が言う。


「一つ、良いことを教えてやろう。私は六時に時計塔で麒翔きしょうと待ち合わせをしている。もし私が姿を見せぬようだったら、青蘭せいらん殿にすべてを打ち明けるようにも言い添えておいた。そして現在時刻は五時四十五分。あと十五分でタイムリミットだ」


 この局面で、わざわざ情報を開示する利があるのかははなはだ疑問だったが、その宣言によってエレシアの焦りは加速した。


(でも、手がないこともないですわ。明かりよ。室内に明かりを灯すことさえできれば、闇は払われ深淵の霧の効果は大きく減衰する。その状態でなら攻撃を通すことが可能となりますわ)


 室内にある光源は二つ。一つは室内灯の小さなシャンデリア。スイッチはエレシアの背後、部屋の入口にある。そしてもう一つは、応接テーブルに置かれたランプ。しかし、そのどちらも聡明な黒陽は警戒しているはずである。現に、戦闘となる前、彼女はわざわざランプを消していた。


 仮に無理を押して室内の明かりをつけたとしても、黒陽はその隙を決して見逃さないだろう。なにせ明かりをつけた瞬間、エレシアの深淵の霧までもが無効化され、攻撃が通るようになるのだから。


 迂闊に動くわけにはいかない。だが、手をこまねいている訳にもいかない。

 八方塞がりの状況にエレシアは内心で毒づく。


(光や炎を発生させて闇を払えば、攻撃を通すことができるのですけれど。残念ながら、この素体ではそれは無理。適性のある属性しか使えないという龍人の特性が、ここへきて足枷あしかせになるとは思いませんでしたわ。となると、方法は一つしかなさそうですわね)


 チラリと小窓へ視線を投げ、そしてすぐに腰を落として身構える。

 幼女の顔をした殺人鬼は必勝のプランを悟られぬよう口を開く。


「それにしても一人で乗り込んでくるとは虚を突かれましたわ。もっとも、それだけの実力があれば当然ということでしょうか。けれど、それは主人を信用していないことの裏返し、とも言えそうですけれど。力の劣る男など信用できませんか?」


 取るに足らない挑発ではあるが、龍人女子にとってこの手の挑発は聞き逃せない類のものであることを、エレシアは長年の龍人生活を通して知っていた。実際、揺れることのなかった黒陽の顔に、ピクリと不快な色が浮かんだ。それを動揺と解釈し、エレシアは更なる揺さぶりをかける。


「ええ、わかりますわ。適性属性なしの半龍人など背中を預けるに値しませんよね」


 応接テーブルが派手にぜた。

 黒陽が闇の吐息ブレスを放ったのだ。

 回転しながら飛んできた大きめの木片が、エレシアの黒い霧となった体を突き抜け、背後の壁に当たって大きな音を立てた。応接テーブルのあった床には大きな穴が穿うがたれ、薄闇の中に黒煙を上げている。


「私が麒翔きしょうを信用していないだと? 違うな、私は誰よりもあの人を信頼している」


 挑発に乗ってきたことに内心でほくそ笑み、エレシアは幼女の体で肩をすくめてみせた。対する黒陽は超然と構えたままだが、声には怒気が含まれていた。


麒翔きしょうは立派な龍人男子だ。では、何をもって立派とするか? 決まっている。命を懸けて群れを守ることこそが、龍人男子の使命でありその全てだ。自分の女を傷つけられて黙っているほど、あの人は腑抜ふぬけていない」

「ならばなおのこと、共に手をたずさえて挑むべきだったのではなくて?」


 自分のペースへ引き込む話術。それは殺人鬼の必須技能でもあった。

 エレシアは余裕を取り戻しつつある。

 対照的に、黒陽の言葉は熱を帯び始めていた。


「貴様の乗っ取ったその体は、姫位きい六階級・最上位である武姫ぶきの称号を持っている。さきほども言ったが、龍人男子は群れを守る義務がある。そしてそれは、龍皇である父上とて同じ。もし、麒翔きしょうがその体を傷つけるようなことがあれば、仮に私の身を守るという大義名分があったとしても、父上は処分を下すだろう。その場合は良くて退学、正当性を証明できねば死罪だってありえる」


 ニヤァとエレシアの口角が吊り上がる。


「あはははは! 武姫ぶき六妃ろくひに次ぐ身分。妃が殉職じゅんしょくもしくは降格処分となった場合、次の妃は武姫の中から選出されるのでしたか。ふふふ、主人からすれば未来の妃候補ですものね。龍皇陛下にとって、風曄ふうかは大切な存在ということでしょうか。わたくしにとって、これほど好都合なことはありませんわ」


「だからこそ厄介でもある。武姫が傷つけられた、ただそれだけの理由で戦争にまで発展することだってあるからな」


「ええ、そうですとも。だからこそ、正体を見破られない限り、わたくしの安全は保障されていた。そして仮に正体を見破られたとしても、あの男子生徒は手を出せないともたかくくっていた」


「ふん、それは大きな間違いだな。もう一度言うが、麒翔きしょうは自分の女を傷つけられて黙っているほど腑抜ふぬけてはいない。しかしだからこそ、この件は私が片付けなければならない。あの人はきっと、私を傷つけた貴様のことを許しはしないだろうから」


「あら、あなたはわたくしを……武姫たる風曄ふうかの体をも滅ぼすというのかしら?」


「公主は母の身分を引き継ぐゆえ、私の身分は将妃しょうひ相当となる。つまり、この私に牙をいたのなら、いかに”武姫”といえども、この手で断罪することが可能となる」

「だから一人でノコノコとやってきたというのですか! あなたは!」


 その時、ピシャリと閃光が室内の闇を払った。それは一瞬の出来事だったが、この時に備えていたエレシアは的確に行動へ移すことができた。

 隠し持っていた短刀に《剣気》を宿し、一足飛びに距離を詰めて黒陽の腹部へそれを突き立てる。落雷の轟音が遅れてやってきた。


「一瞬の油断が命取り、でしたわね」


 幼女に扮した殺人鬼は、大人の色香で妖艶ようえんに笑んだ。

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