第58話 完全トレース

 決して


 龍人族は仲間意識の強い民族である。群れの仲間同士で助け合って生きていく彼らは、仲間が傷つけられることにとても敏感だ。過剰反応に殺気立ち、報復に闘志を燃やす戦闘民族。その荒い気性に恐れをなした人間は、龍人を害してはならないといましめた。


 特に地位の高い者が傷つけられた時ほど、その怒りの波は大きくなる。

 もし万が一、六妃クラスが傷つけられようものなら、例え相手が誰であっても戦争を仕掛け、そして死ぬまで戦い続ける。それが龍人族という民族なのだ。


 ゆえに、群れ内部においても、決して


 数年間共に彼らと暮らしたことでエレシアはよく知っている。龍人社会において、群れの調和を乱す行為はご法度はっとなのだ。


 だから白昼堂々と襲うような真似はできない。あくまで秘密裏ひみつりに、表向きは穏便に事を済まさねばならない。それが異分子たるエレシアに課せられた制約だ。


 エレシア・イクノーシスは、今日も波風を立てないように潜伏する。




 ◇◇◇◇◇


 授業を終えたエレシア・イクノーシスは、本校舎の廊下を堂々と歩いている。道行く生徒たちがぺこりとお辞儀してくるのを、残忍ざんにんな本性を表に出さないように注意して、片手を上げて笑顔で迎え入れる。


 生徒の群れが勝手に割れて左右に開いていく。道を阻む者はいない。いい気分である。あの体を手に入れれば、もっと愉快な気分になれるのだろうか。エレシアははやる気持ちからつい邪悪な笑みを漏らしてしまった。それは瞬きを挟む間もないほどの短い隙。誰も気付いてはいまい。だが、完璧主義者の彼女は、今すれ違ったすべての生徒を八つ裂きにして消してしまいたい衝動に駆られた。


 たぎるようにうずく全身の血を鎮めるようにゆっくり息を吐く。


(もちろん、そんなことはできませんわ)


 龍人族は仲間が傷つくことに敏感である。

 もしも多くの生徒が死傷する事態となれば、確実に大問題となり六妃の干渉を受ける。十万の群れを率いる最高幹部たちと対峙して勝てる可能性はゼロ。確実にこの身を滅ぼされるだろう。


 ゆえに、入れ替わる際にも細心の注意が必要である。少しの疑念も生じぬように、ターゲットの口調、癖、仕草を長い時間をかけて観察し、完璧にトレースできるようになるまで訓練する。そうして、本人と寸分違すんぶんたがわぬ役を演じられるようになってから、初めて事を起こすのだ。その女優顔負けの演技力は性格さえも完璧にコピーする。


 この一ヵ月半の間、物陰からターゲットを観察し続けた。

 今では、実際に見せる黒陽公主の一挙手一投足と、目をつぶって想像したその動きが完全に一致するまでに至っている。今すぐに入れ替わったとしても、黒陽公主を完璧に演じる自信がある。誰一人としてその違和に気付かないだろう。


 また計画の実行に際し、保険のためにサブの素体を入手した。襲撃に失敗し、学園での立場が危うくなった場合は、この体を捨てて逃走する段取りとなっている。その場合は、現在の快適な生活を捨てることになるが、仕方あるまい。あの最高の素体を手に入れるためなら、この程度のリスクは許容するべきだ。


 ふと、足を止める。

 噂をすれば影。前方から、あらゆる名工の芸術作品を凡作ぼんさくに落とすであろう究極の美が、近づいてくるのが見えた。千年に一人の才女。黒髪をなびかせ優美に歩むのは今回のターゲット・黒陽公主であった。


(ふふふ、わたくしの存在に気付くことのできないお馬鹿さん。どういうつもりか知りませんけど、わたくしの縄張りたる下院に足を踏み入れたのが運の尽きですわ)


 素知らぬ顔ですれ違う。

 体に触れただけで魔術式を解読できるなどと聞いた時は焦ったものだったが、そんな非常識な真似をできるはずがないという結論に落ちついた。闇と同化を果たす[深淵の霧]のカラクリを見破られた時は驚いたが、あれは師の開発した魔術なので他に知る者がいてもおかしくはない。


(でも、魂転化はわたくし独自のそれも[深淵の霧]以上に複雑な術式。あの短い時間で解読できるはずがありませんし、仮に解読できたとしても学園に潜んでいるというところまでは特定できていないはず)


 いや、あるいは――とも、エレシアは思う。

 聡明な黒陽公主のことである。こちらの思いも寄らぬ方法で、学園内部に潜んでいると察知しているかもしれない。例えば、エレシアの仕組んだ都合の良い状況を逆手にとって――


(いいえ、ありえませんわ。もし学園に潜伏していると特定できたのなら、そしてもし本当に触れただけで魔術式を解読できるのなら、片っ端から触れて確かめていけばいいだけのこと。その無礼な態度も、公主という立場があれば許されるでしょうし)


 ぶるんぶるん、とエレシアはかぶりを振った。

 しかしなぜか、不安を打ち消すことはできなかった。今、決行前夜というこの局面にきて、得体の知れない不安を感じるのは一体どうしてだろう。


 思い当たるとすれば獣王の森での一件だろうか。長い間、狡猾に立ち回り、数多の命を奪ってきた。その尻尾どころか、犯行手口が露見したことさえない。唯一の例外、その正体が暴かれたのはあの一度きり。つまらぬミスが重なった失態が、トラウマになっているとでもいうのだろうか。


(いいえ。例え察知されていたとしても、あの保険があるではありませんか)


 最後の二者択一。万が一に備えて用意しておいた最後の保険。


 百歩譲って、もし仮に学園に潜んでいることがバレていたとしても、エレシアに触れずして特定する事はまず不可能だ。


 現在の素体メインを手に入れてから、五年もの歳月が流れている。その間ずっと、エレシアはその人物を演じ続けているわけだが、一度として怪しまれたことはない。わずかな疑念すら抱かせたことはないのだ。


 即席で演じた商人の娘とはわけが違う。演じ続けた歳月の長さは、そのまま実績となり自信へと繋がっている。まさに年季が違うのである。ゆえに獣王の森でやって見せたように、失言を引き出すような手はもう通用しない。例え、カマを掛けたとしても無意味だ。騙し通す自信がエレシアにはある。


 そして完全な特定ができなければ、学園の――否、群れの規則上、エレシアに手を出すことはできない。ゆえに警戒しなければならないのは、黒陽公主に触れられること。その一点だけに注意していれば、エレシアの安全は保障されたも同然。


 だが何事にも不測の事態というものは存在する。もし万が一、その正体が露見するような事態となれば、強硬策きょうこうさくに打って出るしかなくなるだろう。黒陽公主の体を奪ったのち、すべての証拠を隠滅して逃走する。


 龍衣の袖口から、エレシアは黒い卵を取り出す。彼女が《気》を込めると、卵は禍々まがまがしい緑にあやしく発光した。


 ――主従しゅじゅうの卵


 魔物を捕縛ほばくし、封印した呪術的な卵である。

 最初に見た者を主人と定め、絶対服従を誓う呪術が組み込まれている。商人たちを始末するために使った植物の魔物も、そして黒陽公主を追い詰めるために使った「終末」等級の魔物――暴風タートルも、主従の卵によって持ち込まれ、制御されていた。


 そして今、エレシアが持っている卵にも「終末」等級の魔物が入っている。それが三つ、手元にある。これを解放すれば、学園には血の雨が降るだろう。


(そう。万が一の時は、教師も生徒もなりふり構わず皆殺しですわ。目撃者は消さないとね)


 残忍な笑みをエレシア・イクノーシスは浮かべた。

 すでに次の授業は始まっており、廊下には窓に打ち付ける雨の音だけが静かに響いていた。

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