第53話 不滅の殺人鬼
「エレシア・イクノーシスは、私の腹部に手を当てていた。まるで赤子を愛でるように優しい手つきでな。ではヘソの少し下には何がある」
「
公主様の問いに、専門分野であったため
「この呪術は、対象者の
ゆっくりと腕を組み、
「糸を引いて操り人形にするというよりかは、
簡易ベッドに横たわったまま、公主様は
「憑依とも少し違う。憑依とは、一つの身体に魂が二つ存在する状態を指す。本来、魂の定員は一名のみであり、そこへもう一つの魂を強引に押し込み、身体の制御を奪うのが憑依型呪術の典型的手法だ。では、一つの器に二つの魂を無理矢理押し込んだ場合、次に何が起きると思う?」
「
「その通りだ。憑依型呪術の欠点は、その不安定さにある。しかも、身体への定着率は本来の持ち主である魂の方が強いから、完全に乗っ取ることができず、弾き出されてしまう場合が多いんだ」
「最初に置いてある
謎の
「対して、エレシア・イクノーシスの使う呪術にはその隙がない。本来あるべき魂は加工され、奴の魂を受け入れる器とされてしまうからだ。そして本来の魂を器として使うことで、体が拒絶反応を起こすこともない」
饅頭理論で言えば、小皿の上に箱を置いてその中に饅頭を入れるようなもの。箱は饅頭を元に作られているが、もう食べることはできない。
つまり、加工された魂は魂に
「要するに、完全な乗っ取りが可能ってことか」
別の言い方をすれば、好きな身体を選んで転生し、第二の人生を
「ちょっと待て。その理屈だと次から次へと肉体を乗り継いでいけるってことか」
「そうだ。エレシア・イクノーシスとは、大元となった人間の名前だろう。そして現在の姿は違う。龍人の――我々のよく知る何者かに扮している可能性が高い」
◇◇◇◇◇
その
本校舎の廊下には、窓に打ちつける冷たい雨音が断続的に響いている。
顔面蒼白の桜華が「嘘……」と
おそらく
「嘘じゃない。これは紛れもない現実で、脅威がすぐそこまで迫っているんだ」
いやいやと桜華がかぶりを振り、駆けだそうとしたその腕を
「信じたくない気持ちはわかる。日常に殺人鬼が潜んでいるなんて恐ろしくて堪らないからな。だけどこうなった以上、
公主様の推理によれば、エレシア・イクノーシスは浮遊霊のように魂だけでの移動が可能らしい。そして術を施した肉体を自由に行き来できる。もしこれが不可能だった場合、アリスを
「だけど実際、夏季特別実習に参加した学園関係者は全員無事に帰還したし、行方不明者や死亡者もでなかった。なら、エレシア・イクノーシスは健在だ」
この推測がどこまで当たっているのかは、公主様でも断言はできないようだった。だから学園にも報告はしていない。殺人鬼の正体もわからないまま公表すれば、疑心暗鬼となり、魔女狩りが始まりかねないと公主様が判断したためでもある。
そして今日、状況が変わった。
不吉な推測が現実になろうとしている。
行方不明となった女子生徒がエレシア・イクノーシスの手に落ちたのだとすれば、それは
一般的にスペアとは、メインが壊れるなどして使えなくなった場合の代替品として用意される。今回のケースでのメインとは、現在使われている龍人の
つまり――
「これは宣戦布告だ。表立って黒陽を狙うという意思表示なんだ。いざという時は、スペアに乗り換えて逃走を図るつもりでいる」
「だったら、先生に報告しないと」
体を密着させた状態で、不安そうに桜華が身じろぎした。
この真っ当な提案に
「だめだ」
「なんで!」
「一番怪しいのが教師だからだ」
「今にして思えば、たかが魔獣相手とはいえ武器を持ち込めないのは、やっぱりおかしい。実践を経験するだけなら武器の有無は関係ないはずだ」
「でも、簡単に倒せちゃったら訓練にならないよ」
「建前上はな」
「つまり翔くんは、別の思惑があったって言いたいんだね」
頷き、桜華の頭を撫でてやる。
「そもそも、
「うん、それはわたしもおかしいと思った」
「エレシア・イクノーシスの思惑はこうだ。都から遠く離れた地を選ぶことで、すぐに援軍を寄越せないようにした。その間に暴風タートルを使って本陣を荒し、返す刀で黒陽へダメージを与える。のちに黒陽の身体を乗っ取り、本陣へ帰還することになるが、本陣でも大きな被害が出ているので、黒陽の体に傷がついていても疑われることはない。混乱の渦中で入れ替わりまで成功させるつもりだったんだ」
公主様の実力から考えて、もしも武器を携帯していれば、無傷の内に暴風タートルを葬っていただろう。そうなっては困るので、武器の使用を禁じた。
「その調整が可能だったのは、教師しかいない」
桜華がはっと息を呑んだ。反論は返ってこない。了承したものとみなし、
「よし、行くぞ」
「え? どこに」
柱の陰から滑るように身を
ドアを開けた瞬間、大きな雨音が耳に飛び込んできた。裏口は教師棟へ続いており、通された渡り廊下の屋根に大きな雨粒が当たって、弾け飛ぶ音が連続してマシンガンのように響いてくる。
その渡り廊下を進む影が一つあった。
「容疑者は三名。学年主任の
渡り廊下を行くその人物を指差す。
女性としてはかなりの長身である。背筋はピンと伸び、歩幅はきっちり等間隔で区切られている。長く伸ばした黒髪は後ろで結い上げられており、うなじがやけに艶っぽい。眼鏡の耳掛け部分もチラリとだけ覗いている。
「え!?
「だから声が大きいって」
おしゃべりな桜華の口を手で塞ぎ、しーっと
先ほども容疑者の一人を尾行していたところ、桜華に大声で呼び止められてしまい、慌ててその口を塞いだというのが実情だった。
「だというのに、
「だってそんなのわかんないもん」
むすーっと桜華がふくれっ面をする。その額に軽くデコピンを見舞い、
「次からはもう少し人の話を聞くように」
「うー、納得いかないー」
額を指先でさすりながら桜華が恨みがましい目を向けてきたが、
その背に駆け足で追いついてきた桜華が疑問を口にする。
「でも、なんで
「まず、容疑者にあげた三名以外はみんなアリバイがある。これはいいな?」
「ん-、夏季特別実習の地は学年ごとに異なるから、二年生と三年生担当の先生にはアリバイがあるってことだよね」
「そうだ。龍人族の領土に転移門はないから、遠く離れた地へワープはできない」
――転移門。
それは離れた二地点間の空間を繋げる大掛かりな魔術装置である。
転移門の管理維持には国家規模の予算が必要となり、それは個人で所有できるような代物ではない。またこの世界において、個人で使用できる転移魔術は存在しない。つまり、空間転移によるアリバイ工作を考慮する必要はない。
「そうすると犯行が可能だったのは、一年担当の
「なるほどー」
幾分、冷静さを取り戻した桜華が頷いた。顔色も元に戻り、平時の能天気な彼女が戻りつつある。人は得体の知れない物には恐怖するが、因果関係のはっきりした物には意外と強い。犯人の目星がついたことで恐怖が和らいだのかもしれない。
壁のない渡り廊下には時折、横殴りの雨が吹き込んでくる。さりげなく桜華を守るように壁役となりながら、
「暴風タートルが本陣に被害をもたらしたのは二日目の夕頃。その際、対応に当たった教師二名は暴風タートルに敗北し、一時行方不明となっていたらしい」
「うん。生徒を守るために囮になって崖から落ちたって聞いた」
「ああ、だけどこれってめちゃくちゃ怪しいよな」
「ん-、そうかな?」
能天気モードへ移行した桜華が首を傾げた。緊張の緩んだそのお気楽な様子に
「アリスを操っていた三日目から四日目にかけて、龍人のボディは魂の抜けた寝たきりの状態だったはずだ。行方不明という状況はこれを隠すのに打ってつけのシチュエーションだとは思わないか」
桜華の目が真円を描くように見開かれる。
「翔くんすごい。陽ちゃんみたい」
獣王の森、二日目の夕頃。犯人は、暴風タートルとの戦闘を装い戦線を離脱。その足で
「おそらく本体はどこか安全な場所に隠しておいたんだろう。行方不明だった教師たちが見つかったのが五日目の昼頃だから、時間もピッタリ合う」
「ん-、でもさ。仮に犯人が
「二人とも同じ場所で発見されたというのは初耳だな……」
「だとすると、何かしらの方法で
ちょいちょいと桜華に袖口を引っ張られた。
「わたし思うんだけどさ」
彼女はどこか遠慮のある控え目な口調で言った。
「わざわざ行方不明を演出したのは、こうやって疑われることを想定して、アリバイのない人間を増やしておくって意図もあったんじゃないかな。だとしたらやっぱり、最後の二者択一となる教師二名は、事が終わるまで行方不明でないとまずいよね」
ウエスポートの都市伝説。
大量の殺人が行われたにも関わらず、死体は一つも発見されなかった。
もしもこの話が本当だったなら、エレシア・イクノーシスは相当に
そのような殺人鬼が完全犯罪を狙うなら、アリバイ工作という
「そうか。この事態を見越して、はっきり特定させないために、意識を失った同僚教師を自身の管理下へ置いたのか」
敵は油断のならない相手だと
「桜華にしてはなかなか鋭い指摘じゃないか」
「あー、翔くん? 今、わたしのことバカにしたでしょ」
桜華がとっても心外ですって顔をしてむくれてみせた。そういう顔をされると、ついからかいたくなってしまう。
「バレたか」
「うー、むかつく!」
頬を膨らませてフグみたいになった桜華が、ぷふーと息を吐いて疑問を口にする。
「でも、偶然森に迷い込んだアリスちゃんを都合良く狙えるものなのかな」
「偶然でないんだとしたら、必然だったんだろ」
「えー、どーゆーこと?」
「エレシア・イクノーシスほどの魔術師であれば、街道に魔獣を放って商隊を森へ追い込むこともできただろって話だよ」
「なるほどー」
横を歩く桜華が
「まだ質問に答えてもらってないよ。どうして
問われ、
「呪術は闇属性の
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