第52話 鬼畜の所業
「エレシア・イクノーシスは生きている」
全身を包帯で覆われた重傷の公主様が、簡易ベッドに横たわったまま、
獣王の森から脱出を果たし、本陣へ向けて帆馬車を走らせていた時のこと。
突き抜けるような青空の下、
「生きてるって、さすがにあれは助からないと思うぞ」
商人の娘・アリスを称するエレシア・イクノーシスは、
「うんうん、わたしも翔くんに賛成。龍人でもあれは助からないよー。
帆馬車内で、公主様に
太陽光が顔に当たり、ポカポカと温かい。疲れを感じさせない軽い足取りで
「あれで生きてたら、もはや生き物じゃない。亡霊だってんならわかるけどな」
「亡霊。そう、的を射た響きだ」
冗談のつもりで口を突いて出た言葉に、
「どういうことだ」
自然、口調は硬いものとなった。
少し間が空いた。ガラガラと石畳を踏む車輪の音だけが周囲に響く。
「私は体に触れた魔術式を解析することができる」
「ええー!?」
さも当然とばかりの公主様の言に、桜華が驚きの声を上げた。
が、そもそも魔術適性のない
「そんなに驚くことなのか?」
「当たり前じゃん。点字ブロックを指でなぞるのとはわけが違うんだよ!」
リアクションの薄い
「それで、それがエレシア・イクノーシスとどう繋がるんだ」
「
そして公主様は単刀直入に結論を述べる。
「あれはエレシア・イクノーシスの本体ではない」
思わず、帆馬車を引く足を止めそうになる。急に減速したことにより、ガクンと帆馬車が大きく揺れた。短い悲鳴があがる。
「ちょっと翔くん。針が指に刺さったんですけどー」
「すまん。いや、そんなことよりも。本体じゃないってどういうことだ」
公主様の落ち着いたよく通る声が、言う。
「アリスに施されていた魔術式は二つ。一つは、闇と同化する術式。これは
「闇と同化って……そうか、黒い霧が漂ってたアレか」
「そうだ。そしてもう一つ、精神操作系の呪術が施されていた。そのすべてを解析できたわけではないが、おそらく術者の魂を無理矢理移植する類のものだろう」
――
それは闇属性魔術の
「つまり、アリスは操られていただけってことか」
「そうだ。彼女は、エレシア・イクノーシスの操り人形として使われた哀れな女子だったというわけだ。おそらく状況から考えて、商人の娘という肩書きは本当だったのだろう。獣王の森に迷い込んだところを奴の手にかかった」
車輪が軋みをあげて止まった。帆馬車は完全に停止し、
「じゃあ、俺は無実の少女を殺したってことか」
「それは違う。呪術を施された時点でアリスの魂は加工され、もはや自我は消滅していた可能性が高い。あれはエレシア・イクノーシスの数あるボディの一つだった。ゆえにすでに死んでいたという表現が正しい」
公主様の気遣いに、
仮に自我が消滅していたのだとしても、無実の少女にトドメを刺したのは
だが、後悔があるかと言えばそれは違う。仮に同じ局面が訪れたとしても、やはり
そうして生まれた葛藤の狭間に、怒りがふつふつと湧いてきた。他人の体を乗っ取り我が物とする。その悪魔の如き所業に全身が熱くなる。まさに禁呪。邪道とされるだけの理由がそこにはあった。絶対に許してはならない。
「エレシア・イクノーシスの本体はどこにあるんだ」
腹を据えて話を聞くため荷台へ上がり、公主様の横たわる簡易ベッドの脇へ腰を下ろす。その
公主様は目の端で
「おそらく学園の関係者だ」
予想だにしなかった返答に、
絹に針を通していた桜華の手もピタリと止まる。
「ま、待て待て。話が飛躍しすぎだ。どうしてそうなった」
「そうだよ、陽ちゃん。学園にエレシア・イクノーシスなんて人いないよ」
「桜華の言うとおりだぞ。龍人の命名規則にも合致しない。あれは西方人によくある名前だ。それに龍人は群れを作って生活する種族だから、家名は存在しないだろ」
矢継ぎ早に繰り出される反論に、公主様はフフッと不敵に微笑んだ。
「奴が普段使っているボディは龍人だ。これは間違いない。思い出してみてくれ、どうして奴はトロピカルテングタケをおいしいと言ったのか」
獣王の森。四日目の夜。
夕飯の食材を調達してきたアリスは、カゴに入ったたくさんのキノコを自慢げに見せてきた。そして横合いから覗き込んだ桜華が、トロピカルテングタケに喜んでみせると、そのお気楽なテンションに乗せられたのか彼女は「おいしいですよ」と口走ってしまった。
毒キノコをおいしいなどと口走った矛盾。それが決定打となり、公主様は
では、なぜ失言してしまったのか?
公主様の発言を
「…………まさか、食べ慣れているからだとでも」
「そうだ。毒を食べて当たり前。その認識があったからこそ、あなたは失言に気付くのが遅れた。そして同様の認識がエレシア・イクノーシスにもあったからこそ、奴はうっかり『おいしい』などと口走ってしまったのだ」
公主様に指摘されるまで、アリスはその失言に気付いていなかった。その
腑に落ちるものがあり、
「なるほど。龍人だと考えるのが一番自然だな。だが、学園関係者だと決め付けるのは早計じゃないか。あそこは
「奴の目的は私だった」
揺るぎのない絶対の自信をもって公主様は言った。
「自分で言うのもなんだが、千年に一人の才女と呼ばれるほどに私は優秀だ。容姿、能力、身分どれをとっても私より優れた者は存在しない。身体を乗っ取り手駒として使うとしたら、これ以上の
簡易ベッドに横たわる公主様は、漆黒の瞳だけをこちらに向けて、どうだ異論はあるかと問うている。胸元の膨らみが、薄い
「一歩間違えれば、
「そうだ」
短い、けれど力強い答え。
公主様が失われる。その喪失感と絶望から動揺を隠せない
「公主である私が獣王の森へ赴く。この情報を事前に知り得ない限り、あのタイミングで仕掛けるてくることはまず不可能だ」
だんだんと
龍人の群れは独立性が高く、国家並みの情報管理体制が敷かれている。国の重臣たちが、他国へ国家機密を漏らすことがないように、群れに所属する龍人女子たちもまた、他の群れへ情報を流すような真似はしない。また、生徒が学園から出られないのも、情報規制という観点からの措置である。学園の行事とはいえ、外部からその詳細を知ることは極めて難しいだろう。
「その情報を知り得たのは、学園関係者しかありえなかったってわけか」
しかし、納得するのと同時に疑問も浮かんだ。学園関係者だというのなら、学園で生活する日々の中で、チャンスはいくらでもあったはずである。どうしてわざわざ獣王の森で凶行に及ぶ必要があったのか。この疑問に公主様はこう答えた。
「公主である私に表立って危害を加えれば、父上と母上が黙っていない。ゆえに学園で襲うのはリスクが高すぎる。その点、人間を使って攻撃を加えるのなら、失敗しても知らぬ存ぜぬで通すことができる。奴にとって、今回の夏季特別実習は千載一遇の好機だったというわけだ」
用済みとなったら、すべての罪をアリスに着せ、闇へ葬る。本体は別にあり、エレシア・イクノーシスは痛くも痒くもない。
確かに、理にかなっている。だが、人道に反している。
その鬼畜の所業を
「絶対に生かしておけねえ。見つけだしてぶっ殺してやる」
必ず、果たさねばならない。エレシア・イクノーシスの完全なる討滅を。
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